さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『「学び」を問いつづけて』『「学ぶ」ということの意味』(佐伯胖著)

「学び」を問いつづけて―授業改革の原点

「学び」を問いつづけて―授業改革の原点

「学ぶ」ということの意味 (子どもと教育)

「学ぶ」ということの意味 (子どもと教育)


読了。
最近学校外の教育プログラムに参加することがあって,はたして「学び」ってなんなんだろう,とぐるぐる迷ってしまっていたので,「とりあえず佐伯胖読んだら」というアドヴァイスに従って,読んでみました。

面白かった。が,それをじゃあ自分の実践に活かせるかと言われると,ううむ,ううむ。

とりあえず学校の図書館に入れてもらって,機を見て読み返そうかなと思います。笑

何かを「学ぶ」というのは,本来的にはその本人と「環境」との相互作用である,というのは,理念としては理解しているつもりだけど,それがじゃあどうしようか,というと。。

たとえばこんな指摘も,首肯しつつ,我が身を省みると罰悪く黙り込もうとする自分がいる。

 極端な言い方かもしれないが,「学校体育」がもっている(もしくは,そうなりがちの)制約として,(1)強制的参加,(2)学習者の「能力」評価(「やろうとしてももともとデキない」か「やればどんなことでもみごとにデキる」かの判定),(3)受講拒否の非正当化,(4)「上達責任」の本人への帰属,の以上四点こそ,「学校体育」をつらいもの,つまらないものにしている原因ではないだろうか。人々は成人してこれから「解放される」だけで,いきいきとしはじめ,自分からからだを動かしはじめ,いろいろなスポーツを楽しみはじめる。
 しかし,考えてみると,この四つの制約というのは,どんな学習においても「やる気をなくさせる」条件として働くものである。(『「学び」を問いつづけて』p.372)

ね。

p.335から紹介されている「学習者像」の3つ(粘土モデル*1・作物モデル*2・材料モデル*3)や,「知識」の3モデル(事例モデル*4・手順モデル*5・状況モデル*6)なんていう分類は,勉強にはなるなと思えど,それを目の前の状況に下ろすのはまだまだ,って感じ。この辺り,いろんな人たちと話し合ってみたいなあ。

*1:子どもを粘土のようにいかような形にでも変えうるとするモデル

*2:粘土をこねまわすような教育は本来的ではなく,教師は「こやし」に徹し,自ら成長していく子どもの自然さを妨げてはならないとするモデル

*3:知識技能を身につけさせるための学校制度が発展した後の,「巨大な印刷工場」で「ムリなくムダなくムラなく」「印刷」されるべき材料として子どもをみなすモデル

*4:ここでは「学ぶ」=「新しい事例をおぼえる」

*5:ここでは「学ぶ」=「やり方をおぼえる」

*6:「知識」=「『善さ』を『問いつづけている状態』」であり,「学ぶ」とは「問い直しつづけている状態」