- 作者: 諏訪哲二
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2009/08/18
- メディア: 新書
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読み終わりました。面白かったです。
この本は、「プロ教師の会」代表の筆者が、巷で人気の教育論者にツッコミを入れていく、というものです。
その歯牙にかけられているのは以下の方々。
- 齋藤孝(「商取引」「文化」としての教育)
- 陰山英男(「学力としての教育)
- 内田樹(「真理」としての教育)
- 義家弘介(「ヤンキー」としての教育)
- 寺脇研(「国家官僚」としての教育)
- 渡邉美樹(「産業人」としての教育)
(ちなみに苅谷剛彦・西研も紹介されているが、以下に挙げる「啓蒙」としての教育を論じている稀有な学者として、肯定的に紹介されています。)
筆者の教育に対する考え方は、あとがきによく表れています。
教育はあたかも花や木を育てるような「自然」の営みではありません。ひとは「自然」の中からある偶然によって「自然」を切り裂いて登場した「文化」(反自然)的な存在であることを想起してください。子どもはこの人類の「自然」から「文化」へのプロセスを、教育によって短い期間に一身で突破しなければなりません。子どもはいわば文化的変身を遂げなければならないのです。(p.227)
そうした「突破」を図るための教育を、筆者は「啓蒙」と呼んでいます。「啓蒙」としての教育により、「学ぶ者」となった子どもたちは、その先に「文化」としての教育、さらにその先に「真理」としての教育へと進んでいくのですが、世間で「教育」といった場合、それは「文化」「真理」を指す場合が多く、その土台作りとして必須である「啓蒙」としての教育が顧みられていない、というのが彼のスタンスのようです。
教育のプロセスは、これら「啓蒙」「文化」「真理」の三つの局面から成り立っています。しかるに、世の大方の人たちは教育とは「文化」と「真理」の局面であると思い込んでいます。したがって、その土台を成す「啓蒙」としての教育を担う教師たちの苦労や努力は決して理解されないのです。
教師たちは「文化」としての教育や、「真理」としての教育がうまくいっていないとしばしば非難されます。みんなは「啓蒙」としての教育が、教育の視えざる土台を成していると気がついていません。最初から「文化」としての教育から「真理」としての教育に子ども(生徒)が進むと錯覚しているからです。
教師たちの思いや真意は決して世の中に届きません。しかし、評価されざる教師たちの「啓蒙」としての教育がなされているがゆえに、識者や大方の人たちも教育は「文化(真理)」としての教育と錯覚することができるのです。教師たちはときに生活指導なんかやっていないでもっと成績を上げよと悪罵を浴びせられたりもします。
たしかに、「啓蒙」としての教育の局面は、子ども(生徒)たちの生活(態度)や身体性が大きくかかわるところです。その意味で、子ども(生徒)たちに強制を含む大きな負荷をかけざるをえません。ここが教師たちの持たざるをえない哀しみの由来でもあります。教師もまた引き裂かれています。教師の哀しみは「啓蒙」としての教育から来るのです。(pp.229-230)
正直ここだけ読めば済んだ話かなーとも思います。笑 それくらい一貫している。
この「啓蒙」を無視するな、という観点から、先述の教育論者を1人一言で斬っていくと…。
- 齋藤孝←「あこがれにあこがれる」とかよくわかんない言い方してるけど、そもそも「あこがれ力」をもった人を探せるような「知的感受性」的なものをどうやって手に入れるのか。「啓蒙」でしょ!
- 陰山英男←子どもを「生徒」にする過程を無視してないか?「啓蒙」でしょ!
- 内田樹←「自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実」を知るためには「万人向けの有用な知識や技術」を習得しなくちゃでしょ。「啓蒙」でしょ!
- 義家弘介←一貫しなすぎワロタwww子どもは全てあなたに救われるべき存在じゃないっすよ。
- 寺脇研←利害調整の結果としての教育行政を、「理想」対「現実」にしてしまった。そりゃー理想が常に勝つでしょ。でも現実を見なくちゃ!
- 渡邉美樹←教育を完全に合理的なものにするのは無理!自分の教育観を根本的に変えるのは無理だよ!「精神的な奴隷は教師にはなれない。(p.217)」んだよ!
確かに「啓蒙」の視点大事だよなあとは思うものの、筆者の論は「啓蒙」無視するな、と言うに留まるもので、どういう形の「啓蒙」がいいのかについては触れられていないように思えました。また、その論で行くと英語教育って「啓蒙」なんですかね?「ひと」を「人」にするために必要なのかなあ。
正直こんなにライトな本にこんなに時間かけててはダメだなーと思うので、もう少しサクサク読み進めて行きたい!