さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

新年度、はじまって、一ヶ月。

 今年も中学生を見ています。スタッフがすべて設計するわけではなく、子どもたちに時間を手渡すことが、今年度増えている。「この学年を良くしていこう。そのために…」とか、「一人ひとりのつくり手意識を高めていきたい。そのために…」とかいうことを、本当に自分ごととしてとらえて、仲間とともに、楽しみながら場づくりに取り組む子たちが出始めている。頼もしい。そういう人たちへの信頼感が増していることと並行して、自分(たち)のマインドが変わってきているなと感じる。
 ただ時間を手渡すと言っても、「あとお願いね」と手放すわけではなく、「それじゃうまくいかないからこうして」と取り上げるわけでもなく、ひたすら粘り強くやり取りをする。どんな思いでそういう計画をしているのか、こういう視点から考えたらどうか、こういう子もいると思うけどどうか、などなど。残り時間とか、使う場所とかの想定もしておく必要があるから、わりと大変だったりもする。でも、そうして一スタッフとしての思いはもちろん伝えつつ、結果子どもが設計した場が、こちらの想定を超える動きを生み出すことは多々あって、任せてよかったなあと思う。
 動き出した一部の子どもたちに触発されて、場づくりにチャレンジする子が増えてきたのもうれしいことだ。いろんなタイプの設計があって、合う子合わない子は出そうだけど、どんどん試して、よりよい形を見つけていこうよ、という雰囲気が、もっともっと出てくるといい。

 ポッドキャスト超相対性理論を聞いている。前回の深井さん卒業回(「人文知の社会実装」)にて語られていた「ダブルエンジン」の話もとても面白かったなー。長期と短期、平時と有事、スローとファスト、生存チャネルと繁栄チャネル。秩序と混沌。効率と余白。自分の中でモードを切り替えられることが大事だよな、と最近思う。一方が良くてもう一方が悪い、ではなく、今このタイミングに何が合っているか、個人・集団・組織・社会・世界の中での、総体としてのバランスだよなーと。
 その後の、「思いがけずアナキズム」も、特に最終回の最後に出てきた話が面白かった。生きる言葉と生き延びる言葉。生き延びる言葉は、論理だったり数字だったり、共感を得やすい。生きる言葉は、そこをはみ出す。はみ出すところ、つまりは有用性を遠く離れたところに、「生きた心地がする」みたいなことも言われていた。
 盛田志保子さんの短歌と歌人穂村弘さんの話も引用されていた。
穂村 弘 ことばから生まれる世界 | 日本デザインセンター
こちら、穂村さんの講演録。似たような話があったので、引用。

少しでも全員が効率よく、安全に豊かに生きのびるためには、社会と世界を同一視する必要がある。しかし本当は、社会と世界はイコールではない。そして今挙げたNGワードは、社会と世界がイコールではない破れ目を示唆するものだからなんです。でも詩の機能は逆で、詩はその破れ目をこそ示唆する。真っ向から対立するんです。コピーライティングはきわめて特殊なジャンルで、破れ目を示唆しつつ、社会的合意を勝ち取るという非常に高度な感覚を要求されるジャンルですよね。
〜中略〜

雨だから迎えに来てって言ったのに
傘も差さず裸足で来やがって
――盛田志保子

「雨だから迎えに来て」って言ったら、「傘忘れちゃったから2本持ってきて」っていうことですよね、社会的合意の言語としては。ところが、迎えにきたんだけど、傘を1本も持ってなかった。雨の中ずぶぬれで、しかも靴も履いてない。もちろん二人でずぶぬれで帰りますよね。社会的には、このプロジェクトは大失敗です。でも世界的には、もしかしてこのときが二人の愛のピークなのではないか。なぜなら、「雨だから迎えにきて」という約束は守られたから。約束だけが守られて、何の役にも立たなかったという感動がある。もしかしたらこの瞬間を、僕たちはいつも待っているのかもしれない。だからこの歌は、怒っているような口調で書かれているけれど、怒っていません。むしろ感動している。
いろんな話をしたように見えますが、全部同じ話です。世界像と言葉の話ですね。

 生き延びる言葉は「社会」の言葉で、生きる言葉は「世界」の言葉なんだろうな。超相対性理論では「生き延びるではなく、生きるを一緒に」というような話で締められていた。
生き延びるを否定して、生きる。社会的に合意されないけど、自分にとって楽しいという瞬間があるということ。
 短歌で詠まれるのは、生きる言葉。「傘をさす」という生き延びることではなく、雨に濡れて寿命を縮めても、一緒に生きることを楽しもうよ、という相手からの機会の贈与を喜んでいるというこの歌。それがアナキズム的ということにもつながる。自由に、自分として、あなたとわたしで生きている。誰からも命じられてないのに。いいなあ。57577にピタッと収めていない感じとか、「裸足で」のフィクション感とかもいいよね。

 と、書いたところで、「生き延びる」は悪、「生きる」が善、みたいな話にしちゃうとよくないよね。知り合いが始めたポッドキャスト世界をほんの少し優しくするラジオ」でも、国際機関で働きつつ個人でコーチングもされているおーくぼさんが、「国際的な会議をして物事を動かすときは、自分は空港の滑走路で、ジャンボジェットの前で道案内をしている小さな一人、というイメージ。個人でコーチングをしているときはもっと小さい私用機だけど、自分が操縦席にいて好きに操縦できている気がする。どちらにも満足していなくて、ジャンボジェットじゃなきゃ届かないし、でもその中で一人でできることは限られているし…と感じている」のような話があって、すごいなあと思った。「人文知の社会実装」でも語られていた、ダブルエンジンというのがここでもあるんだろうな。引き続き、意識していこう。