さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

教育×クラウドファンディング勉強会ー教育分野の強みとは?

先週,とある勉強会に参加してきた。教育×クラウドファンディング,というテーマ。
クラウドファンディングって最近よく聞くじゃないですか。
「インターネット(SNS)を活用して,プロジェクト資金を支援者から募る仕組み」ということらしい。

その詳しい仕組みや,どんなトレンドになっているかとかをまず見た上で,教育分野で活かすには?というテーマで雑談。

クラウドファンディング自体のやり方はこちらのページが詳しいので,概要はここで学べそう↓
CAMPFIRE ACADEMY | クラウドファンディングの教科書

金融型(金銭的リターン)/購入型(モノ・サービスのリターン)/寄付型(リターンなし)とあり,購入型が人気。
購入型でも,All-or-Nothingつまり目標額に届かなければ何も起こらないタイプと,All-Inつまり集まった分だけお金を使って事業を行うものがあり,これは後者が人気。
リターンの種類も様々で,エンタメ・プロダクト・社会貢献などなど。

面白かったのは,寄付者の1/3は起案者の知り合いで,残り1/3が知り合いの知り合い,最後の1/3がまったく知らない人,だそう。なるほどねー。

実際自分もクラウドファンディング - Makuake(マクアケ):サイバーエージェントグループなんかで新しげな日本酒買ったりしてたけど,裏側を知るとさらに面白い。


それで後半は教育分野では?的な話*1
この勉強会面白かったのは,「自分教育に全然興味ありません」って言う人がいて,その人のビジネス的な発想が非常に示唆的だった。
マーケット・インとプロダクト・アウト。社会が望むことにチューニングするか,自分がやりたいことをドカンと打ち出すか。教育分野の人って多分プロダクト志向が強くて,「こういう教育いいっすよね!」「うんうん!」的な,内輪での了解性が高い分,外の人≒マーケットが何を考えているのか置き去りにしがちな気がする。

最近の例で言うと,これなんか教育分野のロジックと外部の乖離の典型的な例だよね。

そういうところに,改めて「マーケット・インとプロダクト・アウト」みたいな「名付け」をすることで意識できることってあるよね。
最近自分の考え方が教育的枠組みにハマっているなーって思っていたんだけど,もしかすると枠組みを取っ払うのは新しい枠組みなのかも。
ちなみに,理想的にはチームの中にマーケット・イン志向の人とプロダクト・アウト志向の人がいて,両者がキリキリとせめぎ合って,両者ともに納得できるところに落とすのが一番いいんだそう。しっかりチームビルディングするのが大事だよなあ。


そういう教育に興味ない人が教育に投資するとしたらどういう時か?という質問に「友だちが関わっているときかな」との返答。「『新しい学校をつくりたい!』とかって,『そういう自分たちスゲー!』みたいな自己陶酔もあるでしょ。それは自分でやってください,って感じ。」…タハハ。
そこで重ねて質問したのが,子どもたち発信だったらどうか,ということ。それならちょっと応援したくなるかも。ウラで大人が糸を多少なり引いてるんだとしても。との返答。そっかそっか。

思うに,教育分野が他分野に優越してるのって,ひとえに子どもの存在なんじゃないか。最近部活の日曜練にも顔出して,OBの方々が来てくれている様子をみるけど,やっぱり生徒と直に触れ合えるってことが価値(というか,それを価値に感じてくれる人が参加してくれてる)って感じはするよね。
だから最近生徒と接する時は,「君たちこそが価値なんだよ」って気持ちを持っている。「若いってことはそれだけでいいことなんだ」とはまたちょっと違う気がするけど,まあおおかたそんな感じ。笑

同時に,子どもをどこまで社会・外部に「明け渡す」かってのが教員・学校の役目なんだろう。世の中には悪意を持って接してくる大人もいるんだろうし*2

たとえば現在うちの学校は校舎の建て替えを検討して寄付を募っているけれど,そこで学ぶ生徒の声がほとんど見えてこないことには正直疑問があるし,そこが見えてくればもっと寄付も集まるんじゃないかなーっていう気持ちもある。
その時に,毎年更新系の何かを用意するのもよさげ,ってのもこの会の学び。安価に毎年学校に関われるようになると,そこで実利を取るというよりは,「ファンを増やす」という点で非常に有効っぽい。



「子どもを外から守るのが学校の役目だ」←→「子どもを社会から守る必要はない,もっと明け渡せ」
どちらも正しい気がする。よいバランスは個人の中にはきっともはやなくて,その学校集団としての意思決定が問われているのだ。

15分日記,お疲れ様でした。
Online Timerここでタイマー書けてたんだけど,Time is up.の合図が学校的チャイムでちょっと笑う。

*1:15分でこのブログを書こうとしている。今7分30秒経過。いい感じ。

*2:って書いて思ったけど,そういう悪意に対して,僕,かなり脆弱じゃないか…??汗

学問的誠実さと教育的誠実さ

最近は夜な夜な教育の話をすることが多い*1
どういう風に子どもにアプローチするか,という話。難しいよねえ。

自分は曲がりなりにも教育社会学出身ということで,その子どもを属性の束として見ることが多い気がする。
他にも,たとえば英語の効果的な学習法について,大筋として理念としていることはあるけれど,「じゃあ今この瞬間に私は何をどう勉強したらいいですか」と言われると,途端に難しくなる。オススメの参考書なんかも,しっかり検討していないものに関しては「分からない」と言うしかないよなっていう場面もあったりする。
そういう姿勢は,きっと学問においては誠実と言ってよいのだと思う*2

それで,その晩の教育談義で気づいたことは,上記のような姿勢―属性の束として見たりとか,「分からない」と言ったりとか―が,「教育的に」誠実なのか疑問だ,ということ。

属性の束という話で分かりやすかったのが,たとえばE判定を取った生徒。その人を「E判定を取った人の集団の一員」としてみれば,合格率は多分10%以下とかで,志望校の変更を検討するレベルなはずだ。でもその10%以下の人の中に「目の前のその生徒」が入らないという保証も当然ない。最後まで頑張り抜いて逆転することができるかもしれないし,たとえ逆転できなかったとしても,志望校を変えなかったことがその生徒にとってプラスになる場面があるかもしれない。うん,教育的関わりっていうのはおそらく「その個人を見る」ことに強く結びついている。
その人が一番幸せになれる選択肢を見とって,そこに向かって後押しするのが「教育的」なんだろう。もちろん,どういう後押しかは本当に千差万別だ。「一番大事なところだから,人に預けるな」と突き放すのも手だし,「君はがんばれば絶対に出来る。志望校を落とすな」と勇気づけることもできる。「このまま行っても悲しい結果が待っているから,現実的な選択肢を模索し始めろ」だっていい*3
受験前の生徒はとても不安定で*4,誰かに力強く後押ししてもらうことが救いになることはとても多いように見える。これについては,さっき挙げた,英語の学習法についての話にも共通するところがある。言い切ること自体の強さはたしかにありそうで,「この人がこの勉強法がいいと言ったからいいはずだ」と,ある種宗教的な,呪術的な効能もあるんだと思う。「英語なんて言葉なんだ!こんなものやれば誰だってできるようになる!」的な。

両者ともに言えるのは,教育的な関わりとここで言うのは,目の前の個人にコミットする,ということなんだと思う。だからこそネット等で「これが絶対の勉強法!」みたいなのは胡散臭いし,それに合わない生徒がいた時に修正できないという点で不誠実とすら思うことがある。でも逆に自分が顔の見えている目の前のその人のために何かが言えるかというと,自分はまだまだ苦手だなあと思わされている。その個人のことをよく見とるのがそもそも難しいってのがまずあるし,その上みえたらじゃあコミットできるかというと,当然その人の人生に責任は取れないわけで,なかなか難しい場合もありそうだ。E判定の生徒に何を見れば,「志望校を落とすな。がんばれ」と言い切れるのだろうか。

と,ここまで書いて思った。教師→生徒の関係で前者が後者を見とってコミットするのはすごく大事だけれど,それより何より大事なのは,生徒→生徒自身の関係において前者が後者を見とってコミットすることなんじゃないか。「飢えた人に魚を渡すのではない。魚の釣り方を教えるのだ」的な話かもなー。

相変わらずまとまらないところでTime is up.モヤモヤと考えていきましょうね。

*1:楽しい。

*2:分からないことをメディアで断言し始めると学者はネットで叩かれる。

*3:ちなみに同じようなことは多分部活においてより根深くて,甲子園に向かって努力し続けたけれど怪我もあって高卒で働き始めた友だちがかつて,「高卒と大卒でこんなに待遇が違うと知らなかった。高校の頃は,部活に全力を尽くすのが良いことだと思ってたし周りの誰からも止められなかった。こういう現実を知っていたら。」的なことを言っていて,どういう関わりが彼にとって最善だったんだろうとか,部活を後押ししまくることが本当に教育的だったのだろうか,なんて思ってしまった。

*4:自分のことを思い出しても,なかなかだったよなあ。笑

最終授業

最後の授業を終えた。3年間お疲れ様でしたと言っただけの組から,長々と話をした組までまちまちだった。
一番最後のクラスは,「最後くらい英語で」と煽られたので,突如英語に切り替えて話した。
自分の言葉の浅さを刻んでおくことも,きっと必要なことだろうと思うので,以下書き残しておこう。

Thank you for taking my classes for three years. It was a great experience for me.
Today is the last day for me to see you all in the class, so I'll talk a little bit about what I think about my classes and your future.
When I was a high school student, I was not good at English. My teacher always told me to work hard on English. That's why, when I see some of you who are not so good at English, that's why I didn't think at all that you won't be able to use English in the future. Rather, when necessary, I bet you'll be able to work hard on English so that you can solve your own problem about your English.
And that belief led me to believe that I should choose my teaching material from the real world. Do you remember Obama's speech in Hiroshima? It was two years ago you watched it. I still remember the day I had you watch his speech. Most of you, including those who are usually sleepy during class, watched the video carefully. That made me believe that not only I, the teacher, but also the students get interested in the material when it is related to the real world around us. From then on, I've chosen various topics happening around the world: U.S. Presidential Election, TEDEd Videos, and 'Crooner' written by Kazuo Ishiguro. I'm not sure how you feel toward my materials, but I now think it was a little too hard for those who are not so good at English. One of my biggest regrets is that I couldn't care enough for those students.
Another big regret is related to those who are really good at English. Every class has some students who are really good at English. It was a kind of pressuring experience for me to 'teach' English to them.
And though I've had such brilliant students, I couldn't have them share their thoughts much in my class.

These are what I now think reflecting my classes for three years.

Now I'll give you a really practical tips about the entrance exams.
When you take and hopefully pass the entrance exam, who are you going to tell the result first? Your friends? No. Twitter? Nope. You may think it's your parents. But surprisingly, no! I suggest that you should call your grandparents first. Here's how it works:
'Gramma, I passed the entrance exam!'
'Oh really? Congratulations! Have you already told your mother and father?'
'No. I want you to know it first!'
...This is how you can double the amount of money you get from your grandparents ;)

Well, you might think it's impolite to your parents. I agree. So I'll give you another way to express your love to your parents.
On the day of your entrance exam, when you are about to leave your house, you open the door.
And then you stop and turn around, looking into the eyes of your parents, and say 'Thank you for everything you did for me until today. I'm not sure what happens from now, but I'll try my best.'
As soon as the door closes behind you, your parents must be moved so much.

Please note that it would be a word of your gratitude for your parents. But for yourself, it should be a word of independence. Now you're a high school student, and what you want to do is basically not against what your parents want you to do. But from now, especially when you choose your future career, there may be some conflicts between you and your parents. But remmember, you will by then be an independent person. So it's up to you what you do. So, when you leave your house on the very day of your entrance exam, please say the words in order to thank your parents and to become independent from them.

Last but not least, thank you again for being my students*1. I hope you'll do your best.

*1:これ言いながら,日本語では言えないな,と思ったりした。外国語は不思議だ。笑

9年前の日記

を,発掘した。
高3の頃の自分。

I miss TK. 2008,12,3
HTRの「インポッシブル」とどっちを題にしようか迷ったけど、やっぱりこっちにしました。
KWSの名言。

朝早起きして自習at学校。
これいいな、と思ったけどもうやる日がない‥泣


ライティングはよかったね。
クラスみんなまとまってる感じが。
特にYSIの発表のときは自然にみんなが姿勢正したりとかね笑

それにしてもHTRは神。
すごく感動した。


ラストサッカーはヘディングシュート(≠ゴール)できたから満足だ。
オウンゴールも誘えたし。

英語テストもそこそこだったから、あとはセンター頑張りましょう。



にしても先生は最後を惜しまなすぎだと思った。
なんだかとゆう。

ってことで僕はED GC YGちゃんと最後を惜しみ惜しみ帰りました。
チキンカツのおばちゃんすごいー

塾ではまた足だるくて予習もろくに終わらずなえ。

中村先生のプリントのなぞなぞイイ!
ラストに地味に感動した。


頑張ろう!

今みている高3生と自分を無理矢理に重ねてみる。笑
(一応配慮を見せて固有名詞はイニシャルにしてみた。)

ちなみにこの日記に出てくる「かとゆう」というのは英語の先生。自分は先生に対して「最後を惜しめよ」と思う生徒だったみたいだけど,はてさて9年後,私は最後を惜しんだんでしょうか。

当然のように最後の最後までサッカーをしていたらしい。ふむふむ。

大掃除中にジャンプの山みつける以上の作業止まり具合。なんと5年分もあるぞ,リアル黒歴史が。

生まれは育ちを通して

読みました。先の記事で紹介された本。

やわらかな遺伝子 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

やわらかな遺伝子 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

「生まれか,育ちか」というのは教育分野においても重要なテーマだけれど,この点について「生まれは育ちを通じて」という新しい概念を提唱した作品。これでもかというほどの具体的な実験内容が列挙されていて,正直消化不良な感は否めない。笑

ということで,備忘録的に一部抜粋。

 思うに,トゥービー―コスミデスの言う遺伝子の素晴らしさは,まさにここにある。ほかの六つの定義を統合し,さらに七つめの定義を加えているのである。それは,ドーキンスの言う自己主張をする遺伝子であり(何世代にもわたって生き残りの試練を乗り越えようとしている),メンデルの言う書庫であり(膨大な年月の適応進化によって得た知恵が記されている),ワトソン―クリックの言うレシピであり(RNAを介したタンパク質の生成によってその影響を及ぼしている),ジャコブ―モノーの言う個体発生のスイッチであり(特定の組織でのみ発現する),ギャロッドの言う健康をもたらすものであり(想定された環境のもとで健康な成長をもたらす),ド・フリースの言うパンゲンでもある(同じ種や別の種でさまざまな個体発生のプログラムにおいて利用されている)。だがもうひとつ別の意味もある。それは,環境から情報を引き出す装置でもあるのだ。
 Y染色体上にある雄性化にかかわるSRY遺伝子は,社会学者を憂鬱にさせるタイプの遺伝決定論の担い手に見えやすい。前にも示唆したように,SRYが一連の事象のきっかけとなって,(一般に)男性はソファーに座ってビールを飲みながらサッカーを観戦し,女性はショッピングをしたりおしゃべりをしたりする。ところが別の見方をすれば,SRYは見事なまでに「育ち」のしもべでもある。その仕事と目的と欲求は―下流にある何百もの遺伝子の助けを借りて―主である生物の育つ環境から,特定の種類の情報を引き出すことにある。たとえば,男性の身体の成長に必要な食物,精神の発達に必要な社会的誘因,性的嗜好の発達に必要なジェンダーの誘因,それに,現代社会における男性性を表出させるのに必要なテクノロジー(おもちゃの銃やリモコンなど)さえも選んで引き出すのだ。だがSRYは―というより,SRYが起動する個体発生のプログラムは―環境の変化によって操られ,順応する。中世ヨーロッパの男の赤ん坊を,現代のカリフォルニアへ連れてきたら,きっと剣や馬でなく銃や自動車に興味をもつだろう。だからSRY遺伝子は,環境の引き出し役のように見えてしまうだけなのである。
 ここでまた,著者からのメッセージがある。遺伝子は,情け容赦のない小さな決定者で,繰り返し同じメッセージを生み出している。しかし,プロモーターが外部からの命令によってスイッチのオン・オフをしているのだから,遺伝子の活動が最初から決まっているとは言えない。むしろ,遺伝子は環境から情報を引き出す装置なのだ。あなたの脳内で発現する遺伝子のパターンは,多くの場合,時々刻々と,体外の事象に直接あるいは間接的に反応して変化している。遺伝子は経験のメカニズムなのである。(pp.402-404)

その次の第10章「逆説的な教訓」から,7つの教訓も引用しておこう。

  1. 遺伝子を恐れるな。遺伝子は神ではなく,歯車なのだ。
  2. それでも良い親になることは重要なのである。
  3. 個性は,素質を欲求で強化することによって生み出されたものである。
  4. 公平な社会では「生まれ」が強調され,不公平な社会では「育ち」が強調される。
  5. 遺伝子と本能は,どちらも理解を深めるほど,不可避には見えなくなる。
  6. 社会政策は,ひとりひとりが異なっているということを基本にしなければならない。
  7. 自由意志は,遺伝子によってあらかじめ精妙に定められ動かされている脳と完全に両立する概念である。

4点目は言われてみるとそのとおりだなと。
つまり,たとえば学力について考えてみると,不公平な社会,すなわち限られた人にしか教育の機会が提供されない社会においては,「育ち」が決定的に大事になる。教育を受けたか受けなかったかで学力のほとんどが決まる。
しかし義務教育などが普及して,「育ち」の過程で得られる教育が均質化してくると,「生まれ」が大事になってくる,と。ふむふむ。


これをなんとなく読み終えた後,先輩の英語教育関係者と飲みに行った。
さんだーくんはナイーブだよね,的なことを言われた*1。世間の暗いところを知らないというか,どうしようもなく悪い人がいることを知らないというか。性善説性悪説の話にもなったけど,どちらにせよ先述の本で言うと「生まれ」を重視している点では変わらない。
自分としては,もちろん「育ち」の最中では変えられないものも大きくあると思いつつ,そのさなかでどんなスイッチが押されるのか,気を使っていきたいなと*2
あとはまあ,「どうしようもなく悪い人」が自分の人生に関わらないように努力していきたいところだよね。笑

*1:気がする。

*2:や,注意できるものなのかすら分からないけど。笑

神なき時代のコンピテンシー

最近,教育思想史の勉強会に参加している。まだ第二回が終わったところだけど,なかなかに楽しい。
ちなみにテキストはこちら。

教育思想史 (有斐閣アルマ)

教育思想史 (有斐閣アルマ)

ようやっと第4講まで終わり,古代ギリシャキリスト教ヒューマニズムと進んできたところ。
まだ「教育思想」を謳いながら,「哲学」と分化していない感じ。時代的にはそろそろ近代に入って,哲学と教育思想がぼちぼち分かれてくるらしい。楽しみ。

それで,今日はその第一回・第二回のまとめもした。
古代ギリシャにおいて,アテナイの伝統的な価値観をソフィストが揺さぶり(相対主義),両者の止揚としてソクラテス(普遍的な真理を指向)に端を発するギリシャ哲学が興った,という流れをまず確認。
そして中世ローマにおける理性的思考(哲学)と神秘的啓示(宗教)の対立&統合のあと,ルネサンス期において,キリスト教という絶対的な一様性を持つ考え方に対し,ヒューマニズムという個人の嗜好≒多様性を尊重する考え方が揺さぶりをかけた*1。なんとなく古代ギリシャにも似ている対比。じゃあ次に出るのは?ということで,哲学上ではデカルトが登場するらしい*2

上の対比的な捉え方も面白いなーと思っていたんだけど,今日特に面白かったのは別の話。

トマス・アクィナスについての記述で,以下のような文章がある。

そして,哲学は神学のはしためといわれたように,こうした哲学による学芸課程トレーニングの先に,神の認識,すなわち真理の探求(神学)が始まる。(pp.55-6)

そしてその数ページ後には,以下のような記述。

トマスにおいて哲学にせよ神学にせよ,知的な営みは「知恵の探求(studium sapientiae)といわれ,私たちを神との類似(神の似姿)へと近づけるがゆえに,もっとも高貴である有益であり,大きな喜びをもたらすとされる。トマスは,知恵の探求を遊びにも似た楽しいものとする。しかも,トマスによればすべての存在には目的があるという。私たち人間にとっては幸福が究極の目的に当たる。ここでの幸福とは,知恵の探求の結果としての「神化」であることは,いうまでもない。(pp.58-9)

後半の抜粋にある「知恵の探求」が「遊びにも似た楽しいもの」とする見方は,「学びは楽しい!」的な感じで現代の教育者の一部にもみられる考え方だと思うが,「ほら,トマス・アクィナスも言ってますから!」と言うのは,ちょっと違う気がした。
つまり当時は,神を認識することが真理を探求することであり,神こそが真理であった*3

知恵≒真理≒神,というのが上の抜粋からもわかると思うが,ひるがえって,現代を生きる僕たちはどうか。おそらく真理≒神,という認識はほとんど残っていないのではないか。今なら,真理≒科学(的法則)と考えるのではないだろうか。そこに「遊びにも似た楽し」みを見いだせるのか。見いだせる人が科学者になっているような気もするが,ルネサンス期の神学者たちが,神に近づいている個人的実感をともなって学問していたとしたら,さてその感覚は今の(科)学者にあるのだろうか。
もっと言えば,そうした神という絶対的な真理に近づく術が学問とされていた時代に,子どもに学問を学ばせることはとても自然なことだったに違いない。だが今は。「勉強すると幸せになれるよ」というのはまあよく聞く言説だが,それは決して神に近づくからではない。いい大学,いい会社に近づく,というのもちょっとだけ前時代的な気がする。うーん,なんなんだろうね。

トマス・アクィナスの話がさらにもう一つ。
可能態(デュミナス。「能力」とも)を現実態(エネルゲイア。「行動」とも)へと変換するものを習慣(エートス)というらしい。そして知性によってなされるよいエートスは徳と呼ばれ,人間の神化へと導く。

可能態→→(習慣)→→現実態

という図式を以下のように簡便化する。

能力→→(??)→→行動

さて,現代において「??」に当てはまるのは?と考えると,コンピテンシーなんじゃないかって気はする。
f:id:thunder0512:20171202011049p:plain
コンピテンシーは元々,同じ大学を出た(≒同じ知識スキル態度を持った)人たちの中に,行動を起こせる人,起こせない人がいるのはなぜか,という問いから生まれたらしい。
上の図からも分かる通り,自分の中ではこのトマス・アクィナスの考え方と似通ったものがあると思った。

そこでトマス・アクィナスの最初の話に戻るけど,当時なら,どのような行動がよい行動かは,聖書をもとにすれば,わりとはっきり理解できたのではないか。少なくとも,答えは聖書にあって,それを基に行動に落としていこうとする姿勢はあったのでは。
ひるがえって現代を生きる僕らは。どのような行動がよい行動か,決めるのはなかなかにむつかしいよね。社会善とされるものはあると思うけど,色々なところに気をつけないと炎上する世の中であったり,自分の行動に思わぬ逆機能が潜んでいたり。ううむ,ううむ,って感じ。

昔むかしの思想家のことを多少なり知ること,なんだかとっても面白そうだなと改めて思っている。
もうすぐ思想の分野から「神」が消えてくるらしい。混迷をきわめる感じになるんだろうけど,それは現代に近づくってことでもあるから,楽しみだなあ。

*1:みんなに共通の正しさから一人ひとりの感じる美しさへ,という対比でもあるようだ。

*2:教育思想的にはしばらくあんまり動きはないらしい…。

*3:プラトン的には「イデア的」とも言えるのだと思う。

お笑い×教育

先日謎の飲み会があった。お笑い×教育がテーマ。
とあるプロのお笑い芸人の方が,教育に興味があり,今度学校で授業もするそうなので,そのブレストがてら,教育畑の人たちと話す,的な場。
先輩の先生にもお声掛けして,5人くらいで3時間。あっという間だった。

その芸人さんからすると,授業のネタ的なものが得られれば,くらいの気持ちだったのだとは思うけど,
話が色々なところに行くうちに,イベントを打とうという話にまで発展。
同席していた元TFJの方のスピード感,ヤバい。
同い年の人だったけど,今は色々なところでファシリテーションしたり研修したりキャリア教育したり,ということらしい。すげえ*1

ネタづくりの話なんかは,非常に興奮しながら聞いていた。
学歴を推すスタイルの漫才をしているコンビ*2で,
高学歴な相方にインタビューしながらネタをつくっていくらしい。面白いところを掘り起こす,的な。いいですね〜*3

その高学歴な相方が,特撮映画ファンの俳優さんのインタビューをするために,その映画についてにわかに勉強して臨んだら,その俳優さんに「君は本物だ」と認められて握手した話。
方やその俳優さんは筋金入りのファン,方や相方はにわか,その2人の固い握手,という構図が面白くて,これをネタにできないかなーという話,超面白かった。
その人の面白いところをネタにするだけじゃなく,ある場面の関係性をネタにするって,とっても高度な気がする。

ネタの話から,芸人の成長段階の話に。芸人は笑いという客観的なフィードバックが即座にあるからわりとやりやすいのかなと思った。
教員の場合は,一回の授業で何かが爆発的に変わることはあまり望めないしね。だからこそ「反省的実践家」という言葉があるんだろう。
もちろんこのメタ認知は芸人さんにも非常に要求されていて,MC中の頭のつかい方はとても参考になった。

その中で,芸人とか教員とかあとアスリートとか,一般的に社会から隔絶されているとされそうな人たちの持つ汎用スキルって,いわゆる社会人になっても役立つんじゃないの,というのは,なんだかとても勇気づけられる話だったな。


その芸人さんが言ってたんだけど,テクニカルに上達すると,逆に面白くなくなるということ。
3段オチとか,テンプレとされる流れはあるけど,それを押さえるだけでは見切られる,と。*4
それはネタ自体への慣れにも言えることで,「新ネタが一番おもしろい」ということを言っていた。

教育に関してもワークショップに関しても,ギチギチに詰めすぎると遊びがなくてつまらない,という話が出ていた。

それはそうだなと思う。けど,その一方で。
新ネタが一番おもしろいとか,遊びが大事だという話の,その対極にあるものも多いよね。
たとえば芸人さんで言えば,以下の動画。

【水曜日のダウンタウン】やり込んだネタならボケとツッコミ別撮りでも成立する説

たとえば教育で言えば,東進とかスタディサプリに代表されるような,動画授業。
スタディサプリ - YouTube
これらはどちらも,目の前の人に向かってされたネタ/授業ではない。
しかし人をひきつける力がとても強いのは周知の通りだと思う。

そして,これもさらによく言われることだけど,ただただ教師から生徒へ知識を伝達する授業であれば,こうした日本中/世界中の優秀な教員の授業と勝負しなくてはいけない。
ここは芸人と教員の大きな違いな気がした。

つまり,教員は多分,日本中/世界中の優秀な教員と本当に勝負する気があるかというと,そうではないと思う。多分。もちろん一定数いるとは思うけど,そういう人はむしろ予備校に多いのか?というイメージ。
とすると,教員の仕事としては,生徒を教室内に囲って自分の権力性を維持するか,生徒を教室の外に開いて,自分の役割を知識伝達から変容させていくか。

だけど,芸人は多分,日本中/世界中の優秀な芸人と本当に勝負する気があるんだと思う。
この日話した芸人さんも,オンリーワンになるために努力しているわけだし*5


芸人養成所でさんざん叩かれて,それでも芸人でい続けている理由は?と聞いたら,
まずは自分は面白いはずだという最低限の(でも力強い)自己肯定感,そしてそれでもまだ足りないものがあるという謙虚さ、周りの先輩芸人などからの支援*6。キャリア教育でも大事なとこだよな,としみじみ考えさせられた。



数日たってふり返って。自分はかけがえのない人であるのは間違いない*7。なのだけど,そのかけがえのなさが職業上どう表れるのか。表れるべきなのか。まだ良くわからない。

ただひとつ思ったのは,自分は職業上でも,もう少し,オンリーワン目指して身を削って努力していかなくちゃいけないのかもしれない。
いやはや,面白い飲み会だった。

*1:その人のその瞬間のフットワークの軽さと,その人のキャリアの「複数のわらじ性」みたいなのがやっぱり関係ありそうだなと思うなど。

*2:っていうと大体誰か分かっちゃう気もするけど…w

*3:ただショックだったのは,詳しくは割愛するけど,「うちの相方こんな変なやつなんですよ」っていうエピソードに俺の方が共感してしまって,高学歴の人単純にヤバイ人説が流れたこと。。笑

*4:本日公開されたドキュメンタル シーズン4https://www.amazon.co.jp/dp/B077S8HD4Xでも,ある芸人さんが笑って,その後「だって◯◯すると思ったらせえへんのやもん」的なことを言っていたな。

*5:と同時に,先輩芸人からは「一般人が真似できるものじゃないと流行らない」と言われたらしい。難しいなあ。。笑

*6:初めてのテレビ出演ですべり倒した後,楽屋に呼ばれて先輩芸人に励まされたという話,よかった。「自分たちも舞台やら他の場所でいっぱい球投げて,その中でよりすぐりの球をこういう全国ネットで投げている。それでも打たれることはある。お前らはまだ球数投げてないんだから,打たれて当然や」うーん,よい。

*7:それはこれを読んでいるあなたがかけがえのない存在であるのとまったく同じ意味において!