さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

「AIと英語教育」という問いについて

こちらのイベントに参加してきました。
色々な英語教育関係者がいらしてて面白かった。
言わずと知れた "Grammar in Use"のサイン本もいただけて,幸せでした^^ あらためて,ミーハーな日本の私。
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Murphyさんがどういう経緯でこの本を書いたかの簡単なスピーチの後,質疑応答。
自分は,文法事項のコア・ミーニングを伝えるような例文を選ぶ基準はあるか,と質問させてもらいました。
自然で短く,かつコンテクストが少なくても意味が伝わるものを,という回答でした。
コンテクストを大事に,という話をここ最近よく聞くので,場面によってコンテクストの必要性も変わるんだろうな,と再認識。

その後の色々な質問も面白かった。完了形は日本人には要らないっていう話もありますけど,どう思いますかとか,AIが発展して自動翻訳ができるようになったら,英語教育の意義ってどうなるんですかとか。
前者に対しては,たしかに ①How long have you been here in Japan?を,②How long are you here in Japan?と聞いても,意図は通じうる。が,②だとこれからどれくらい滞在予定か,という意味にも取れるので,まぎらわしいっちゃまぎらわしい。もっと完了形にrespectを,ということでした。
後者に関しては,それ別にMurphyさんに聞いてもどうなんだ,と思ったけど,案の定「君の方が若いんだから,たしかめてみてよ」的な回答でした。「僕は小さい頃,技術が発展すれば飛行機とかを使わずに空を飛べるようになると思ったけど,そんなことは起こらなかった。起こるかもしれないと思ったことが起こらないことはよくあるよね」という話もされていた。けどまあ,それとこれとはって感じだよね。笑

その後,公立高校の英語の先生ともお話した。いろいろな話の中で,「年配の先生ってあんまり変わろうとしなくないですか?」という質問?愚痴?に対して,なんとなく思ったこと(その時答えたことでもある。笑)。
たしかに年配の先生の方が変わろうとしない傾向にあると思う*1。ただそれはインセンティブの問題もあって,「新しい教育!とか言われても,自分が引退するまでのn年の間に変わる必要はなさそうだな」的な。nが短ければ短いほど,自己変革より逃げ切りを選ぶ蓋然性は高くなりそうだ。

そして「変わろうとしていますか?」というクリティカルな目線を,ちゃんと自分にも向けられているかってのは,また大事な別問題だと思う。
つまり,先の「AI/自動翻訳と英語教育の関係」について,本気できちんと考えている英語の先生って,あんまり多くないんじゃないか。少なくとも自分は,あまり説得的な意見をみたことがない。

…とか書いて,慌てて「自動翻訳 英語教育」でググってみる。いくつかの記事に目を通すと,やっぱり説得力があるのは教育関係者より,社会で英語を使っている人だなって気もする。AIが翻訳してくれる時代に英語を学ぶ意義はあるか
英語教員じゃなく,言語学習者の記事も面白かった。「自動翻訳機が進化したら英語学習は不要になる!」について思うこと。 - 4ヵ国語を勉強するブログ

閑話休題。とすると,「年配の先生って変わろうとしなくないですか?」という若手の先生の問いって,「学校って変わろうとしなくないですか?」という学校外からの問いとパラレルなんじゃないかなって思わされる。
「自動翻訳進むっていうけど,まだ大丈夫でしょ」っていうのは,先に挙げた「逃げ切り」の姿勢なんじゃないか。現状の中途半端な自動翻訳をどうみるかって,コップに半分入った水をどうみるかってのと似ている気がする。
「まだこんだけ足りない!」と鬼の首を取ったように言い続けるのも非生産的だろうから,その「半分」を正しく見極めて,じゃあ自分はどうできるか,考え続けなくちゃあいけないんだろう。

自動翻訳でできることが増えるにつれ,英語学習において個人が学ばなければいけない量は下がり,多分質も変わるんだろう。じゃあどこが削れるのか。どういう変質が必要なのか。
…っていうのを考える場が欲しいけど,なかなかね。笑 誰か興味ある(英語)教育関係者の人,考えませんかー!?*2

*1:もちろん傾向にすぎないから,年配の先生でもガンガン変わろうとする人もいるし,若いから柔軟かと言われると,そういうわけでもない人もいるだろう。

*2:ぶん投げて終わろう。笑 半分以上本気ではあるけどw

『愛とか正義とか』読了

愛とか正義とか―手とり足とり!哲学・倫理学教室

愛とか正義とか―手とり足とり!哲学・倫理学教室

読み終わった。とてもおもしろかった。
読書猿さんと対談した: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるここで読書猿さんの昨年No.1スゴ本だったということで,早速読んでみた次第。
いやー面白かった。「哲学する」時の頭のつかい方。
結論だけ言ってしまうと,自由・愛・正義が,それぞれ個人・身近な人間関係・社会において原理として機能している,という話なのだけど,そこに持っていくまでの流れが体験できるのがよい。↑のことをただただレジュメ的に言われても「ふーん」という感じ(だからぜひ本書を読んでみて欲しいん)だけど,そこに至るまでの議論というか,発想の仕方が丁寧に記述されているので,納得感がある。
こういう身近な現象を哲学する系の本で言うと,これもとても好きな本。
「おろかもの」の正義論

「おろかもの」の正義論

物理法則と正義は何が違うか。それは,たとえあなたが理屈を知らなくても手を離せば物体は地面に落下するように,物理法則はその法則について知っているか否かとは無関係に働く。しかし正義に関しては,関係する人たちがその存在や正当性について合意していないとうまく働かない。という切り口がまず素敵で,なぜ人を殺してはいけないか,中絶は是か非か,などの個別具体的な問題に対して答えを導いていく。

大学の授業で,こういう頭のつかい方をビシバシさせられる経験,もっと積まなきゃだったかもなあ。(ちなみに最初の本のAmazonレビューをみると,授業で買わされた学生が難癖をつけている。色々むずかしいなあ。笑)

『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』読了

著者の方とたしか会社の立ち上げ期にどこかでお会いしたことある気がするけど,どこかは覚えてない。
非常に面白かった。自分が期待したゲノム解析の詳しい話はそこまでなかったけれど,世間の人々を啓蒙するねらいで書かれた本みたい。
かつてヒトゲノムの解析には10年単位の時間と数千億円単位のお金がかかったけど,今だったら10万円くらいでできる。いつそうなるかはわからないけど,方向としてはこっちに行くよね,というのはわかる*1。だったら,それを見越して準備を始めないと!というのが通底する主張だった。
どうしてもテクノロジーの進歩の速度は速く,社会がそれを受け入れる速度は相対的に遅い。筆者が大学での研究だけでなく株式会社ジーンクエストを立ち上げたのは,もちろんその遅さに対するもどかしさのあらわれだろうけど,それでもそれを完全にネガティブにとらえて「社会は分かってない!もっと変われ!」と迫るのではなく,賛否両論あるテクノロジーだからこそ社会を変えうるのだというポジティブな立場で書かれていて,好感触でした。
ジーンクエストがやろうとしていることは,「社会」の立場からすると,今の私たちがどう行動するのがよいのかという診断に(ごく限定的な部分にせよ)使えるのだと思うけど,同時に「テクノロジー」の側からすると,蓄積していったデータが今後さらなる研究に活かせるということで,うまいこと考えてるなあと。

未来を構想して社会を変えようとしていく動きが色々な分野で起こっていて,楽しいなあと思う反面,ふと立ち止まって我が身を振り返ると,モニョモニョ,という感じ。
来年を構想して授業を変えよう。Start smallなのは,まあ,仕方ないよね。笑

*1:まずこれがわかるようになるのが大変だと思うのだけど。。

『アメリカの教室に入ってみた』読了

読み終わりました。面白かった!

アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで

アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで

ニューヨーク州シラキュースという街で様々な学校を訪問し,フィールドワークを行なった著者による一冊。

  1. 貧困地区の公立学校の様子を紹介する
  2. 日本とは異なるインクルーシブ教育の様子を紹介する
  3. 新しいインクルーシブ教育を展開している私立学校の様子を紹介する

という3点をねらって書かれていましたが,どれも狙い通り面白かった!
色々な場面で,頭の中の加藤浩次さんが「当たり前じゃねぇからな!」と吠えていました。
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「今・ここ」の既成概念を打破するには,やっぱりここではないどこかについて知るのがよいなあと思います。

最初の方に描かれていた抑えの利かない先生の前で騒ぐ生徒の様子には心臓がキュッとしたし,その後の日米のインクルーシブ教育の差は,表層的な比較にとどまらず,その奥にある子ども観というか,あるべき教育観の違いも垣間見えて非常に面白かった。
たしかに子ども同士のやり取りや,感情の言語化,日本の学校ではよく見られるなあと思ったけど,改めて気付かされた。そうか,これは当たり前じゃないんだな,と。

「日本の教育は集団主義的でダメ!軍隊をつくるための教育を今だに引きずっている!」的な批判はよく聞くけれど,じゃあそういう人にとって,ここに描かれているアメリカの教育はどう映るんだろう。わりとリベラルというか,価値中立的なつもりだった自分も,「おいおい,それでいいのか?」と思ってしまう部分がけっこうあった(授業から外れている生徒にずっと声掛けせずに授業が終わるとか)。

こういう風に対比的に物事をみることで,気づかずに依って立っていた前提が可視化される。それはきっと,その前提を乗り越えるための第一歩なんだろうな。「当たり前じゃねえからな」座右の銘にしていこう(ホントか?)。

食育なんかも対比が鮮やかで,
日本「残さず食べようね」←アメリカ「むしろ食べる量を自分で適切に管理できることの方が大切」
日本「バランスよく食べようね」←アメリカ「持たせる弁当は親の責任」
なんて感じで,非常に参考になった。

そしてこの図表(p.128より再構成)。

individual relationship
sameness   日本的インクルーシブ教育
difference シラキュース的インクルーシブ教育  

どちらも一長一短で,この右下に移動するにはどうするのかなーと考えながら読み進めていたけど,見事にそれに答える第三部でした。p.195には以下の図表が出てきます。

individual relationship
sameness   日本的インクルーシブ教育
difference シラキュース的インクルーシブ教育 New School

同一学年の中でのみ学習していると,違いはすなわち良い悪いにつながりがち。でも異学年での学習が主流になると,そこにある様々な違いは,あまりにも違うために捨象されざるをえなくなる。だからといって個々人に閉じて放置されるわけではなく,協同化の学びが重視されている。違いを尊重しながら,つながる。いいねえ。

そういう教育を構想する際に,改めて苫野さんの著書がひかれていたのも象徴的だった。さすが。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

そして,たとえば生徒の使う言葉とか自分の何気ない態度にまで注意を払って教育にあたるなんてこと,1人の,もしくは少数の教員だけでできるものじゃないなと思わされた。教員集団としてことにあたる必要があるし,もっと言えば家庭だって巻き込まなくちゃあ当然ダメだ。それをどう実現させていくか。当然答えは見えないけど,改めてもっともっと考えていきたいテーマだな。

過去問の使い方

昨日センター試験が終わりました。今日は生徒の無事を願いながら学校へ向かいます*1

そしてセンター終わった当日にメールをくれた生徒がいました。センター英語は良かったらしいので,とりあえずは二次に向かってまっしぐら,みたい。彼にどのように過去問を扱えばよいか質問を受けました。せっかく答えたので,以下その内容を再掲。

①時間を測って解く
 これから受ける今年の問題をどう解くか考えながら,自分にとってベストな各問の時間配分なども探っていく。この際,「この辺読めてないな」と思う部分に下線などの印をつけておくのがオススメです。

②採点
 英作文等は,必要であれば先生にお願いするのが良い。

③復習
 間違っていたところを中心に見直すと思うが,その間違いが,①でみた下線部,つまり読めてないと思っていた部分に起因しているのか,それとも読めたと思っていたところに起因しているのか。
前者なら,その部分が読めなかった理由を考える。語彙?文法?文のつながり?
後者なら,実は読めていなかったのか,読めてはいたが正答に至るのに失敗したのか。それはなぜか。


 以上を数年くり返せば,「語彙が原因で失点するな」とか,「代名詞の把握が弱いんだな」「そもそも時間配分間違ってないか?」など,よりよい解き方へのヒントが見えてくると思いますし,語彙/文法が足りないなら足せばよいと思います。

さてさて,そろそろ学校に行こう。寒そうだな。。笑

*1:テニス部の朝練にも出ます。

アフリカの哲学者とカントの差別主義

Yacob and Amo: Africa’s precursors to Locke, Hume and Kant | Aeon Essays
を読んだ。大学の後輩*1Twitterでつぶやいていて,読んでみようと「積んタブ」していたのだけど,なかなか量も多いし手が回っていなかったのを最近読み終わった。
非常に面白かった。そもそもアフリカの哲学者って,たしかに聞いたことなかったけど,それがある種の欧米中心主義なのかもね,とも。
カントやヒュームがEnlightenment啓蒙思想を広める半世紀から1世紀くらい前に,YacobやAmoという哲学者がアフリカで似た内容,場合によってはさらに現代的な内容を説いていた,という話。

そこで一番印象に残ったのは,情けないことに別にその人の哲学の内容ではなくて,以下の部分。

In his Essays and Treatises on Several Subjects (1753-4), Hume wrote: ‘I am apt to suspect the negroes, and in general all the other species of men (for there are four or five different kinds) to be naturally inferior to the whites.’ He added: ‘There never was a civilised nation of any other complexion than white, nor any individual eminent either in action or speculation.’ Kant (1724-1804) built on Hume (1711-76), and stressed that the fundamental difference between blacks and whites ‘appears to be as great in regard to mental capacities as in colour’, before concluding in Physical Geography: ‘Humanity is at its greatest perfection in the race of the whites.’

当代一賢かった人物の一人であったろうヒュームやカントすら,このような,現代から見れば「前時代的」な白人中心主義的思想に囚われてしまっているのか!と。
これはともすれば「彼らの時代はこうした考え方が『合理的』だったんだ」と,優生主義を擁護してしまいそうでアレなのだけど,ともかく現代のように「どの人種も平等である」という考え方は,もちろん実証されうる「事実」である部分もあるんだろうけど,闘争の結果勝ち取られる「思想」でもあるんだろうな,と思わされた。

たしかに最近観た動画でこんなのもあったな。
https://www.ted.com/talks/steven_pinker_chalks_it_up_to_the_blank_slate?language=ja
スティーブン・ピンカーは,今後脳科学等で色々な「違い」が発見されていくだろうし,それはもしかすると「反優生主義」の旗印の下に抑圧されるかもしれない,と述べている。それに彼は“Man will become better when you show him what he is like”と引用しながら反対している。

どのみち,その人の属性がその人の能力を説明(決定?)する割合よりも,個人差のが大きいんだと思う。これも根拠のない信念にすぎないのかもしれないけど。「黒人みんな足が速いと思うなよ!」とハーフ芸人が言っていたような気がするけど,そんなようなことで,全体としての傾向はたとえあったとしても,個人の違いを飛び越えるほどのことはないんじゃないかなあ。


それで,なんで上に紹介した部分が心に残ったのかを改めて考えると,「新しい普通」という言葉が大きく関係している。どうしたらそれをつくれるのか。
10年ちょっと前に公開されたiPhoneを例に挙げるまでもなく,「新しい」ことと,「普通」すなわち人口に膾炙することとを両立させるのは,非常に難しい。
その難しさの片鱗を最近改めて味わっている。「常識を疑え」とは言うけれど,カントですら疑えなかった「常識」を,新たに打ち立ててさらには広げていく時に必要だったのは,合理的思考だけではなく,信念とか活動とか政治とか,そういう自分が非常に苦手な部分なのかもしれないなあと,改めて思わされているのです。
もっとも,今はまだきちんと合理的に考え抜くことすらできていないから,お話にもならないんだけど。

♪淡い恋の端っこを決して離さなければ この夏は例年より騒々しい日が続くはずさ

*1:と彼を称するのが正しいのかよく分からないけど,とりあえず同じ大学ではある。笑

『近代政治哲学』読了

『近代政治哲学』読了しました。

最近参加している↓の勉強会でオススメされた。
thunder0512.hatenablog.com
いやはや,面白かった。
勉強会でも出てきたホッブズ・ルソーの話がさらに詳しめに出てきている上,
その他の思想家に関しても詳しく書かれている。
あと,著者がイケメン。笑

第一章では封建国家の話になり,日本と違ってヨーロッパの場合、封臣は複数の封主,さらには海外の封主なんかとも契約可能だった,ということが書いてある。
そうなると国土というものは存在しないよね,というのも納得で,つまり国内社会と国際社会という区分けが存在しない。
さらに考えを進めると,つまりそれは国を統治するためのルールづくり=立法権という概念がないということ。各封主は個別の契約にしか縛られない。なるほどねー。国家において主権は対外的には戦争する権利として,対内的には立法権として現れる。ふむふむ。

それでこの本の面白いところは,各章が政治哲学上の概念の展開を追体験できる構成になっていること。
第一章で主権概念の成立をみた後,第二章でホッブズの社会契約論を出しながら,「自然状態」「自然権」という考え方の発生をみる。さらにスピノザによる批判と展開,ロックによる社会的啓蒙,ルソーによる精緻化とヒュームによる批判,そしてカントで締める。
特に「自然状態」が何を指すかに関する齟齬の指摘なんかは面白かった(p.147)。

ルソー 自然状態−フィクションとしての平和な地上・善良な自然人 社会状態−堕落した文明・利己的な人間 国家状態−社会契約による国家成立・所有制度の確立
ホッブズ 【考察なし】 自然状態−潜在性としての戦争状態 社会状態−絶対服従
スピノザ 【考察なし】 自然状態−潜在性としての社会の常態 社会状態−利益考慮による法の遵守
ロック 【考察なし】 【考察なし】 自然状態−現状肯定のイデオロギーとしての所有制度と家族制度が存在

つまりロックが自然状態と名状しているものが,ホッブズスピノザにおいては社会と呼ばれるし,それはルソーに言わせれば国家である,ということ。なるほどねー。

こんな感じで,政治哲学がどう構想されてしてきたかをザザッとみられて,とても楽しい読書だった。次はこれを年末年始に読もうね。

数学ガール/乱択アルゴリズム (数学ガールシリーズ 4)

数学ガール/乱択アルゴリズム (数学ガールシリーズ 4)