さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『アメリカの教室に入ってみた』読了

読み終わりました。面白かった!

アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで

アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで

ニューヨーク州シラキュースという街で様々な学校を訪問し,フィールドワークを行なった著者による一冊。

  1. 貧困地区の公立学校の様子を紹介する
  2. 日本とは異なるインクルーシブ教育の様子を紹介する
  3. 新しいインクルーシブ教育を展開している私立学校の様子を紹介する

という3点をねらって書かれていましたが,どれも狙い通り面白かった!
色々な場面で,頭の中の加藤浩次さんが「当たり前じゃねぇからな!」と吠えていました。
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「今・ここ」の既成概念を打破するには,やっぱりここではないどこかについて知るのがよいなあと思います。

最初の方に描かれていた抑えの利かない先生の前で騒ぐ生徒の様子には心臓がキュッとしたし,その後の日米のインクルーシブ教育の差は,表層的な比較にとどまらず,その奥にある子ども観というか,あるべき教育観の違いも垣間見えて非常に面白かった。
たしかに子ども同士のやり取りや,感情の言語化,日本の学校ではよく見られるなあと思ったけど,改めて気付かされた。そうか,これは当たり前じゃないんだな,と。

「日本の教育は集団主義的でダメ!軍隊をつくるための教育を今だに引きずっている!」的な批判はよく聞くけれど,じゃあそういう人にとって,ここに描かれているアメリカの教育はどう映るんだろう。わりとリベラルというか,価値中立的なつもりだった自分も,「おいおい,それでいいのか?」と思ってしまう部分がけっこうあった(授業から外れている生徒にずっと声掛けせずに授業が終わるとか)。

こういう風に対比的に物事をみることで,気づかずに依って立っていた前提が可視化される。それはきっと,その前提を乗り越えるための第一歩なんだろうな。「当たり前じゃねえからな」座右の銘にしていこう(ホントか?)。

食育なんかも対比が鮮やかで,
日本「残さず食べようね」←アメリカ「むしろ食べる量を自分で適切に管理できることの方が大切」
日本「バランスよく食べようね」←アメリカ「持たせる弁当は親の責任」
なんて感じで,非常に参考になった。

そしてこの図表(p.128より再構成)。

individual relationship
sameness   日本的インクルーシブ教育
difference シラキュース的インクルーシブ教育  

どちらも一長一短で,この右下に移動するにはどうするのかなーと考えながら読み進めていたけど,見事にそれに答える第三部でした。p.195には以下の図表が出てきます。

individual relationship
sameness   日本的インクルーシブ教育
difference シラキュース的インクルーシブ教育 New School

同一学年の中でのみ学習していると,違いはすなわち良い悪いにつながりがち。でも異学年での学習が主流になると,そこにある様々な違いは,あまりにも違うために捨象されざるをえなくなる。だからといって個々人に閉じて放置されるわけではなく,協同化の学びが重視されている。違いを尊重しながら,つながる。いいねえ。

そういう教育を構想する際に,改めて苫野さんの著書がひかれていたのも象徴的だった。さすが。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

そして,たとえば生徒の使う言葉とか自分の何気ない態度にまで注意を払って教育にあたるなんてこと,1人の,もしくは少数の教員だけでできるものじゃないなと思わされた。教員集団としてことにあたる必要があるし,もっと言えば家庭だって巻き込まなくちゃあ当然ダメだ。それをどう実現させていくか。当然答えは見えないけど,改めてもっともっと考えていきたいテーマだな。