読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

『教えることの復権』(大村はま/苅谷剛彦・夏子著)読了

トイレ読書だん。

教えることの復権 (ちくま新書)

教えることの復権 (ちくま新書)

前回のトイレ読書(『パラドックスの社会学』読了 - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!)は1か月くらいかかったのに、本書は1週間で読み終わりました。読みやすかったこと以上に、非常に面白かった。

本書は、著名な国語教師である大村はま、その教え子である苅谷夏子、その夫で教育社会学者の苅谷剛彦との合作である。対談・座談会・エッセイなどなどの全てに通底しているのは、「教える」ということの見直しだ。最近の教師は教えなくなった、という問題意識がある。
そして相変わらず、大村はまさんの徹底したプロっぷりには本当に驚嘆する。以下、印象的だった部分を抜粋。

大村 先生が子どもの数ほど意見が持てるということも大事ね。必ず教師自身が、みなの中に入って賛成したり反対したり、その話し合いに入れるようにする。子どもだけに任せて子どもに司会させて、教師は見物していて、もっとしっかり発言せよなんていうのは教えていることにならないと思います。(p.77)

夏子 『教えるということ』の中に、生徒に静かにしなさいって言わなければならないようなら、教師として敗北宣言をしたようなものだ、というところがありましたね。

中学生なんてキカン坊盛りですから、私は今も「静かにしなさい」ということがあるんです。ありますけれども、ほかの人が言うのと全然違うんです。心に冷たい涙を流し、慚愧にたえぬ思いなのです。ほかに能力がなくてこの人たちを静かにする案も持たなかったし、対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で「静かにしなさい」という文句を言うんだということを、私はかたく胸に体しています。(中略)ほんとうに自分を深く責めながら、自分の無力さを心から恥じて、その思いの中で、仕方がないから「静かにしなさい」と言うんです。(中略)いばってなんか言えないし、ましてや子どもが悪者だというような顔をしてこちらから言うなんてことは、私はとんでもないことだという気がします。

先生がこのくらいの覚悟で子どもの前に立ったら、教室の何かが変わるのではないかと思います。(pp.93-94)

そして次が最後。非常に長いけど、なんだかとても考えさせられてしまったので全部引用。

 「なぜ教えるのか」という自分たち自身に向けるべき問いを、「なぜ勉強するのですか」という子どもの側の問いへとスライドさせ、その視点こそが今の教育の要請にかなっていると見てしまう。「なぜ教えるのか」に答えることよりも、「なぜ勉強するのですか」という子どもの問いに答えることのほうが今、必要であり、重要である、そういう教育の考え方がここにはある。子ども中心という、一見ヒューマンな印象の強いスタンスが、ここでも足かせになっているように見える。このように問いをスライドさせることで、大人たちが責任逃れをしていることは気づかれていない。あるいは大人の側として「なぜ教えるのか」という課題を、不問に付してしまっているのかもしれない。
 「なぜ教えるのか」に答えることと、「なぜ勉強するのですか」という子どもの問いに答えることは同じではない。一方は教える側の問題に限定できる。それに対し、後者の疑問は、子どもの側の納得や、子どもへの説得という側面を含んでいる。なぜ勉強するのか、それを子どもたちにわかってほしい、わかるようにしなければならない。そういう問いの突き詰め方をして、子どもにとっての学ぶことの意味が見いだしにくくなっている原因を、学校が教える知識(「学校知」)の問題点に求めすぎてはいないか。どうせ学校で教える知識なんて社会に出たらなんの役にも立たない、カビのはえたような知識など現代社会の変化に対応していない、だから、子どもが学ぶ意味を見いだせなくなっている、という批判が大人の中に常識化しつつある。
 しかし、このように学校知を批判するあまり、この問題を解決しない限りは、教えることも無意味だという論理をつくりだしていないか。学校が教える知のあり方を見直すことは必要だとしても、その適否の基準が子どもの側の納得に寄り添いすぎていないか。そのあいだにいつの間にか、「なぜ教えるのか」という問いは置き去りにされ、そして教えることが後退してしまい、子どもたちの学ぶ意味はますます見えにくくなる。そういう悪循環が生じているのではないか。だとしたら子ども中心の問いの立て方をいったん脇に置いて考えてみることも、それなりに意味があるはずだ。
 そして、かわりに「なぜ教えるのか」を突き詰めていくことが、教えることの復権につながるのではないだろうか。一人ひとりの子どもの納得をひとまず措くことにする。子どもにもわかるような答えが見つかれば、もちろんそれはそれでいいが、しかし子どもがわからなくとも、大人の世界として「なぜ教えるのか」という問いに私たちは答えるべきだ。教えることの意味が確固たるものであったならば、子ども自身がどう感じ、どう思おうと、子どもの学習には社会的な意味が与えられるはずだ。結果的にその中で、子どもたちがなぜ学ぶのかの答えを見つけるかもしれない。
 ただ、それをはじめから期待するのとは別に、私たち大人が、なぜ教えるのかという問いに答えることが先決だと思う。誤解を恐れずに言うならば、その答えをもとに堂々と教えることさえできれば、すべての子どもがなぜ勉強するのかを当面は納得できなくても、ひとまずはよいのだ。


†社会的な役割としての「教えること」


 では、なぜ教師は教えるのか。教えなければならないのか。この問いは、子どもがなぜ勉強するのかという問いとはまったく異なる意味と次元を持つ。というのも、教師が教えることの意味は、個人の納得というレベルの問題とは違い、税金によって運営される学校という公共機関の使命や役割に関わる問題だからである。教える側は公共的な役割を担った立場に有り、教えられる側は私人なのである。
 子どもが学ぶ理由には、子ども自身の感じ方として、社会的使命はまったく関係ない。一人ひとりの子どもにとって、なぜ勉強するのかの答えは個人のものだ。受験のためでも、面白いからでも、役に立つからでも、なんでもいい。それに対して、子どもを学ばせる教師の側の教える理由には、社会から付託された使命(ミッション)という意味合いがつきまとう。つまり、個人を越えたレベルで、答えが用意されていなければならないのである。
 このように考えていくと、大村の教師としての出発点は、ある意味でとても幸運であった。なぜ教えるのかという理由と、教師としての使命との関係が、今よりずっと見えやすく、わかりやすかったからである。本書の対談にも出てくるように、大村は終戦後の新制中学校に自分から出向いていった。その理由は、敗戦後の日本社会を新たにつくりあげていく上で、ことばの力こそが重要だと思ったからだという。中学校を出れば、大人の世界の仲間入り。その圧倒的な事実を前に、おとなになるためにどんな力をつけて送り出さなければいけないのかを考えた。そこに、大村の出発点がある。
 教師として教壇に立つ自分が、目の前の生徒や学生に、何をどのように教えるべきか。その時をおいては教えることのできない何かを、教えようとしているのか。そして、それをちゃんと教えることができているのか。こうした問いは、なぜ教えるのかという問いとつながっている。現代では、こうしたことを問うこと自体、教師の精神論として一笑に付されてしまうかもしれない。時代錯誤といわれるかもしれない。それでも、こうした問題を手がかりに、なぜ教えるのかを考えてみたい。教えない教師が増えていった背後には、使命感の持ちにくさがあるとみるからである。(pp. 212-215)

あ、ホントに最後。
苅谷剛彦の、「教えることの復権はいかにして可能か」という問いへの、当面の答え。

私の当面の答えはこうだ。「明日もまた教室に立って教えたい」と思えるような魅力を、自分の仕事の中に作りだすこと。(p.225)

写しながら思ったこと。

  • 苅谷は「その(注:「なぜ教えるのか」という問いへの)答えをもとに堂々と教えることさえできれば、すべての子どもがなぜ勉強するのかを当面は納得できなくても、ひとまずはよい(p.214)」と言うが、最近では子どもの側の納得に訴えないと「堂々と教える」ことが難しくなっているのではないか。その原因としては、教員の社会的地位の低下・New Public Management的教育改革による教育のサービス化・その他諸々(よく分かってない←)があると思うが、ともかく、「堂々と教える」ことの必要条件として「子どもの(ある程度の)納得(見かけ上にせよ)」があるように思える。
  • 「その時をおいては教えることのできない何かを、教えようとしているのか(p.215)」というのはとても大切だけど、とてもとてもとてもとても、それはそれは切なくなるくらい、むずかしいことだなあ。
  • 苅谷の「当面の答え」は、なんだか堂々巡りな気もする。同語反復的とでもいうか。
  • 英語科という教科は、「なぜ教えるのか」という問いに対して、「使えると世界が広がる」的な、生徒および「世間一般」と比較的共有しやすいだろう「答え」があるので、ひとたびその言説に乗らない子どもがいた場合、非常に難しい立場に置かれるのではないか(もちろん、「言葉への気づき」といった部分に着目した議論はあるだろうが)。

さあ、次のトイレ読書はどうしようかな。これくらい軽くてこれくらい面白いのはなかなかなさそう。いっそ文学とかエンターテイメントとかにするのもありだな…。
ちょっと探して、せっかく大村はまというスゴい(って言葉でくくれるかわからないほどの)教師の話を読んだから、教師つながりで、これを読んでみよう。

「ダメな教師」の見分け方     ちくま新書 (547)

「ダメな教師」の見分け方 ちくま新書 (547)

また思いのほか時間かかってしまった!

広告を非表示にする