さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

過去問の使い方

昨日センター試験が終わりました。今日は生徒の無事を願いながら学校へ向かいます*1

そしてセンター終わった当日にメールをくれた生徒がいました。センター英語は良かったらしいので,とりあえずは二次に向かってまっしぐら,みたい。彼にどのように過去問を扱えばよいか質問を受けました。せっかく答えたので,以下その内容を再掲。

①時間を測って解く
 これから受ける今年の問題をどう解くか考えながら,自分にとってベストな各問の時間配分なども探っていく。この際,「この辺読めてないな」と思う部分に下線などの印をつけておくのがオススメです。

②採点
 英作文等は,必要であれば先生にお願いするのが良い。

③復習
 間違っていたところを中心に見直すと思うが,その間違いが,①でみた下線部,つまり読めてないと思っていた部分に起因しているのか,それとも読めたと思っていたところに起因しているのか。
前者なら,その部分が読めなかった理由を考える。語彙?文法?文のつながり?
後者なら,実は読めていなかったのか,読めてはいたが正答に至るのに失敗したのか。それはなぜか。


 以上を数年くり返せば,「語彙が原因で失点するな」とか,「代名詞の把握が弱いんだな」「そもそも時間配分間違ってないか?」など,よりよい解き方へのヒントが見えてくると思いますし,語彙/文法が足りないなら足せばよいと思います。

さてさて,そろそろ学校に行こう。寒そうだな。。笑

*1:テニス部の朝練にも出ます。

アフリカの哲学者とカントの差別主義

Yacob and Amo: Africa’s precursors to Locke, Hume and Kant | Aeon Essays
を読んだ。大学の後輩*1Twitterでつぶやいていて,読んでみようと「積んタブ」していたのだけど,なかなか量も多いし手が回っていなかったのを最近読み終わった。
非常に面白かった。そもそもアフリカの哲学者って,たしかに聞いたことなかったけど,それがある種の欧米中心主義なのかもね,とも。
カントやヒュームがEnlightenment啓蒙思想を広める半世紀から1世紀くらい前に,YacobやAmoという哲学者がアフリカで似た内容,場合によってはさらに現代的な内容を説いていた,という話。

そこで一番印象に残ったのは,情けないことに別にその人の哲学の内容ではなくて,以下の部分。

In his Essays and Treatises on Several Subjects (1753-4), Hume wrote: ‘I am apt to suspect the negroes, and in general all the other species of men (for there are four or five different kinds) to be naturally inferior to the whites.’ He added: ‘There never was a civilised nation of any other complexion than white, nor any individual eminent either in action or speculation.’ Kant (1724-1804) built on Hume (1711-76), and stressed that the fundamental difference between blacks and whites ‘appears to be as great in regard to mental capacities as in colour’, before concluding in Physical Geography: ‘Humanity is at its greatest perfection in the race of the whites.’

当代一賢かった人物の一人であったろうヒュームやカントすら,このような,現代から見れば「前時代的」な白人中心主義的思想に囚われてしまっているのか!と。
これはともすれば「彼らの時代はこうした考え方が『合理的』だったんだ」と,優生主義を擁護してしまいそうでアレなのだけど,ともかく現代のように「どの人種も平等である」という考え方は,もちろん実証されうる「事実」である部分もあるんだろうけど,闘争の結果勝ち取られる「思想」でもあるんだろうな,と思わされた。

たしかに最近観た動画でこんなのもあったな。
https://www.ted.com/talks/steven_pinker_chalks_it_up_to_the_blank_slate?language=ja
スティーブン・ピンカーは,今後脳科学等で色々な「違い」が発見されていくだろうし,それはもしかすると「反優生主義」の旗印の下に抑圧されるかもしれない,と述べている。それに彼は“Man will become better when you show him what he is like”と引用しながら反対している。

どのみち,その人の属性がその人の能力を説明(決定?)する割合よりも,個人差のが大きいんだと思う。これも根拠のない信念にすぎないのかもしれないけど。「黒人みんな足が速いと思うなよ!」とハーフ芸人が言っていたような気がするけど,そんなようなことで,全体としての傾向はたとえあったとしても,個人の違いを飛び越えるほどのことはないんじゃないかなあ。


それで,なんで上に紹介した部分が心に残ったのかを改めて考えると,「新しい普通」という言葉が大きく関係している。どうしたらそれをつくれるのか。
10年ちょっと前に公開されたiPhoneを例に挙げるまでもなく,「新しい」ことと,「普通」すなわち人口に膾炙することとを両立させるのは,非常に難しい。
その難しさの片鱗を最近改めて味わっている。「常識を疑え」とは言うけれど,カントですら疑えなかった「常識」を,新たに打ち立ててさらには広げていく時に必要だったのは,合理的思考だけではなく,信念とか活動とか政治とか,そういう自分が非常に苦手な部分なのかもしれないなあと,改めて思わされているのです。
もっとも,今はまだきちんと合理的に考え抜くことすらできていないから,お話にもならないんだけど。

♪淡い恋の端っこを決して離さなければ この夏は例年より騒々しい日が続くはずさ

*1:と彼を称するのが正しいのかよく分からないけど,とりあえず同じ大学ではある。笑

『近代政治哲学』読了

『近代政治哲学』読了しました。

最近参加している↓の勉強会でオススメされた。
thunder0512.hatenablog.com
いやはや,面白かった。
勉強会でも出てきたホッブズ・ルソーの話がさらに詳しめに出てきている上,
その他の思想家に関しても詳しく書かれている。
あと,著者がイケメン。笑

第一章では封建国家の話になり,日本と違ってヨーロッパの場合、封臣は複数の封主,さらには海外の封主なんかとも契約可能だった,ということが書いてある。
そうなると国土というものは存在しないよね,というのも納得で,つまり国内社会と国際社会という区分けが存在しない。
さらに考えを進めると,つまりそれは国を統治するためのルールづくり=立法権という概念がないということ。各封主は個別の契約にしか縛られない。なるほどねー。国家において主権は対外的には戦争する権利として,対内的には立法権として現れる。ふむふむ。

それでこの本の面白いところは,各章が政治哲学上の概念の展開を追体験できる構成になっていること。
第一章で主権概念の成立をみた後,第二章でホッブズの社会契約論を出しながら,「自然状態」「自然権」という考え方の発生をみる。さらにスピノザによる批判と展開,ロックによる社会的啓蒙,ルソーによる精緻化とヒュームによる批判,そしてカントで締める。
特に「自然状態」が何を指すかに関する齟齬の指摘なんかは面白かった(p.147)。

ルソー 自然状態−フィクションとしての平和な地上・善良な自然人 社会状態−堕落した文明・利己的な人間 国家状態−社会契約による国家成立・所有制度の確立
ホッブズ 【考察なし】 自然状態−潜在性としての戦争状態 社会状態−絶対服従
スピノザ 【考察なし】 自然状態−潜在性としての社会の常態 社会状態−利益考慮による法の遵守
ロック 【考察なし】 【考察なし】 自然状態−現状肯定のイデオロギーとしての所有制度と家族制度が存在

つまりロックが自然状態と名状しているものが,ホッブズスピノザにおいては社会と呼ばれるし,それはルソーに言わせれば国家である,ということ。なるほどねー。

こんな感じで,政治哲学がどう構想されてしてきたかをザザッとみられて,とても楽しい読書だった。次はこれを年末年始に読もうね。

数学ガール/乱択アルゴリズム (数学ガールシリーズ 4)

数学ガール/乱択アルゴリズム (数学ガールシリーズ 4)

挑む ニッポンの教育

ニッポンの教育〜挑む 第二部
年の瀬に,観てきました。阿佐ヶ谷でロードショー。ユジク阿佐ヶ谷*1
1/12,13は菊池先生本人が終演後トークショーらしい!

以前プロフェッショナルで取り上げられていて菊池先生の実践は知っていたけれど,改めて「ほめ言葉のシャワー*2」や「価値語*3」の実践の効果を知る。
ほめ言葉のシャワーは保育園でも実践されていて,幼保→小→中とたしかに言葉が豊かになっていく様子もわかった。

…ただ同時になんかこの実践に対してモヤモヤを感じている自分もいて,整理がついていない感じ。

たとえばピンと挙手した小3の生徒に対して「手がきれいに伸びているね。素晴らしいね」という風に褒めているが,モヤモヤポイントは以下の2つかなー。

  1. 自分はそれが本当に素晴らしいとは(まだ?)思えない
  2. 本当に素晴らしいと思えないままで褒めるのは教育的かもしれないけど自然ではないし本意ではない気がする

ただしここに関しては,作中でも菊池先生は,「(手をピンと挙げるのは)全国の小4の条件らしいんだ」などと生徒に語っており,「私がそれを素晴らしいと信じている」というよりは,「まあ社会的にそういうもんだからとりあえず従っといてね」的なメッセージを発する場面もあって,この辺りは↑のモヤモヤの解消につながるのかなと。

そうそう,このモヤモヤに似たものを以前感じたことがあった。プロフェッショナルで菊池先生の実践を見終えた教員関係でない友だちに,「先生って大変だね(苦笑)」みたいに言われたことがあったんだ。自分はその(苦笑)を,「教育的不自然」に向けられたものと解釈しているけれど,まさに今回のモヤモヤと重なる。

しかし菊池先生の実践に感服する場面も非常に多かった。たとえば教室の中で椅子に座って前を向いていられない男子生徒に対して,緊急避難的に校庭で国語の授業を展開したり,その後(授業中漫画ばかり読んでいるその子が文字の読み書きに強みがあるとおそらく見とって)漢字探しバトルなどで彼も巻き込んで授業展開していく様などは,すげえ!と思うばかり。

終演後トークショーもついていて,菊池先生と何冊か著作を出している,京都造形芸術大学副学長の本間先生もいらしていて,この人も魅力的な人だったけど,彼は「ほめ言葉のシャワーは高校でも使えます」と言っていた。ううむ,ううむ。

様々な意味で考えさせられるドキュメンタリーでした。いい年の瀬を迎えつつある。自分の部屋を掃除し終えたら,実家に帰って大掃除だ。

*1:孤独のグルメにも取り上げられたというハワイ料理屋にも行ってきた。美味しかったし面白かった!

*2:毎日の帰りの会で,クラスの1人について,他のクラスメイト全員が一言ずつ彼/彼女の良いところを褒める

*3:「『考え方や行動をプラスの方向に導く』価値ある数々の言葉」のことらしい。本もいくつか。 https://www.amazon.co.jp/dp/4907571224

教育×クラウドファンディング勉強会ー教育分野の強みとは?

先週,とある勉強会に参加してきた。教育×クラウドファンディング,というテーマ。
クラウドファンディングって最近よく聞くじゃないですか。
「インターネット(SNS)を活用して,プロジェクト資金を支援者から募る仕組み」ということらしい。

その詳しい仕組みや,どんなトレンドになっているかとかをまず見た上で,教育分野で活かすには?というテーマで雑談。

クラウドファンディング自体のやり方はこちらのページが詳しいので,概要はここで学べそう↓
CAMPFIRE ACADEMY | クラウドファンディングの教科書

金融型(金銭的リターン)/購入型(モノ・サービスのリターン)/寄付型(リターンなし)とあり,購入型が人気。
購入型でも,All-or-Nothingつまり目標額に届かなければ何も起こらないタイプと,All-Inつまり集まった分だけお金を使って事業を行うものがあり,これは後者が人気。
リターンの種類も様々で,エンタメ・プロダクト・社会貢献などなど。

面白かったのは,寄付者の1/3は起案者の知り合いで,残り1/3が知り合いの知り合い,最後の1/3がまったく知らない人,だそう。なるほどねー。

実際自分もクラウドファンディング - Makuake(マクアケ):サイバーエージェントグループなんかで新しげな日本酒買ったりしてたけど,裏側を知るとさらに面白い。


それで後半は教育分野では?的な話*1
この勉強会面白かったのは,「自分教育に全然興味ありません」って言う人がいて,その人のビジネス的な発想が非常に示唆的だった。
マーケット・インとプロダクト・アウト。社会が望むことにチューニングするか,自分がやりたいことをドカンと打ち出すか。教育分野の人って多分プロダクト志向が強くて,「こういう教育いいっすよね!」「うんうん!」的な,内輪での了解性が高い分,外の人≒マーケットが何を考えているのか置き去りにしがちな気がする。

最近の例で言うと,これなんか教育分野のロジックと外部の乖離の典型的な例だよね。

そういうところに,改めて「マーケット・インとプロダクト・アウト」みたいな「名付け」をすることで意識できることってあるよね。
最近自分の考え方が教育的枠組みにハマっているなーって思っていたんだけど,もしかすると枠組みを取っ払うのは新しい枠組みなのかも。
ちなみに,理想的にはチームの中にマーケット・イン志向の人とプロダクト・アウト志向の人がいて,両者がキリキリとせめぎ合って,両者ともに納得できるところに落とすのが一番いいんだそう。しっかりチームビルディングするのが大事だよなあ。


そういう教育に興味ない人が教育に投資するとしたらどういう時か?という質問に「友だちが関わっているときかな」との返答。「『新しい学校をつくりたい!』とかって,『そういう自分たちスゲー!』みたいな自己陶酔もあるでしょ。それは自分でやってください,って感じ。」…タハハ。
そこで重ねて質問したのが,子どもたち発信だったらどうか,ということ。それならちょっと応援したくなるかも。ウラで大人が糸を多少なり引いてるんだとしても。との返答。そっかそっか。

思うに,教育分野が他分野に優越してるのって,ひとえに子どもの存在なんじゃないか。最近部活の日曜練にも顔出して,OBの方々が来てくれている様子をみるけど,やっぱり生徒と直に触れ合えるってことが価値(というか,それを価値に感じてくれる人が参加してくれてる)って感じはするよね。
だから最近生徒と接する時は,「君たちこそが価値なんだよ」って気持ちを持っている。「若いってことはそれだけでいいことなんだ」とはまたちょっと違う気がするけど,まあおおかたそんな感じ。笑

同時に,子どもをどこまで社会・外部に「明け渡す」かってのが教員・学校の役目なんだろう。世の中には悪意を持って接してくる大人もいるんだろうし*2

たとえば現在うちの学校は校舎の建て替えを検討して寄付を募っているけれど,そこで学ぶ生徒の声がほとんど見えてこないことには正直疑問があるし,そこが見えてくればもっと寄付も集まるんじゃないかなーっていう気持ちもある。
その時に,毎年更新系の何かを用意するのもよさげ,ってのもこの会の学び。安価に毎年学校に関われるようになると,そこで実利を取るというよりは,「ファンを増やす」という点で非常に有効っぽい。



「子どもを外から守るのが学校の役目だ」←→「子どもを社会から守る必要はない,もっと明け渡せ」
どちらも正しい気がする。よいバランスは個人の中にはきっともはやなくて,その学校集団としての意思決定が問われているのだ。

15分日記,お疲れ様でした。
Online Timerここでタイマー書けてたんだけど,Time is up.の合図が学校的チャイムでちょっと笑う。

*1:15分でこのブログを書こうとしている。今7分30秒経過。いい感じ。

*2:って書いて思ったけど,そういう悪意に対して,僕,かなり脆弱じゃないか…??汗

学問的誠実さと教育的誠実さ

最近は夜な夜な教育の話をすることが多い*1
どういう風に子どもにアプローチするか,という話。難しいよねえ。

自分は曲がりなりにも教育社会学出身ということで,その子どもを属性の束として見ることが多い気がする。
他にも,たとえば英語の効果的な学習法について,大筋として理念としていることはあるけれど,「じゃあ今この瞬間に私は何をどう勉強したらいいですか」と言われると,途端に難しくなる。オススメの参考書なんかも,しっかり検討していないものに関しては「分からない」と言うしかないよなっていう場面もあったりする。
そういう姿勢は,きっと学問においては誠実と言ってよいのだと思う*2

それで,その晩の教育談義で気づいたことは,上記のような姿勢―属性の束として見たりとか,「分からない」と言ったりとか―が,「教育的に」誠実なのか疑問だ,ということ。

属性の束という話で分かりやすかったのが,たとえばE判定を取った生徒。その人を「E判定を取った人の集団の一員」としてみれば,合格率は多分10%以下とかで,志望校の変更を検討するレベルなはずだ。でもその10%以下の人の中に「目の前のその生徒」が入らないという保証も当然ない。最後まで頑張り抜いて逆転することができるかもしれないし,たとえ逆転できなかったとしても,志望校を変えなかったことがその生徒にとってプラスになる場面があるかもしれない。うん,教育的関わりっていうのはおそらく「その個人を見る」ことに強く結びついている。
その人が一番幸せになれる選択肢を見とって,そこに向かって後押しするのが「教育的」なんだろう。もちろん,どういう後押しかは本当に千差万別だ。「一番大事なところだから,人に預けるな」と突き放すのも手だし,「君はがんばれば絶対に出来る。志望校を落とすな」と勇気づけることもできる。「このまま行っても悲しい結果が待っているから,現実的な選択肢を模索し始めろ」だっていい*3
受験前の生徒はとても不安定で*4,誰かに力強く後押ししてもらうことが救いになることはとても多いように見える。これについては,さっき挙げた,英語の学習法についての話にも共通するところがある。言い切ること自体の強さはたしかにありそうで,「この人がこの勉強法がいいと言ったからいいはずだ」と,ある種宗教的な,呪術的な効能もあるんだと思う。「英語なんて言葉なんだ!こんなものやれば誰だってできるようになる!」的な。

両者ともに言えるのは,教育的な関わりとここで言うのは,目の前の個人にコミットする,ということなんだと思う。だからこそネット等で「これが絶対の勉強法!」みたいなのは胡散臭いし,それに合わない生徒がいた時に修正できないという点で不誠実とすら思うことがある。でも逆に自分が顔の見えている目の前のその人のために何かが言えるかというと,自分はまだまだ苦手だなあと思わされている。その個人のことをよく見とるのがそもそも難しいってのがまずあるし,その上みえたらじゃあコミットできるかというと,当然その人の人生に責任は取れないわけで,なかなか難しい場合もありそうだ。E判定の生徒に何を見れば,「志望校を落とすな。がんばれ」と言い切れるのだろうか。

と,ここまで書いて思った。教師→生徒の関係で前者が後者を見とってコミットするのはすごく大事だけれど,それより何より大事なのは,生徒→生徒自身の関係において前者が後者を見とってコミットすることなんじゃないか。「飢えた人に魚を渡すのではない。魚の釣り方を教えるのだ」的な話かもなー。

相変わらずまとまらないところでTime is up.モヤモヤと考えていきましょうね。

*1:楽しい。

*2:分からないことをメディアで断言し始めると学者はネットで叩かれる。

*3:ちなみに同じようなことは多分部活においてより根深くて,甲子園に向かって努力し続けたけれど怪我もあって高卒で働き始めた友だちがかつて,「高卒と大卒でこんなに待遇が違うと知らなかった。高校の頃は,部活に全力を尽くすのが良いことだと思ってたし周りの誰からも止められなかった。こういう現実を知っていたら。」的なことを言っていて,どういう関わりが彼にとって最善だったんだろうとか,部活を後押ししまくることが本当に教育的だったのだろうか,なんて思ってしまった。

*4:自分のことを思い出しても,なかなかだったよなあ。笑

最終授業

最後の授業を終えた。3年間お疲れ様でしたと言っただけの組から,長々と話をした組までまちまちだった。
一番最後のクラスは,「最後くらい英語で」と煽られたので,突如英語に切り替えて話した。
自分の言葉の浅さを刻んでおくことも,きっと必要なことだろうと思うので,以下書き残しておこう。

Thank you for taking my classes for three years. It was a great experience for me.
Today is the last day for me to see you all in the class, so I'll talk a little bit about what I think about my classes and your future.
When I was a high school student, I was not good at English. My teacher always told me to work hard on English. That's why, when I see some of you who are not so good at English, that's why I didn't think at all that you won't be able to use English in the future. Rather, when necessary, I bet you'll be able to work hard on English so that you can solve your own problem about your English.
And that belief led me to believe that I should choose my teaching material from the real world. Do you remember Obama's speech in Hiroshima? It was two years ago you watched it. I still remember the day I had you watch his speech. Most of you, including those who are usually sleepy during class, watched the video carefully. That made me believe that not only I, the teacher, but also the students get interested in the material when it is related to the real world around us. From then on, I've chosen various topics happening around the world: U.S. Presidential Election, TEDEd Videos, and 'Crooner' written by Kazuo Ishiguro. I'm not sure how you feel toward my materials, but I now think it was a little too hard for those who are not so good at English. One of my biggest regrets is that I couldn't care enough for those students.
Another big regret is related to those who are really good at English. Every class has some students who are really good at English. It was a kind of pressuring experience for me to 'teach' English to them.
And though I've had such brilliant students, I couldn't have them share their thoughts much in my class.

These are what I now think reflecting my classes for three years.

Now I'll give you a really practical tips about the entrance exams.
When you take and hopefully pass the entrance exam, who are you going to tell the result first? Your friends? No. Twitter? Nope. You may think it's your parents. But surprisingly, no! I suggest that you should call your grandparents first. Here's how it works:
'Gramma, I passed the entrance exam!'
'Oh really? Congratulations! Have you already told your mother and father?'
'No. I want you to know it first!'
...This is how you can double the amount of money you get from your grandparents ;)

Well, you might think it's impolite to your parents. I agree. So I'll give you another way to express your love to your parents.
On the day of your entrance exam, when you are about to leave your house, you open the door.
And then you stop and turn around, looking into the eyes of your parents, and say 'Thank you for everything you did for me until today. I'm not sure what happens from now, but I'll try my best.'
As soon as the door closes behind you, your parents must be moved so much.

Please note that it would be a word of your gratitude for your parents. But for yourself, it should be a word of independence. Now you're a high school student, and what you want to do is basically not against what your parents want you to do. But from now, especially when you choose your future career, there may be some conflicts between you and your parents. But remmember, you will by then be an independent person. So it's up to you what you do. So, when you leave your house on the very day of your entrance exam, please say the words in order to thank your parents and to become independent from them.

Last but not least, thank you again for being my students*1. I hope you'll do your best.

*1:これ言いながら,日本語では言えないな,と思ったりした。外国語は不思議だ。笑