さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

ボールと私

昨日もテニスをしてきました。最近週1~2くらいテニスをしている。
教え子の保護者から始まり,町役場の人やテニスクラブのオーナーなど,じわじわ広がりつつある。楽しい。
テニスノートなんかもつけ始めた。ビバふり返り!
なんだけど,同時に膝も腫れてきたんだよな。困ったゾ…。笑

それで,昨日はなんか印象深い出来事があったのでメモ。
いつものメンバーで練習してからゲーム練習だったんだけど,自分はなーんか集中できていない感じがあった。
やっぱり来たるべき新学期が気になっちゃってるんだよな。不安もないと言えば嘘になる。
(久々に夢を見て,これがあんまり良くない内容だったから,そういう精神状態なんだろう。)

それで,それなりに打てるものの,よくわからないミスが多い,みたいな状況のままゲーム練習に入る。
いくら「集中!」と思っても,それははなかなか難しいんだよな。「集中しなくちゃ」って思っている時点で頭で考えちゃっているわけだから。
でもゲームが進むうちに,「結局いろいろ考えても,考えるだけで球が打てるわけじゃないから,目の前のこのボールをよーく見て,必要と感じる打ち方を思い切ってするしかないよな」みたいなことを考えて,そういうふうにやってみようとしたら,すこーしずつうまくいったりもしたんだよな。バンバンナイスショットが行ったわけでも,ミスが極端に減ったわけでもなかったけれど,内的な部分はちょっと変わったんじゃないかと思っている。

「ミスをしないためにどうすればいいか」を考えて打とうとしても難しくて,「どう打つのがベストか」に集中するのがいいのだろうなと。結局眼の前の球を前に自然に体がなんらか動いたり,動かなかったりするわけで,まずはそれを邪魔しないこと。
そしてその結果を踏まえて,次どうするかを考えること。必要に応じて練習で目指す姿に近づくこと。そのくり返しだよなーと。

それっぽい言い方をすれば,その場には「ボールと私」しかなくて,まずはその関係にどっぷり浸かること。その後でその結果をふり返って,よりよい距離感なり関わり方を考えていくこと。

子どもとのやり取りも似ている部分があるなと思っている。もちろん,「子ども」を私に打たれるままの「ボール」という受動的な存在として見ているわけではないし,子どもとのやり取りにインやアウトみたいなはっきりした基準もないし,もっと言えば勝ち負けも存在しないのだけど,頭で考えて「(自分が)こうしなくちゃ」「(相手に)こうしてもらわなきゃ」と思ってる時は,たいていうまく行っていない時な気はする。
自然体で,目の前のその人のことだけを見(ようとし)て関わる時は,よくも悪くも「らしい」関わりができているように感じるから,その後でその関わりがどうだったかふり返るしかないのかなと。

というわけで,明日から子どもたちもやってくる。ドキドキもしているけれど,やっぱり楽しみだな。