さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

自分の幸せを決めるのが自分であるということについて

ほぼ毎晩,遠距離結婚の妻と電話している。だいたい晩ご飯食べながらテレビ通話と,寝床で電話。楽しい*1
いつもその日にあった出来事とか次のデートの話とかをしているわけだけど,時々価値観の違いが見えたりして面白い。
昨日は,妻が読んだという新聞への投稿が話題になった。「自分の幸せを誰かに教えてほしい」という話。「小中高時代は答えがあって,それをなぞることで成功できた。でも大学に入っていざ就活という段になって,何をするのが自分の幸せか,自分で考えろと言われる。自分の幸せが何かなんて,誰も教えてくれなかった。私はどうすれば幸せなのか,誰かに教えてほしい」的な記事。
誰かが「みんな迷子の時代」と言っていたように,昔のように,勉強→いい企業→素敵なパートナー=幸せ,みたいなものが崩れる中で,転職も離婚もまあ普通,自分の好きなことで生きていくのが幸せ,みたいな価値観が広まると同時に,そんな自由になんて言われても困ってしまいますわ,という声もある。
3年半くらい前にブログに書いた記事を思い出した。選択肢が多すぎる! - さんだーさんだ!(ブログ版)
思い出して開いてみたら,冒頭から「個人主義自由主義の発達したこの世の中に生きる僕たちには,嗚呼かようにも選択肢が多すぎるよ!」って書いてあって笑った。そうそう,そういうことよ。笑
…と思って読み返してみると,うーん,やっぱり面白いな。自分が面白いと思うことを面白いと思うように書いているから当然っちゃ当然なんだけど,やっぱり何かが衰えてきているような気がしてならない。「よい書き手になるには書き続けなくては」なんだから,そういう意味でももう少しブログの頻度を上げたいな。

閑話休題。妻は大学から遠隔地で一人暮らしを始め,大学院,初職,2つめ,現職と,それぞれ違う町に住んでいる。そんな彼女は,「自分の幸せを自分で決められる」ということに幸せを感じているとのこと*2。それに対して自分は,「自分の幸せを自分で決められること」って,なんというか,事実ではあるけどそれを幸せと思えるかはちょっと分からない,と返した。

「自分の幸せは自分で決める」というか,「自分の幸せを決められるのは自分だけ」というのは,事実だろう。周囲から「こうするのが幸せだ」と言われて,それがたまたま自分に合っているとしても,「自分に合っている」と判断しているのは自分なわけで。

そういう意味で自分はそれを「引き受けるべきこと」と思っているし,最近は自分の幸せを自分で決めるというかわかる感覚がついてきたような感じもするけれど,妻の言うように「それ自体が幸せ」という感覚は薄いような気がする。この違いがどこから来るか,そしてこれからどういう違いを生むのか,よく分からないけど,とにかく楽しみだ。

そうこう書いているうちに,小林和之さんの『「おろかもの」の正義論』を思い出して読んでみた。

「おろかもの」の正義論

「おろかもの」の正義論

第7章「選択の自由があるのはいいことか」。やっぱりこの人の文章はうまいし,わかりやすいし,唸らされる。いくつか抜粋してみる。

 このエピソード(引用者注:アメリカのハンバーガーショップで好みの具を選べと言われるも英語がわからず適当に返事していたら全部乗せのハンバーガーが出てきてしまう)の教訓の一つは,選択の意味がわからなければ,選択の自由は存在しないということだろう。(中略)そして,自分の選んだ結果が不味かったら? 自分で選択できるということは,選択の結果についての責任を負わされるということでもある。(中略)自分では何も選択せず,作り手のベストを賞味して,気に入らなければ文句を言う。こっちのほうが幸せではないか?(p.130)

 これまで述べてきたような考察を踏まえて,選択肢を磨き上げ,そのインフラを整備し,理想的な選択状況を作ることがもしできたとしたら,選択の自由が増えることはいいことだと言えるようになるだろうか。おそらく,それでもなお残る問題は,選択の自由は強者をより有利にするということだ。(p.138)

 選択の自由の拡大は,競争社会にふさわしい考え方である。競争しないという選択,同じ結果を受け入れるという選択は,しばしば悪平等と非難され,またそれは必ずしも間違いではない。弱者の切り捨てと悪平等のどちらを選ぶのか。選択の自由と共感の充実のどちらを選ぶのか。これらは,単純な二者択一の問題ではなく,両極端の間でバランスをとる程度問題であり,すべての社会制度において考慮すべき問題なのだ。(p.141)

自分の幸せを自分で決めるというのは,それは事実としてはそうなのかもしれないけれど,ある種マッチョな,自己責任社会と裏表なのかもしれない。その上で,自分が育てたい子どもは,どんな人になって欲しいんだろう。風越学園開校まで半年を切った今,改めて考えさせられた。

と真面目に考えた上で,どうでもいい,でもなんか関係しそうな話。ファッションの話。自分にどんな服が似合うか,自分は正直よくわからない。色味とかサイズ感とか季節感とかTPOとかあえて外すとかなんとかかんとか。かといって「自分が着たい服を着る」ってほどこだわりもなくて,正直周りの人が似合うと言ってくれる服があるならそれを着たい気はする。
これって,これまで書いてきた選択の話とかぶるよね。ただ,「私がどんな人生を生きたいかにこだわりはないから,周りの人が似合うと言ってくれる人生があるならそれを生きたい」ってのは,なんか嫌だなって気はするけど。
となるとやっぱりAmazonとかの「オススメ商品」の功罪はあるよなー。自分が本当にこだわりたいものにこだわるために,どうでもいいものはAIからリコメンド受けてりゃいいって気はするけど,外からのリコメンドに慣れすぎると,本当にこだわりたいもの,も見えづらくなりそうな。
と思ってたらYUKIの「私は誰だ」が流れてきた。いいタイミングだ。今日は地元図書館のハロウィンイベントに行ってみよう。

*1:今日のブログの白眉はここなので,ここから先は読んでもらわなくても大丈夫です^^^

*2:この話題の直前にバチェラー・ジャパンの話をしたらブチ切れていた。「いつまで日本の女は選ばれる側なんだ!」って。