さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

国語の研修から〜愛も、スキルも〜

 風越学園の夏休み期間は、子どもが来ていないこともあり、研修や夏休み明けの準備三昧。先週末は、あすこまさんプレゼンツの国語の研修にて、リーディングワークショップ(読書家の時間)と言っても、背景にある哲学には違いがあることを学んだ。

(以下ふり返っての自分の受け取りなので、不正確なところもあるかもです。)

 二項対立的に捉えると、片方は子どもの豊かな言語体験をまるっと重視する派で、教員の主な役割は、すぐれた読み手としてのロールモデル。読むことを愛し、子どもたちと同じ目線で読むことの楽しみを分かち合い、リーディングゾーンに没入して読む体験を子どもたちが積むことを促す。
 もう片方の極は、スキル主義といっていいんだろう。すぐれた読み手のスキルを子どもたちも習得することを目指す派で、教員の主な役割はスキルの指導者。その日の授業の目当てを決め、レッスンをし、その後の個別読書の時間もそのスキルに絞ったカンファランスを行う。教員自身がたくさん読んでいる必要は、必ずしもない。

 お互いにお互いへの批判があることや、調査によると読書スキルや読書熱についても、後者の方が成果が出ており、ホールランゲージ的なアプローチの前者は、批判にさらされ、下火であること、そういった流れの紹介のあとに、日本での読書教育の歴史の概観(多読と精読≒読書と読解の二分がどう扱われてきたか、とか)があるなど、とっても面白い内容だった。大村はまの読書通信(だっけ?)、全部読んでみたいなー!


感じたことその1:
 教育政策を決定する政治家の目線に立つなら、多分後者を推すの一択。EBE(エビデンスベーストエデュケーション)の流れもあるし、各回観点を決めて授業していくことで、授業者の保護者への説明も容易。いろいろな意味で広く推し進めるのにうってつけである。
 ただ一教員としてどういうことがしたいかってのは、また別だろうなーとも思う。今あすこまさんと組んで国語のカンファランスをやらせてもらったりしているけど、スキルを手渡す場面ももちろん大事だと思いつつ、「おっ、この本読んでるんだ。僕も好きなんだけど、どんなところが面白い?」なんてやり取りも大事にしていて、こういうのは楽しいなあと思う。
 同時に、彼らが読んでいる本を自分が読んでいないと、やり取りの質が途端に薄くなる感じもあり、、。やはり「教員自身がたくさん読んでいること」は、この実践をするなら核になるよなあという感触もある。

 そしてあすこまさんすごいなあと感じるところは、エビデンス的には後者が優勢な現状は踏まえた上で、自分が心理的にシンパシーを感じる前者的なアプローチで、どうすれば成果が出せるか果敢にチャレンジしているところ。スキルを軽視して「没頭さえしてればOK!」と言っているわけでは、決してない。
 特に「読書家の時間と作家の時間、読書ノートと作家ノートが往還するような設計ができて、子どもの中で読み手としての自分と書き手としての自分が同じく往還するようになったら、多読/精読の二項対立も乗り越えられるかもしれない」といった仮説でもって、これまでの読書教育・作文教育の実践を受け止めた上で、止揚というか、一段高いものにしようとしているのは、本当に尊敬。

 フロアからは、「子どもの読んでいる本を読んでいないとなと思う。同時に、読んでいれば、『ここでこのスキル(推測、とか)を使っておくとこの先ずっと楽しめるよね』などのあたりがつけられるから、スキルに関したカンファランスも精度が上がる」といった意見も出て、これまたとても共感した。
 まずは自分も伸びようとする読み手・書き手であることは、大事にしたい。つまり、読むこと・書くことに没頭すること自体の価値は認めて、「いまここ」の子どもの読む姿・書く姿を受け止めること。同時に、スキル的な部分にも目配りした上で、子どもの実態に合わせて手渡したり、時には指導したりもできること。
 教育には、「そのままでいいんだよ」とその子をまるっと受け止める部分と、「そのままじゃあいけないよ」と目指す先を示す部分があるというのはあすこまさんも時々言うけれど、それは当然国語の範疇で考えても当てはまることだと思う。


感じたことその2:
 リーディングワークショップにおける二項対立は、きっと他の教育的営みにも当てはまる。愛を育むか、スキルを育むか、なーんて言うと、さすがに単純化がすぎるか。笑
 この間終わったテーマプロジェクトの中でも、そういう二項対立のジレンマを感じた瞬間はあった。
 「土」という大きなテーマの下、5,6年生の子どもたちは自分(たち)の興味をスタートに探究を深めていき、僕は「土の生物・微生物」「土の性質」というチームについた。
 虫への愛が爆発していた「土の生物・微生物」チームは、終始楽しそうに風越の森の土を持ってきてはハンドソーティングで虫を探し、ツルグレン装置をつくって微生物を探そうともしていた。アウトプットデイ当日は、来場者にも生物・微生物探しを体験してもらうコーナーをつくって、大盛況だった。
 伴走している自分としては、もっと自分に知識があったり見通しがあったりしたら、知識的な部分やスキル的な部分をプロジェクトの最中にもっと手渡せたのかな、と思ったりもする。
 ただ終わった後、一人の子が「わたしは虫が好きじゃなかったけど、今回やってみて、ホント可愛いと思うようになった」と、ニコニコしながら手のひらの上のババヤスデを見つめているのをみて、たっぷりと自然に触れて、どっぷりと虫を探した経験が、彼女の中に虫への愛をたしかに育んだのだな、と思った。

 んー、まとまらなくなってきたぞ。以下さらにランダムに書いてしまえ(ォィ
 「愛かスキルか」じゃ当然なくて、「愛もスキルも」であるはず。願わくば愛がベースにあってほしい。愛→スキルという流れが生まれるだろうし、愛があれば長期的なスパンでの学習も生まれるだろう。たださっきのリーディングワークショップの効果検証の結果が示しているように、スキルを中心においた授業から愛が育まれるというのも当然ある。「最初は苦しかったけど、できるようになるにつれ楽しくなった」的な。
 自分はともするとスキルの方を意識しがちだけど、こういう子どもの姿から、大事なことを思い直すし、次のプロジェクトの構想に活かしていきたいなと思う。ああ、そういえば去年のテーマプロジェクトは「愛」が中心テーマだったな。少しずつ、その大切さが去年より分かってきたような気がするぞ。
 上に紹介したババヤスデラヴァーの子の中に愛が育まれたのは、ラッキーパンチ的で、自分がそこに寄与した感じはあんまりない。邪魔しなかった、くらいか。でも本来は、こういう「愛を育む」も射程に入れてプロジェクトを構想したいよね。狙い通りいかないにしても。
 さらに急ぎ付け加えると、こうして「邪魔しなかった」と自分の関わりを過小に残してしまうのはあんまり良くないことだよなとも思う。過不足なかったかは別にして、いろいろな本を手渡したり自分も手を動かしたりと、彼らの探究に寄与しようと必死だったわけで、そこは自分で自分を、それこそ過不足なく評価してあげなくちゃなーと。

 どういう手法を取るか、その目的は何か、そこに教員としての自分はどう関わるか、といったところは密接に結びついていて、「手法」を考えすぎるとダメダメになりがちだなと思うから、きちんと目的から下ろして考えられるように意識していこうね


感じたことその3:
 ひるがえって、英語教育、外国語教育は。そもそも子どもの体験自体が、日本という環境ではそもそもかなり貧弱。「愛も、スキルも」という(ちょっと気に入り始めた)フレーズで考えるなら、そもそもの愛を育む土壌に乏しい。そこはこの日本という環境の中で、けっこう恣意的につくらないとなと思っている。同時に、スキルの部分の多くを機械翻訳が代替可能になりつつある現状も、考えちゃうところだ。それなのに受験でのニーズはまだまだ高いっていうところもね。
 複言語主義的なことが自分の新しいテーマになってくるかなーと思ったりしているが、まだまだめっちゃ浅いから、ともかく動いて、考える材料をたくさん得たい。そのための準備をする夏にしたい。


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「愛」というキーワードで思い出す曲たち。「人として」は、昭仁さんがカヴァーして、それはそれは素晴らしかったんよ。。(涙)