さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

超相対性理論&旧友との再会

相対性理論というポッドキャスト#18 真面目に遊ぶ人類の謎(後編)【超相対性理論】 by 超相対性理論を聞いた。超面白かった。

仕事も遊びにできるか、という切り口から、細かいライフハック的なこと(単純作業は数人で時間を決めてゲーム的に取り組むと楽しめる、とか)から、もう少し大きな話(KPIを決めるってまさにゲームの設定を決めるってことで、それをすると目の前のことに集中して取り組みやすくもなるけど、そもそもそのKPIって上から降ってきた感もあるよね、とか、遊びの条件の話とか、ゲーミフィケーションの話とか)まで色々あった。
この人たちの話の中には「往還」とか「バランス」という話がしばしば登場するけど、今回も、「ゲーム化してフローに入って、目の前の仕事に取り組む」という没頭の場面と「その一連の仕事のゲーム設定や難易度、情報負荷は自分にとって適切か」というチューニングの場面を行ったり来たりする必要があるということかな、と感じた。
そうそう、チクセントミハイのフロー理論も取り上げられて、ポッドキャスト終盤では、動物的に一つのことに集中してとりさらわれてる時間(≒フロー)を楽しんでいこう。そのためにリテラシー(≒スキルや訓練)が必要、という話が出てきた。ここからが佳境になる。

「パーティに行ってつまらなかったときは、パーティが悪い可能性もあるし、パーティで出された料理を楽しむリテラシーや、そこでの会話を楽しむリテラシーがなかったのかもしれない。楽しむために、没頭できるようになるために、一定の訓練や知識、リテラシーが要る。それには、自分でゲームを設計するとか難易度を上げるとか、情報負荷をコントロールするとか(これらは「遊び」の条件らしい)、その階段をじゅんじゅんにのぼっていくしかない。」という意見がそこに続き、それにインスパイアされた深井さんの言葉が素晴らしかったので、半文字起こし。

これ、すごいこと言ってる。我々が封建社会から脱して近代化したあとに、誰も自分たちの人生を楽しむためのスキルを磨くことにそこまで集中してこなかった。第二次世界大戦までは国家が強かった。第二次大戦以降、社会は我々の主体性に委ねられている。そこで我々はリテラシーをあげなくてはいけなかった。なんのリテラシーかと言えば、自分の人生を遊ぶリテラシー。そのリテラシーがないから遊べないんだという発想もできる。
ぼくたちはパーティに招かれている。人生というパーティ(ここ他の2人のテンションめっちゃあがってて面白かった。自分も聞きながら「かっけー!」ってびっくりした)。そこでは料理が出されたり、いろんな人に話しかけてもいい。でもリテラシーがないから楽しめないことがある。パーティの場面設定はけっこうランダムに設定されている。そのリテラシーをあげると、あなたはそのパーティを楽しむ方法を、自分で主体的に見つけられる。だれにもコントロールされてないんだよ、ってことが大事なのかも。

ここから、人生を遊ぶためには、問いの立て方が大事、なぜなら問いはゲームの形を決めるから。そしてそのためにリベラルアーツが必要。なぜならリベラルアーツの要諦はまさに問いを立てることだから、という結論めいた話に。いやー、面白いなー。

自分にとってこの話がまさにground-breakingだったのは、「人生を遊ぶ」「ぼくたちはパーティに招かれている。人生というパーティに。」というキャッチーなフレーズもさることながら、人生を遊ぶことを「スキル」「リテラシー」と、訓練可能な、いや、(広義の)訓練が必要不可欠なものとして捉えているところ。
「♪人生をフルコースで深く味わうためのいくつものスパイスが誰もに用意されていて」とか、人生を楽しむことを言い表した表現って数限りなくあるけれど、たとえばそのスパイスを見つけられる←→見つけられないと離散的に考えてしまうのではなく、リテラシーが低い←→高いと、連続的に捉えているのが今の自分にすんなり落ちてきた感じ。

自分の習性として、ゼロイチで捉えてしまうことがけっこうある。たとえば日々の仕事の中で、あの立場&あの場面で、ああいう言動が自分にできるかな、できないかな、とか。
他にも「楽しめる・楽しめない」の二分法もあって、「自分はあの人と違って楽しめてないなあ」と思ってしまうこともそこそこある。
それ自体は別にいいのだけど、その先で、自分は「楽しめない側の人間」と(無意識に?反射的に?)決めてしまうことがあったように思う。
一方、楽しんだり没頭したりすること、フローに入ることを、スキルと絡めて捉えるとどうなるか。「今(あの人ほど)楽しめていない」が事実としても、それは「現状の自分のリテラシーが(その人と比べて)足りてない」「今後の訓練(広義のね!別にビシビシしごき系のトレーニングがしたいわけではない。笑)次第で、楽しめるかも」と考えられる気がしたんだよな。

そして、人生を楽しむスキルってなんだろう?という問いにもつながる。これって、まさに今見ている子どもたちにつけてほしい力だよな、とも。いわゆる「生きる力」と言うと、ちょっと「それなしでは生きていけない」という切迫感や悲壮感が漂う(そう感じるのは自分だけ?)。でも、「人生を楽しむスキル」ってなると、今のままのわたしやあなたを肯定しつつ、同時に、もっとスキルが高まると、もっと人生楽しめるハズ、とポジティブになったり、肩の力が抜けたり、しないかしら。


そんなポッドキャストを聞きつつ、今日は旧友たちと会ってきた。自分が久々に上京するとお知らせしたら、4人の人が声かけてくれて(うれしかった!)、バラバラに会える時間もないし、せっかくなら一斉に集まってみる?と声かけして、みんな来てくれた。出身大学が同じという共通点以外は、みなはじめまして。最初はドギマギしたけれど、最近の様子を共有しつつ、雑談に花が咲いた。だんだん「それで言うと自分の場合は〜」とぼくを介さないコミュニケーションも生まれてきて、ああいいなあ、と。ホント、無理言って来てくれたみなさん、ありがとうございました。m(_ _)m
歴史ある大企業を退職して、金融教育やリスキリング教育のベンチャーに転職した友だち。子育てしつつ、プログラミングの学位をアメリカの大学で通信で取って、海外就職に挑戦する友だち。所属が変わっていない人も、今の組織でいきいきと、でもそれなりにモヤモヤもしつつ、元気にやっているみたいだった。

そう言えば、上に挙げたポッドキャストの前半には、ベーシックインカムで最低限の生活は保障しつつ、複数の所属先を持って人生を遊ぶ、みたいな話も出てきた。そういう意味で副業、興味あったりする。
なーんて話をしたら、「本業と副業っていう、目下の時間をどう配分するかっていう議論もあるけれど、もう少し長期のスパンで自分の人生をどう配分するかってのもありそう。ぼくの友だちは、ある期間ビジネス、ある期間政治、ある期間お笑いに自分の人生使ってみるみたいだよ」とも教えてもらった。そういう新しい視点もありがたいな。
今自分は私立校に勤めていて、私学共済というわりと手厚い仕組みがある。私学以外で働き始めると、これがどうなるのか。実はくわしく知らなかったりするから、もう少し調べてみて、副業的な動き方だったり、本業の中での自分の働き方だったりを、改めて考える材料にしたいね。


他の道に行った人と話すと、うらやましいなあと思ったりすることも正直ある。特に自分は収入的にそこまで恵まれそうにないとか、場所にしばられるとかは劣等感につながりうるところだなと思う。
でも今日思い直したのは、教員免許があるからだいたいどこでも死なない程度に働けそうなことや、場所が定まっているからこそその地に根ざして継続的な関係が築けるだろうことなどは、強みになりえるかも、ということ。そして何より、良くも悪くもフェイス・トゥ・フェイスの関係を築く必要があるというのは、改めて強みにしたいなと思った。

また、リスキリングという観点で言うと、転職ってすごいリスキリングだよなと思うのと同時に、一つの職場にいたとしても、自分をリスキリングの途上と捉えることはできそうだな、と思った。特に、個別具体的な知識の束という意味でのスキルというより、超相対性理論に出てきた「人生を楽しむスキル」を、今まさに獲得中だと思うと、いろんなことに前向きに、楽しく取り組めるような予感がしている。子どもがいることも好都合で、この子の成長とも合わせて自分も、もっともっと人生を楽しめるようになっていこう。

帰り道、ひっさびさに最寄り駅から家まで歩いて、いろいろな思い出があふれ出てきた。実家があるって、いいなあ。