さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

久々に妻と並んで寝転んでおしゃべりした話

こんなことをつぶやいていた(うるさい

主に「子どもが生まれて1年経つけど、なにか変化を感じてる?」という問いでおしゃべり。幸せな時間でした。
自分が伝えた話も、備忘的に残しておこう。

えーちゃん(1歳の息子)が生まれてから、えーちゃんの前では素が出せるようになった、というのは2人とも共通だった。そりゃそうだよねー。

自分はそういう、素でいられる感覚がじわじわ身に沁みてきて、素でいられる時間が職場でもどこでも増えてきたなと感じるし、素でいられる度合いも増してきたように感じている。自分としては悪くない流れだと思うから、もっと広げていけるといいなー。特に英語の授業では、まだまだ先生然と振る舞う時間が多いしかたいから、ゆるめていきたいところ。

あとは、「子どもが産まれたのを機に、『善い人であろう』としている」みたいな話も。たとえばゴミが落ちてたら拾った方がいいし、家でも学校でも拾えたらいいし、街中でも拾えたらいい。「そんなにどこでもゴミ拾ってたらきりがない」ってのはホントにそのとおりだし実際全然できてないけど、できてないから、きりがないからそれでいいやっていうわけでもなくて、現実としてできてないことと、理想としてできたらいいなってことをどちらも抱き続けたい、というか。
「善い人であろう」と言うと、倫理的な話に聞こえるけれど、「愛情深い人になろう」というのがより近いなーとも思う。
ホント、今の職場に来て、子育てを始めて、いろいろな人に出会う中で、「愛こそすべて」ってわりと冗談抜きで思うようにはなっている。ゴミを拾うのも、その場への愛があればこそできることだし、愛着持てる場が広がればきっと幸せなのではないか、と。
別にゴミ拾いに限った話では当然なくて、妻に対しても、子どもに対しても、もっとできたらいいなってことは無限にある。一声かけられたらいいなとか、もっとこうしてあげたらよかったなとか。それができてない現状は受け容れることと、もっとよくなることを諦めないことは、きっと両立するはずだ、なんてずいぶん青臭いことを言っていた。でも、そういうことだと思う。

あとは妻から、「あなたは両親同士の関係がいいし、両親とあなたの関係もいい。それは貴重で幸せなことだ」的なことも言われた。たしかに、悪い関係を見ていないから、善い関係を築きやすい、というのはあるんだろうな*1。「俺って貴重?大事にしてね!」と伝えておいた。




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話し終わって、今ブログを書きながら、これを聞いている。

♪何度でも期待するの バカみたいなんかじゃない だからKeep Tryin'

ってのは、上に書いた話と通じるなーと思うし、

♪どんぶらこっこ 世の中浮き沈みが激しいなあ どんな時でも 価値が変わらないのはただあなた

ってのは、妻や子にとってそう思われる人でありたいし、妻や子、そこから広げてどの人に対しても、その価値を変わらず信じ続けられる自分でありたい。

にしても、昔から好きな曲だけど、時代時代で刺さる場所が違うの、いいなあ。

*1:自分が小さい頃、台所におかわり取りに行った親父に「ぼくの分も取って」と伝えたら断られた、ってのが記憶に残っている。たまたま親父の虫の居所が悪かったのだと思うけど、こんな些細なことが記憶に残るくらい、親父は精神的に安定していたんだなーと思う。