さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『学力幻想』

学力幻想 (ちくま新書)

学力幻想 (ちくま新書)

読み終わりました。トイレ読書です。
とはいえ、正直良くわからなかったなあ、というのが感想です。

子ども中心主義だと批判した側も、子どもにとって何が必要かという議論をしているという意味では、広い意味での子ども中心主義の見方から抜け出せていないのではないかということである。
 それがおそらく典型的な形で表れているのが、勝田守一という教育学者である。この人はどちらかといえば科学主義の側に教育界を引っ張っていった東京大学の理論家で、日教組にも大きな影響力を持った教育学者である。
 勝田はあくまでも子どもの発達ということを強調する。その意味では子ども中心主義である。しかし、議論の中身としては科学主義で、経験主義批判という色彩が非常に強い。つまり、経験主義批判、科学主義の立場に立ちながら、言っている立論の仕方は子ども中心主義的である。子どもの発達を基軸に据え、教育の価値を考えなければいけないという立場から、政治や社会の論理は教育的な価値とは対立するものだという主張を、かなり早い段階からしていた。このように、子ども中心主義を批判した側も、広い意味での子ども中心的な視点に立っていたことは、この例からも、証明されるのではないかと思う。(pp.47-48)

さすがにこの勝田さんの議論が端折られすぎててよく分からなかった。まあ、それくらい知っとけよって話でもあるけど。笑
こんな感じで、読んだ時に疑問に思ったところをメモってはいたんだけど、今になって見返すとなんで疑問に思ったかすら忘れてるところもぽろぽろ。

 このような視点(引用者注:「<教え>の公共性を積極的におしだす場合にも、それは、<学び>の社会性からの離脱という契機を伴うものとして提起されている(p.87)」)が強調されるのは、近代において社会性と公共性が混同されてきたからにほかならない。教育においてとりわけそれは、子どもへの社会的関心の増大により「子どもの世界が絶対化され」る事態として現れる。その結果、教育は社会的問題の解決手段としてとらえられるようになる。アレントはそれを、「子どもたちに、大人たちが何世代にもわたって解決不能であることを自白してきた問題を解決するという重荷を背おわせること」(Arendt 1959)だととらえる。そしてそこに、先行世代である大人が公的世界の「一切にたいする責任を拒否」するに至る(Arendt 1977)事態をみてとる。(p.87)

教育に色々押しつけられるのもなんだかね、と思っていたのでなるほど、と。

能力という場合には、優劣や序列を伴って測られることがある。しかしたとえば、シティズンシップやその背景をなしている政治文化を持っている人と持っていない人を、能力によって序列化することが一般的にありうるかというと、あまりないのではないか。
 たとえば中学校三年生の社会科で、金融の分野などについて、私たちと中学生に同じ問題で試験をしたとしよう。すると、定期試験直後だったりすると、中学生の方が高い点数を取るかもしれない。知識のレベルだけでは中三生の方が高いこともある。しかし、その中三生に、実際に政治的なリテラシーが身についているかといえば、必ずしもそういうことはない。これは何を示唆しているかというと、政治的なリテラシーや文化は、個人に帰属する能力というよりも、むしろ私達の社会全体が持っている民主主義の文化や関係性に帰せられる側面が強いのではないかという点である。学校教育には、そうした民主主義の文化や関係性を伝えていく側面がある。(p.131)

いまいちよくわからなかった。ただ単に、この「試験」が政治的リテラシーを測る指標たりえてないって話なんじゃないのかなと。「試験で測れない」ならば「個人に帰属する能力ではない」は言えるのかしら。逆は言えそうだけど。

 政治についてすごく熱く語る人は語るけれども、全然関心のない人は関心を持たないだろう。しかし、集団全体として見れば、そこで民主主義が機能している。そういう社会もあれば、機能していない社会もある。個人に帰責していくような詰め方をしない教育というのも、学校の中にはありうるのではないかということである。(p.134)

うむむ。なんかわかるようなわからないような。


政治的リテラシーがそもそも分かってないけど、社会問題・システムに対する基本的な理解、自分の意見を持つための基本的な調査能力、他者と意見をすり合わせるコミュニケーション能力、みたいな話かなと思ってる。
それを個人ではなく社会全体としてみていく、となると、たとえば投票率とか、政治理解度とかそういう話になってきて、それまたその数値を、低い個人をディスるのではなくて、「全体として」低い社会に対して改善していくってことなのかしら。
少子化対策:数値目標設定の検討会議設置へなんて記事もあったけど、これも、産まない個人をディスるのではなく、「全体として」これくらい産む社会にするには何が必要か、みたいな話なのかしら。

周りにはシティズンシップとか政治的リテラシーとかについて研究されてる人も多いから、機会があったら色々聞いてみたいなあ。

とはいえ、次のトイレ読書はがらっと趣向を変えて、こちら!

詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)

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