さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『羊と鋼の森』(宮下奈都)読了

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)

いやー、めちゃんこ面白かった!
 ピアノ(というか調律師)との衝撃的な出会いから、調律師を志す外村の成長物語、というとだいぶ簡略にすぎるか。
 外村を調律師の道にいざなった板鳥や、先輩・柳や秋野とのやり取りも面白く、なにより外村の朴訥な人柄が、周りの人から素朴な反応を引き出しているようで、読んでて心地いい。
 そんな外村も、双子の高校生・和音と由仁との出会いで、少しずつ変わり始める。和音のための調律をしたいという欲が出始めて、熱を帯びて動き始めるさまがかっこいい。
 以下、記憶に残った部分の抜き出しメモ。

「ピアノで食べていこうなんて思ってない」
 和音は言った。
「ピアノを食べて生きていくんだよ。」(p. 175)

このときの和音の姿を、「まぼろしの祝祭のようだった木の輝き(p.177)」にたとえる描写も美しい。

「なんだか俺、めちゃくちゃにがんばりたい気持ちなんだよ。あああ、いつ以来だろう、こんな気持ち。ボクシングの中継を観たときみたいだ。そのあと、無性に走り出したくなってるような、あの血湧き肉躍る感じだ」
 矢継ぎ早に喋って、それからため息をついて首を振った。
「歯がゆいなあ。がむしゃらにがんばりたいのに、何をがんばればいいのかわからない」(p.185)

いやー、いいよね。他の人のアツい姿にほだされて火がつく感じ。自分もがんばろう!って感じ。

 和音が何かを我慢してピアノを弾くのではなく、努力をしているとも思わずに努力をしていることに意味があると思った。努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。
 うらやましいくらいの潔さで、ピアノに向かう。ピアノに向かいながら、同時に、世界と向かい合っている。
 僕にはするべき努力がわからない。わからないから手当たりしだいになってしまう。(p.195)

「うらやましいくらいの潔さ」、いいなあ。「するべき努力がわからない」っての、わかるわあ。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」(p.57)

板鳥さんが目指す調律師の姿。小説家・原民喜の言葉だそう。

 そうだ、こういうときには泣くといいんだ。そう思う前に泣いていた。僕は僕よりも大きい弟の背中に腕をまわした。こんなふうに弟に触れたのは、いつ以来だろう。腕を突っ張って遠ざけていたものが、びゅんと僕の中に飛び込んできた。世界の輪郭が濃くなった気がした。(p.154)

「世界の輪郭が濃くな」るという表現、素晴らしい。

 やっと、わがままになれた。これまでどうしてわがままじゃなかったんだろう。聞き分けがよかった。おとなしかった。いつも弟に押されていた。通したいほどの我がなかった。今、わがままだ、こどもだ、と指摘されてわかった。僕は、ほとんどのことに対してどうでもいいと思ってきた。わがままになる対象がきわめて限られていたのだ。
 わがままが出るようなときは、もっと自分を信用するといい。わがままを究めればいい。僕の中のこどもが、そう主張していた。(pp.171-172)

自分自身の「やりたい!」から始めるしかないのかな、といったところ。

「北川さん、僕、初めて板鳥さんの調律したピアノの音を聴いたときに、人生が変わったと思っています」
「うん」
「音楽が僕の人生の役に立ったのかどうか、わかりません。でも、僕の人生はあのときに立ち上がったんです。それは、役に立つかどうかをはるかに超えた体験でした。」
「うん、わかるよ」
 北川さんは力強くうなずいた。
「だからね、思いついたことをやってみたらいいと思うの。うまくいかなかったら、戻せばいいじゃない。和音ちゃんのピアノがもっとよくなるかもしれないんでしょう」(p.190)

「うまくいかなかったら、戻せばいい」という言葉も、胸に刻みたい。誠実でいれば、遅すぎることなどほとんどないだろう。



「天の川で、カササギが橋になってくれるっていう話がありますよね。ピアノとピアニストをつなぐカササギを、一羽ずつ方々から集めてくるのが僕たちの仕事なのかなと思います」(p.192)という言葉に続くこのシーンも、鮮烈。

 道は険しい。先が長くて、自分が何をがんばればいいのかさえ見えない。最初は、意志。最後も、意志。間にあるのががんばりだったり、努力だったり、がんばりでも努力でもない何かだったりするのか。
 毎日ピアノに触れること。お客さんの言葉をよく聞くこと。調律道具を磨くこと。事務所のピアノを一台ずつ調律し直すことや、ピアノ曲集を聴き込むこと、秋野さんや柳さんに教えてもらうこと、板鳥さんにもらうヒント。和音の音色。そして、もしかしたら、短い草いきれの中で寝転ぶことや、山の夜にひっそりと輝く木を見ること、泉のせせらぎに耳を澄ますこと。きっとすべてがカササギだ。
 くるくる回って止まらなかった方位磁針が、ぴたりと止まる。森で、町で、高校の体育館で、たくさんのピアノの前で揺れていた赤い矢印がすべて、ひとつの方向を指していた。和音のピアノ。僕は、和音のピアノのために全力でカササギを集めようと思う。(pp.192-193)

先に「するべき努力がわからない」とこぼしていた外村が、和音との出会いで変わるシーン。

 僕だけじゃなかったんだ。技術は身体で覚えるものだと思い込んでいた。いつまで経っても身につかないのは、身体が音楽的ではないせいなのかと半分あきらめの気持ちだった。落胆する間も惜しくて、メモを取り続けた。
 でも、これがけっこう難しい。調律の感覚を言葉で書き表すのは至難の技だ。的確なメモを取れるようになったら、相当腕も上がっているように思う。
「書きとめるだけじゃ、駄目だ。覚えようとしなきゃ、無理だよ。歴史の年号を覚えるみたいにさ。あるときふっと流れが見えてくる」
 秋野さんは言った。もちろん、言葉で調律のすべてを書き表すことなどできない。百分の一も、千分の一もできない。わかっているから言葉には頼らない。だけど、調律の技術を言葉に換える作業は、流れていってしまう音楽をつなぎとめておくことだ。自分の身につけようとしている技術を、虫ピンで身体にひとつひとつ刺していくことだと思う。(pp.214-215)

ふり返りの効能。まさに!という感じ。



ということで、GWも終盤にさしかかる今日でしたが、いい読書ができて満足!