さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

神なき時代のコンピテンシー

最近,教育思想史の勉強会に参加している。まだ第二回が終わったところだけど,なかなかに楽しい。
ちなみにテキストはこちら。

教育思想史 (有斐閣アルマ)

教育思想史 (有斐閣アルマ)

ようやっと第4講まで終わり,古代ギリシャキリスト教ヒューマニズムと進んできたところ。
まだ「教育思想」を謳いながら,「哲学」と分化していない感じ。時代的にはそろそろ近代に入って,哲学と教育思想がぼちぼち分かれてくるらしい。楽しみ。

それで,今日はその第一回・第二回のまとめもした。
古代ギリシャにおいて,アテナイの伝統的な価値観をソフィストが揺さぶり(相対主義),両者の止揚としてソクラテス(普遍的な真理を指向)に端を発するギリシャ哲学が興った,という流れをまず確認。
そして中世ローマにおける理性的思考(哲学)と神秘的啓示(宗教)の対立&統合のあと,ルネサンス期において,キリスト教という絶対的な一様性を持つ考え方に対し,ヒューマニズムという個人の嗜好≒多様性を尊重する考え方が揺さぶりをかけた*1。なんとなく古代ギリシャにも似ている対比。じゃあ次に出るのは?ということで,哲学上ではデカルトが登場するらしい*2

上の対比的な捉え方も面白いなーと思っていたんだけど,今日特に面白かったのは別の話。

トマス・アクィナスについての記述で,以下のような文章がある。

そして,哲学は神学のはしためといわれたように,こうした哲学による学芸課程トレーニングの先に,神の認識,すなわち真理の探求(神学)が始まる。(pp.55-6)

そしてその数ページ後には,以下のような記述。

トマスにおいて哲学にせよ神学にせよ,知的な営みは「知恵の探求(studium sapientiae)といわれ,私たちを神との類似(神の似姿)へと近づけるがゆえに,もっとも高貴である有益であり,大きな喜びをもたらすとされる。トマスは,知恵の探求を遊びにも似た楽しいものとする。しかも,トマスによればすべての存在には目的があるという。私たち人間にとっては幸福が究極の目的に当たる。ここでの幸福とは,知恵の探求の結果としての「神化」であることは,いうまでもない。(pp.58-9)

後半の抜粋にある「知恵の探求」が「遊びにも似た楽しいもの」とする見方は,「学びは楽しい!」的な感じで現代の教育者の一部にもみられる考え方だと思うが,「ほら,トマス・アクィナスも言ってますから!」と言うのは,ちょっと違う気がした。
つまり当時は,神を認識することが真理を探求することであり,神こそが真理であった*3

知恵≒真理≒神,というのが上の抜粋からもわかると思うが,ひるがえって,現代を生きる僕たちはどうか。おそらく真理≒神,という認識はほとんど残っていないのではないか。今なら,真理≒科学(的法則)と考えるのではないだろうか。そこに「遊びにも似た楽し」みを見いだせるのか。見いだせる人が科学者になっているような気もするが,ルネサンス期の神学者たちが,神に近づいている個人的実感をともなって学問していたとしたら,さてその感覚は今の(科)学者にあるのだろうか。
もっと言えば,そうした神という絶対的な真理に近づく術が学問とされていた時代に,子どもに学問を学ばせることはとても自然なことだったに違いない。だが今は。「勉強すると幸せになれるよ」というのはまあよく聞く言説だが,それは決して神に近づくからではない。いい大学,いい会社に近づく,というのもちょっとだけ前時代的な気がする。うーん,なんなんだろうね。

トマス・アクィナスの話がさらにもう一つ。
可能態(デュミナス。「能力」とも)を現実態(エネルゲイア。「行動」とも)へと変換するものを習慣(エートス)というらしい。そして知性によってなされるよいエートスは徳と呼ばれ,人間の神化へと導く。

可能態→→(習慣)→→現実態

という図式を以下のように簡便化する。

能力→→(??)→→行動

さて,現代において「??」に当てはまるのは?と考えると,コンピテンシーなんじゃないかって気はする。
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コンピテンシーは元々,同じ大学を出た(≒同じ知識スキル態度を持った)人たちの中に,行動を起こせる人,起こせない人がいるのはなぜか,という問いから生まれたらしい。
上の図からも分かる通り,自分の中ではこのトマス・アクィナスの考え方と似通ったものがあると思った。

そこでトマス・アクィナスの最初の話に戻るけど,当時なら,どのような行動がよい行動かは,聖書をもとにすれば,わりとはっきり理解できたのではないか。少なくとも,答えは聖書にあって,それを基に行動に落としていこうとする姿勢はあったのでは。
ひるがえって現代を生きる僕らは。どのような行動がよい行動か,決めるのはなかなかにむつかしいよね。社会善とされるものはあると思うけど,色々なところに気をつけないと炎上する世の中であったり,自分の行動に思わぬ逆機能が潜んでいたり。ううむ,ううむ,って感じ。

昔むかしの思想家のことを多少なり知ること,なんだかとっても面白そうだなと改めて思っている。
もうすぐ思想の分野から「神」が消えてくるらしい。混迷をきわめる感じになるんだろうけど,それは現代に近づくってことでもあるから,楽しみだなあ。

*1:みんなに共通の正しさから一人ひとりの感じる美しさへ,という対比でもあるようだ。

*2:教育思想的にはしばらくあんまり動きはないらしい…。

*3:プラトン的には「イデア的」とも言えるのだと思う。