さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

LET&全国英語教育学会感想

時間を20分に区切って集中してブログを書いてみるよ!(と言うことで中身のないブログに何か免責できるような。


先週1週間は、学会というものに生まれて初めて参加しました。厳密には初めてじゃないと思うけど、ワークショップに行ってみたり、いろんな部屋に行って発表をはしごしたりしたのは初めてってことで。
当日の記録は、この辺↓
外国語教育メディア学会(LET)全国研究大会に参加しています - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!
全国英語教育学会年次大会に参加しています - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!
外国語学習の科学〜SLAの知見をいかに英語教育に活かすか(ピッツバーグ大学・白井恭弘先生特別講演)@全国英語教育学会 - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!
中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―日本語事例と英語事例から― - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!


一番強く感じたのは、「早くこの場所における当事者になりたい」ということでした。他に色々感じたことを以下に野放図に書いていきますが、研究者でも現場の先生でもない自分は、やっぱりこの分野に対してなんら責任を負えていないということを痛感しました。仕方ないこととはいえ、立派な研究をされている院生・大学の先生や、日々の校務分掌でも死ぬほど忙しい中、立派に研究している現場の先生とは絶望的とも言える差を感じていました。知識も、現場知も、何もかも足りない!
だからこそ、次回はなにかの発表をする立場、フルボッコにされる立場としてああした場にいられたらなと思いました。
…というエクスキューズを置いた上で、以下思ったことを書いておきます。


まず、この分野(英語教育なのか、教育なのかは分からない)を学問として立てることの困難さ。SLAの分野が一番「科学」として自身を立てることに成功しているように見えたしだからこそ白井先生が呼ばれて大きな講演を任されているのだと思うけど、それを現場の教員がきちんと自身の実践に落とし込めているわけでは必ずしもない(もちろん落としこむべきかどうかも議論があるところだけど)。
ここらへんの「理論と実践の乖離」的な部分に関して、もっとも得心がいった論は、研究と実践のあいだ - 英語教育2.0 〜my home, anfieldroad〜にあった、「摩擦」という考え方。生徒との関係性やら学校のおかれた環境やらで、先生は必ずしも理論が指し示す通りには実践できない、というそのhindranceを「摩擦」と表現するのは非常にうまい。
同時に、やっぱりこの「摩擦」は各自の先生がなんとかすべきもので、研究者が統一的な理論でなんとか解決できる類のものではないと思う。もしこれを「研究」でなんとかするなら、柳瀬先生の「生態学的アプローチ」的なものが必要になってくると思うけれど、それこそ無限の場合分けが必要になって、そんなマニュアル(と呼ぶのはアレかもしれないが)、とてもじゃないが作れないし作れても誰も読めないでしょう。


ということで、現場の先生の仕事としては、

  1. 「摩擦」をなるべく減らす
  2. (「摩擦」が理想的な状態になったと仮定して)「理論値」を出すために何をすべきなのかを知る

があり、「研究」の対象は主に後者なのだと思います。
ただ、「摩擦」を理想的な状態にすること自体が神がかりに難しく、それができる先生が現場で人気があって「◯◯先生の教師力セミナー」的なものに呼ばれたりするんだというのも理解できる。
あと、前者が研究の対象になりづらいからといって研究者がだんまりを決め込むのはまずい、とも思った。その観点から柳瀬先生の活動は意義深いが、なんだろう、全ての研究者が全力かけて「摩擦の低減」に取り組むのもやっぱりなにか違うような気がしている。


そうした話を書いた上で、次のトピックとしては、方法論的にあまりにもツッコミどころが多い「研究」も多い、ということ。
例えばアンケートで生徒の様子を把握、というのはよくあると思うけど、例えばダブルバーレル(「AやBは良くないと思う」という設問は、Aだけ良くないと思ってる人はどう答えるの?)とか、主語が自分なのか一般論なのか不明なもの(「英語は音読で勉強するのがよい」だけ書いてあった場合、一般的にはそうだが自分は訳読で勉強したいと思っている人は、どう回答するのか分からないかもしれない)があったり、そうしたところはまず真っ先に潰すべきツッコミどころのはずだけど、やっぱりなかなか難しいのかなあ、と偉そうにも思ってしまいました。あと因果関係の順番がどっちかわからないのに勝手にA→Bと想定していたり、分析も散布図書く前に勝手に群分けしていたり、「いいの!?」と思ってしまうものも多かった。


ただ。


まず自己ツッコミとして、「自分は研究する時それできるの?院生だからもちろんできるよね?(反語)」とか「まだ何もやってないくせに偉そうに」とかはあるものの、それよりもっと根本的な問題として、「こうした話は、おそらく多分に専門的な教育の賜物であり、そんなこと知らずに教員になった人に対してそれを要求するのは、まさに現場の学会離れ・研究離れを助長するのではないか」という疑問。
この分野を学問として立てるなら、この辺の話はクリアしなくてはいけない。ただ、現場の先生は学問として立てるかどうかなんて正直二の次三の次、というのも色々な話を聞いていて分かった(多分聞く前からわかっていた)。
例えば浦野先生・水本先生が効果量のワークショップをやってくださり、きっと学問としての正当性・積み上げ可能性を得るために、という意図があったのだと思うけど、あのレベルの話がすらすら理解できる人は、あの場にはそんなに多くなかったのではないか、なんて思ってしまう。さすがに自分は「理解」はできた(と信じたい)。「実践」できるかは、まあこれから。
あのワークショップ自体の価値は全く否定するつもりはないけれど、あのワークショップの「逆機能」(聞きかじったジャーゴンを使ってあとで失敗するタイプ)として、「うげ。こんな難しいの?ハードルたっか…」と、研究から足を遠ざけてしまう人が出るのではないか、ということでした。
じゃあどうすればいいのだ、と言われても何もないし、おそらくCELESでなされているプロジェクト「英語教育研究法の過去・現在・未来」には、研究法の周知みたいな目的もあるのではないかと想像しているので、あの場だけで何かをしようというより、研究法への意識を高めて、その後も引き続き勉強する場を提供していくのだと思うけど、、。ダメだ全然まとまってない。
でも話をされているお二人の先生の様子からは、及び今回講演を聞いた白井先生や柳瀬先生からは「このままではダメだ」という逼迫感のようなものが伝わってきた。勝手な解釈かもしれないけど、ああして第一線に立たれている方があそこまで精力的にこの分野のことを考えて行動されているというのは心底驚嘆したし、自分も少しでも何かできたらいいな、と思えた。


最後に感想らっれっつっ!

  • 学会ってなんか同窓会的な雰囲気もあるんだな!
  • でも一見さんにはなんか居づらいように思えることもしばしばだな!笑
  • でもでも北海道涼しくて楽しかったな!

(ああ結局30分かかってしまった…)

中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―日本語事例と英語事例から―

8/10(土)16:00-17:40に行われたシンポジウムの記録です。
登壇者は、柳瀬陽介(広島大学・コーディネーター)・樫葉みつ子(広島大学・指定討論者)・大塚謙二(北海道壮瞥町壮瞥中学校・提案者)・坂本南美(兵庫県立大学附属中学校・提案者)の各先生方でした。


◯お断り
2つ前にアップした、白井先生の講演の記事は、わりと網羅的にメモを取ることができていました。しかし、今回のシンポジウムは、全てをメモすることが非常に困難で、メモを見返しただけでシンポジウムの内容をきちんと把握することは不可能です。しかし、メモが不完全にしか取れなかったということ自体に何か意味があるのかもなあとも思うので、ここにアップし、感想を書いていこうと思います。なので、これを読んであのシンポジウムをふり返ろうと思っている人にとっては期待はずれとなることを予めお断りさせていただきます。
「←」の後に書いたのが個人的な感想です。



◯はじめに
柳瀬先生が登壇されて、経緯の説明。の前に、
3ヶ月で18kg痩せた!が!円形脱毛症に!
ご本人に訂正いただきました。詳しくはコメント欄を参照していただきたいですが、順序としては「ストレスによる円形脱毛症→体重減・少食主義に→そのまま理想体重キープ」とのことでした。確かに順番は大事ですね…!!すみませんでしたm(_ _)m
←つかみ完璧すぎ…!!


本発表は、3年計画の2年目をふり返るもの。1年目の研究概要は、ジャーナルライティングを通じて、1.自分を他者化、2.他者化された自分を観察・記述することで、過去・現在・未来の自分の現実の可能性を想像できるようになる。
←これに関しては、柳瀬先生のブログ「英語教育の哲学的探究2: [草稿] 英語教師が自らの実践を書くということ (1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―」をご参照下さい。


その後、一般読者を対象としながら編集者や査読者にもアピールする大塚先生と、国際雑誌に投稿を果たした坂本先生のご紹介がありました。


◯「生態学的アプローチ」
←→「工学的アプローチ」=量的研究
RCT, Double Blind Testなどの、量的研究に必要な手順が踏まれていない。
介入の同一性も保てない(人によって同じ手法でも授業は違うよね)
結果を一般化するのはやりすぎじゃない?
←Double Blind Testとは、医療の例えで言うと、被験者自身が自分の薬が新薬か旧薬か偽薬か分からないようにするとともに、それを処方する医者自身も、それがどの薬か分からないようにする、という点で「二重」盲検法なわけです。
←やってみたいけどできないだろうなと思う教育の実験として、A先生はaという教授法を信奉していて、B先生はbという教授法を信奉しているような場合、A,B先生が、a,bの教授法をどちらも使ってみたら、多分その教育効果は、[A*a, B*b]>[A*b, B*a]となるんだろうなと思っています。


「工学的アプローチ」とは、生態学的観察抜きの事例研究を、「一般化」できる科学として標榜している自己欺瞞ではないか、という主張(そして、まだまだ強い言葉での批判が後に控えているよ…!!と匂わせていらっしゃいましたw)


生態学的アプローチ:
例えば体の大きい先生・小さい先生。中高現場で考えたら、色々違うはずだ。そうした要因(個体・歴史・時間・関係・環境などなど)はたくさんある。教育内容と教育方法を定めたら授業はうまくいく、なんて考えられてるけど、教師・生徒・学級・学校といった環境の中で「教育実践の生態学」が立ち現れる。


各要因間の相互関係を重視・相互関係の全体性・システムの複合性
→単純で一方向の因果性を疑問視。教育方法A>教育方法Bなんて、簡単には言えないでしょう。
先生A>先生Bなんてことも、もちろん言えないでしょう(植物の種の比喩)。
多元的な複数の視点をもち、個別の生態を丁寧に観察する。


←以上のお話も、柳瀬先生のブログ(「英語教育の哲学的探究2: 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ」)に詳しいですのでご参照下さい。というか僕のブログ読まずに先生のブログだけ読んだほうがいいと思います。汗


◯ARELE論文分析
ARELEのわりに、質的・認識論的・reflectiveな話が論文になっていない。
←この話も、柳瀬先生のブログ(「英語教育の哲学的探究2: [草稿] リフレクティブな英語教育:10年間の動向」)に詳しいですのでご参照下さい。あれホントこのメモアップする意味ないな…。


なぜ・誰が、中国地区からこのような発表を課題研究フォーラムを許したのか、的な批判があったらしい。
→(怒) まさに激おこぷんぷん丸な感じでお怒りでした…w


今回の講演で使うキー概念は、アダム・スミス「公平な観察者」(の、柳瀬流解釈)。
新任教師はAgentとして実践で手一杯。そこで実践をふり返ろうとすると、spectatorとしての自分が現れる。その役割は、
1. reflection(私は生徒Bをこうみている)
2. imagination(生徒Bは私をどうみているんだろう)
の2つ。これらがうまくかみ合うと、sympathyが生まれる。
そして、Agentとしての自分と、Spectatorとしての自分をを統括するXという視点。これをImpartial spectator(「公平な観察者」)と呼ぶと、publicationは、一般読者というImpartial spectatorに対してpublishするわけだから、その視点に近づく試みと言えるだろう。


段階的な発達(僕が勝手につけた呼称です。「発達」と言ってしまってよいかには議論があるかと)としては、
1. No reflection
2. Reflection on Action (by theories)
3. Reflection in Action (in classroom)
4. Reflection on Reflection in Action (3についての2)
→これがWritingという作業
5. Reflective Communication
→これがPublishingという作業


とのことでした。


◯大塚先生の実践報告
新出単語を学んでできるようになること3つ:発音・意味・日→英
どの順番で難しいか?
生徒をみていると、日→英より、意味を言うことのほうが難しそうだぞ?→アンケート→8割の生徒が、意味(英→日)より、日→英のが楽とのこと
←そうやって実践の中の疑問を解くために研究的な手法を使っている、ということだと思います。(きちんとメモを取れていなかったので、なぜここにこの話を持ってきたか不明瞭になってしまいました)


授業の目的:
英語学習の楽しさ・子ども達の進路実現・授業を通して社会性を身に付ける(人前で堂々話す・ペア活動の中で思いやり、協力の心を育てる)など。


publishingについて:
興味があって書き始めたが、あまりに辛い!が、若い先生・困っている先生の一助になれば、という意識に変わってきた。

『成功する英語授業!50の活動&お助けプリント』
1998年:英語教育セミナーで発表
2000年:インターネット上で公開
その後出版社の方の目に止まり、様々な工程を経て出版へ。確かにものすごく作業量があって大変そう…。


伝えるために『しょうゆ』
→醤油って、毎日みてても書けない。書けるようにさせたいものは書かせないと。


生徒を本気にさせるのは、ゲームなど使わなくとも、難易度調整で十分。など、色々な教訓をpublish経験から得たとのことでした。


◯坂本先生の実践報告
1,200人の生徒を抱える中学校の2年生に対する実践を海外論文誌に投稿した。
国際雑誌Teacher Development
←これ修論に使えそうかも…!!笑


教師の成長、をテーマにしている。9ヶ月間、TTを行なったパートナー教師の語りを質的に分析。
概念的気づき・感情的な気づき・同僚性への気づきや、教師としての、学びに対するownership of teacher learning(Norton, 1997)の獲得とその所有感の変化、生徒たちの語りの分析、などがトピック。


「授業者である自分」←→「教室を研究する自分」との行き来
授業をデザイン←→教室をmacro/microにみていく
生徒の学びを捉える←→生徒の言葉や教師の語りを分析的に捉える
など、様々な違いがある中で見えてきたものがある。

N.Sakamoto, 2011, “Professional development through kizuki - cognitive, emotional, and collegial awareness”, Teacher Development, 15(2): 187-203
こちらのページから購入出来ます。
背中を押していただいた先生方の存在などにも言及されていました。


以下、柳瀬先生・樫葉先生とのインタビューで聞かれたことを中心に答える。
Q1. 普段日本語で思考していると思うが、それを英語で刊行することはどうだった?
A1. 日本語でも、言葉を学び直した(語りの分析・自分とパートナー教師の記述によるリフレクション・生徒たちへの口頭によるインタビュー)
インタビューデータの特長として、播州の方言(「〜け?」とか)があり、翻訳は困難だった。


Narrative 1
「あの時、すごくがくっとなって…」
→これは、ショックだったのか、疲れたのか、悲しかったのか、なんなのか。前後の文脈から、動詞の選択が変わってくる


Narrative 2
(前で発表すると声が出ない・足がすくむという女の子にも、ぜひ発表してもらいたい、という状況。その子は立てない。友だちから背中を押されて前に。それでも声は出ない。N先生にちらっと一瞥。N先生はその子のもとに行き、そばにいてあげることで発表ができるようになる。その場面をふり返っての語り)
「カタカナをふってるんですけど、そのカタカナをすらすら読むっていうのも、あの子にはたぶんすごい難しくて。だから、たぶん来てほしいなっと思って。で、普段もよく話をしてるんで。こっちを見たなとか、あぁ来てほしいんやっていうのもわかって。(後略)」
→主語ない!英語に訳しづらい!


語りを分析して実践をまとめることの意味

  1. インタビューやジャーナルデータとの対話
  2. 実践との対話
  3. 自分自身との対話


言葉の持つ力を実感
授業や教室の研究を行うことの素晴らしさへの気づき
「教室」への意識の高まり


◯柳瀬先生から一言
Encouragement and Empowerment、を意識している。つまり、この先生たちスゴいでしょ!ということを言いたいのでは全くなく、現場教員への後押しになれば、と考えている。


◯樫葉先生のセッション
200人いる生徒のうちの一部は自分になつくだろう。そうした一部の生徒の言動を取り上げて実践記録として示すのはどうなんでしょう、という問題提起。
←この問題提起自体は心底納得。ただ、それに答える形になっていたようには自分には思えませんでした。


meaningfulな授業←生態学的な授業
教職の専門性:対人関係専門職として、生徒の持つ可能性を最大限に引き出す手助けをする行為において発揮されるもの


1.育てたい生徒像と、2.今の生徒たち、についての質問。


大塚先生:
1.社会に出て行く際に、堂々とした人間になってほしい。 “What’s a motto!” 6つのモットー。speak loudlyをさせようとしている。
2.月曜日はダメ。長期休暇開けもダメ。最終目標も、達成できている時とできていない時がある。


坂本先生:
どの教科でも共通する、思いやり豊かな生徒に育って欲しい。英語という教科は、言語を使うという特性上、人とかかわるということが多い。責任を感じる。学校に来にくい子、来にくくなってしまう子、そういう人にも来て欲しい、と思う。授業を抜けると、転校してくるような感じになってしまう子が多い。そういう人に対してもwelcomeなクラスづくりをしたい。中学校三年間は人間づくり。教室の関係の中に自分も入りたい。


◯柳瀬先生のまとめ。
「責任」という言葉への着目。(弱い意味での)一般化。観察。社会性
実践研究を論文としてpublishする意義
研究と実践を、「異質なものの融合」と表現されていたのが面白い。
←誰がその表現をされていたか聞き漏らしてしまいました。その融合を進めて行かなければならない、という趣旨のご発言だったと思います。


◯フロアとのQ/A
Q1. レビュアーからどんなコメントが有ったか。読者からの反応は。
A1. “awareness”って言葉を使っていたが、「これが本当に言いたいことなのか」という言葉から、termに関して再精査し、「気づき」という言葉を使った。
国内・海外からの反響大。「気づき」という概念が自分の授業をそういう目で見るようになった、という海外からのコメントや、授業の文脈の補足や、状況の補足。


Q2. すごく忙しい現職の先生にとってハードル高くないか。大きなコミュニティでpublishすることの意味。
A2. 坂本先生:新任3年間で色々あった。研修では「明日使える」というTipsの練習をするのが普通だが、論文にまとめるという仕事で、自分の活動は変わった。大学院の仲間と本を読んでみようとしたり、なんだり。
大塚先生:(写し漏らし)
柳瀬先生:イチローの分析を聞いて「私はイチローではない」って言われても。まずはクールに分析。全員にpublishを勧めるものではない。ただpublishによって自分の思考する時間・空間が広くなる。大きなコミュニティの方が、赤の他人からのレスポンスが得られるというのがでかい。また、publishすることで、お2人とも理論への志向性が高まったようなので、そうした効果もあるだろう。


Q3. 他の先生の研究を後押しするような場合があったか
A3. 大塚先生「自分も大学院に行きたい」とおっしゃった先生がいた。年齢的な側面もある。
←年齢が上になるにつれ、自分が与える影響も大きくなってきた、ということだと思います…。
坂本先生も、同じく同僚が1人大学院に行った。また、パートナー教師のN先生は非常勤。5回目のチャレンジで教採受かった。研究をする中で、「なぜ自分が英語の先生になりたいか」を語れた。


Q4. 現職の先生の「書く」という作業が、自身に及ぼす影響に関して。教職志望の学生たちにもこういった作業が有効ではないか。
A4. 柳瀬先生:「社会性を持って」書くということが大切。ただ書けばいいというわけではない。


◯柳瀬先生のまとめ
自分の実践を「ごまかす」ことは簡単。実践論文のクオリティを担保するのが今後の課題。



◯個人的感想
 現場の先生方の実践をpublishすること、というテーマでの講演。非常に面白く聞いた。内容に関してはここでは踏み込まないけれど、語り口としてより好きなのは柳瀬先生の研究者としての語りであった。大塚先生のメモに抜け漏れが多いのも、なんというか今の自分に彼の話を正しく聞いて正しく理解する力がないことが原因なように思えた(もちろんメモ取りに疲れてきたとかその他の要因もたくさんあるとは思うが)。そうした意味で、自分は研究者志向が強いのだな、と。
 ただ、坂本先生の報告にあった生徒とのエピソードには、素直に感動した。「生徒の美しい人間的成長」的なものと「研究」的なものとには、相容れない部分があるような気がしていたし今もしている(特に「美しい」って部分が主観だよねと。)から、なんとなくその場面での感動に自分自身戸惑った。
 そうした「感動」を排除しては教育は成立不可能なようにも思えるし、かといってそうした感動に目を曇らされて(非常に嫌な言葉遣いだなこれ…)いては、研究はできないようにも思える。わりとこの辺が「実践と研究の溝」の大きな要因の1つなのかな、と思う。


 最後に、少しだけ柳瀬先生の提唱する「生態学的アプローチ」と「工学的アプローチ」とに関して述べる。この二分法は、そのまま「質的研究」と「量的研究」とに対応しているが、詳しい説明は先述の柳瀬先生のブログをご覧いただきたい。
 講演では、「工学的アプローチ」が一般化を志向する科学を標榜しながら一事例研究に過ぎないことを痛烈に批判されていたが、そこで僕が感じたのは、「生態学的アプローチ」も同じかそれ以上に実現困難な理想像だろう、ということである。もちろんこんなことは柳瀬先生ご自身気づいていて、だからこそ苦しんでいるようなところがあると思っているが、以下僕の思考の整理のために思うところを書き記しておく。

 「生態学的アプローチ」も「工学的アプローチ」も、どちらも教育分野においてはかなわぬ理想像である。後者が理想にすぎないことは、今回の柳瀬先生のご講演を聞けばわかると思うが、前者も同じく実現不可能な理想である。なぜなら第一に、たとえ全ての要因を考えたとしても、それは到底論文・書籍に収まる分量ではないため、誰か他の人と共有することは不可能であるからだ。
 こう書くと「文章等で他の人と共有できなくても、私には全ての要因が分かる」と言う人がいるかもしれないが、第二に、全ての要因を把握すること自体もやっぱり不可能である。だって無限ですよ?神か!
 さらに重要なことには、第三に、「いや、私には全ての『実践の把握に必要な』要因が分かる」と考えるなら、それこそまさに量的研究=工学的アプローチの視点であるということが指摘できる。

 量的研究においては、ある要因(たとえば、指導法)がある結果(たとえば、英語力)に対して、比較的大きい影響を及ぼしていると考えているからその要因を測定するのであり、それ以外の要因の影響をなるべく除外するために、様々な統計手法やRCTなどのデータ採取方法が開発されてきたのである。
 というわけで何が言いたいかと言うと、今回の発表を聞いて、「そうか、確かに量的研究も一事例研究にすぎないな。これからは質的研究だ!」と安易に考えるのは危険ではないか、ということ。もちろん量的研究の欠陥(それは教育分野に特に顕著なんだろうと思うから辛いけど)は認めた上で、でも質的研究だって同じく無理ゲーだし、「全ての要因を見る」という理想を掲げた以上、「自分が大事だと思う一部の要因を見る」という、ある意味で安易な方法を取っている量的研究に比べて、さらに茨の道になることは目に見えている。だからこそ最後に柳瀬先生が「自分の実践を『ごまかす』ことは簡単。実践論文のクオリティを担保するのが今後の課題。」というようなことを仰ったのだとも思っている。




以上です。くり返しになりますが、今回の記事は、シンポジウムのまとめではなく、そこから感じた自分の実践←→研究観や、量的←→質的研究の見方、みたいなものを雑記したものです。あまり共感的でない書き方をしている部分もあるかもしれませんが、それはその方自身に対してネガティブなイメージを持っているということでは決してなく、それをみる僕自身のスタンスを無意識的に反映するものだとお考え下さい。
それではっ!

"What Should Every EFL Teacher Know?" (Paul Nation) Chap.17: How Do You Become a Better English Teacher?

ということで最終章!(本当は昨日まで行っていた全国英語教育学会の感想でも書こうかと思ったけど、とりあえずこっちでお茶を濁す)


先生は教えすぎ、というコンセプトでこの本は書かれたわけですから、先生の一番の仕事は、バランスのよいコースを準備することであり、生徒のレベルにあった一番重要と思われるmaterialを準備することである。


 第一に有用な授業改善としては、extensive reading programをコースの中に設定することが挙げられる。これは長くて難しいテキストを読むのではなく、登場する語彙のうち、未知語は2%くらいを目安とする。もちろん、生徒が自由に選べるだけの本の量や、貸し出しのための制度設計が必要だが、生徒先生両者にとってよいものとなるだろう。
 次に有用な授業改善は、fluency developmentをコースの中に設定することだ。4技能にわたって、知っているだけの無意味な知識を、使える知識に変換しなくてはならない。
 三番目に有用な授業改善は、meacning-focused listening and speakingの活動を入れることだ。以下有用な授業改善として、レベルにあったリスニングインプットを与えること、ニーズやレベルにあった最も大切な語彙から習得させること(そのためにはどの語彙が高頻度語か知るすべを持たなくてはならない)、などが挙げられる。


◯The Conditions for Language Learning
 くり返しがとにかく大切。単に回数を増やすのみならず、その質も。生徒がretrieval(思い出すこと)をして、前回とは違った形で思い出させることが大切だ(前回はリスニングで、今回はリーディングで、とか)。意味や形が微妙に異なる中でその単語を思い出すことで、定着率が上がる。本書は活動に絞った話が多かったが、こうした生徒の「学び」自体についても知っておく必要がある。


◯What Should a Language Teacher Know?
 本書はどういう風に教えるかに偏ったものだったが、他にも言語の性質・言語がどう学ばれるか・言語がどう使われるか、辺りを知っておくことが必要だ。


◯What Can Teachers Do to Improve Their Teaching Skill?
 他の人の授業をみるとか、自分の授業をふり返るとか、本を読むとか。「TESL/TEFL/TESOL/ESL/EFL/ESOL Links - TESL : Journals on the Web」なんてとこでも、様々なarticleが読める。学会に出るのもいいね。general education courseについて学ぶことや、teacher-support groupに入ることもよい。


"Being able to speak English is only part of the knowledge needed to teach the language."というこの"part"が、そのknowledge全体のどのくらいの部分を占めているのかは非常に気になるところ。
なんだか最後の章はけっこうふつーな感じで終わってしまいましたが、これでめでたく、本書のまとめは終了です。いずれ読み返して役に立つといいのだけど。それでは!

外国語学習の科学〜SLAの知見をいかに英語教育に活かすか(ピッツバーグ大学・白井恭弘先生特別講演)@全国英語教育学会

学会に来ています。北海道に来ています。涼しいです。東京の皆さんこんにちは。
僕は初日に諸々の注意資源を使いきっておりますが、ふり絞ってメモを取ったので、白井先生の講演の議事録を公開したいと思います。
不正確な部分もあるかと思いますし、正確であっても浅いまとめでありますので、
さらなる疑問点は以下の記事中に紹介する先生の著書や、さらには専門書等でご確認いただけたらと思います。
ちなみに◯印は、スライドの切り替わりやテーマの切り替わりを示していますが、正確なものではありません。また、「←」の後にあるのは僕の個人的な感想です。すみません(in advance)。
(また、不適切な部分(こうしたまとめを公開すること自体が不適切、という意見も含む)を発見された方は、コメント欄でご一報いただければ幸いです)
では、以下に早速まとめさせていただきます。



◯浦野先生による他己紹介。オーディエンスの3割くらいは、既に先生のお話聞いたことある!


◯自己紹介(Cathedral of Learningのスライド)・自著のお話:『外国語学習の科学』は6万部売れている。

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)


(別にアフェリエイトではないので、ご安心してお買い求め下さい!笑)


他にも色々な本を書かれています。
英語教師のための第二言語習得論入門
ことばの力学――応用言語学への招待 (岩波新書)
英語はもっと科学的に学習しよう SLA(第二言語習得論)からみた効果的学習法とは
外国語学習に成功する人、しない人―第二言語習得論への招待 (岩波科学ライブラリー)
今さら訊けない・・・第二言語習得再入門
(順不同。一番最後は、今日紹介はされていなかったけど自分は読んでましたってのをアピールする意味でも紹介。面白かったです!)


「同じようなことが書いてある」という批判もあるが、異なる想定オーディエンスに伝えるためにメッセージを微妙に変えている。
最新本『ことばの力学〜応用言語学への招待〜』の「応用言語学」は、「言語教育に応用」ではなく、「言語科学の知見を、社会の諸問題に応用」の意味。
手話の例 from 最新本(手話が自然言語ではないという偏見から母語を得られないままの聴覚障害者がいる)。
Evidence-based societyを目指す。


◯外国語学習の科学(岩波新書)の目次スライド:講演のアウトライン
今までは全部話そうとして最後まで行かなかったが、最近では絞っている。個人差の話辺りから始める。


◯3章「外国語学習における個人差」

  1. 若い
  2. 学習動機が強い
  3. 適性が高い
  4. 母語が学習言語に似ている
  5. 学習法が効果的である

以上が個人差を生む条件として存在している。
→2と5しか変えられない。


◯SLA的な考え方で大事なこと:学習者中心
それまでは、教師がこうやったら生徒はこうなるはずだ、という姿勢があった。学習者の学習過程をつかもうとしている。
←学習者が何を理解しているのかに着目するという姿勢は、質的研究につながることがあるなあ。
高校教員時代にSLAを始めて、45人の生徒の頭の中で何が起こっているのか、を常に考えるようになった。effectiveな認知行動をするように仕向けた。
こうした考え方自体がSLAの有効な知見といえよう。今日はスライドに入っていないけど。
←えええええ!超聞きたかった!


◯効果的な学習法とは、
1. 言語の本質にあった学習
2. 言語習得の本質にあった学習
3. 個人の指向にあった学習法
今日は1・2にフォーカス。
(3の例としては)例えば、文法能力の適性が高い生徒・暗記能力の適性が高い生徒それぞれにそれぞれの授業を施したら、確かに適正に合った学習方法のが、伸びたし、授業満足度も高かった。これを適正処遇交互作用という。
文法・音声認識・暗記の3本柱で(適性を?)捉えるのが有力な説。音声が弱い子に対して音声のみで授業をしても効果的な学習法にはならないだろうということを我々は意識しておくべきだろう。


◯言語の本質とは?言語ができるとは何か?
文法単語信仰が根強い。
文法能力(linguistic competence: 音声・単語・文法の能力)・談話能力(discourse competence: 一文以上をつなげる能力)・社会言語学的能力(sociolinguistic competence: 社会的に「適切」な言語を使う能力)・戦略的能力(strategic competence: 問題が起こった時処理する力)
←Canale and Swainだッ!(年号は忘れた。1980っぽい)
コミュニケーションできなくていいなら文法単語でいいけど、そんなことを言っているのは日本だけ(小さく会場笑う)。このテーマは明日また話す。
←明日のシンポジウム楽しみッ!!


◯単語と文法だけではだめ
(その根拠としては)言語には規則で割り切れる部分と、記憶に頼るべき部分がある。


◯「自然な表現」
I want to marry you.*My becoming your husband is what I want.
単語・文法は合っているのに、後者の文はなぜか変と分かる。その知識はどこから来るのか?
これ(この知識?)が、言語習得の本質。


◯規則と記憶を両方意識して学習。
文法だけでは割り切れないことをまず自覚する。
規則←(中間のもの)→記憶
Hold your horses! *He held his horses.
※過去形では使わない。
He spilled the beans. *The beans were split.
※受け身では使わない。
記憶するしかない。相当な量のインプットがないと。


◯ではどうしたら言語能力がみにつくか:言語習得の本質とは
インプット仮説(Krashen):インプットを理解することで言語習得が起こる
自動化理論:明示的知識を徐々に自動化して言語習得が起こる


◯インプット仮説
インプット理解により言語習得はおこる
アウトプットは必要なし
明示的学習は、発話の正しさをチェックする能力のみに寄与する
証拠: 沈黙期(L1, L2問わず、ずっと黙っていたのに、突然話しだす子どもの存在。日英同時に話し始めたりする子どももいる。)
Comprehension approachの効果(TPR, イマージョン)
疑義:TVだけ観てたら習得できない・聞いてわかるけど話せない受容バイリンガルの存在
(親は自分の母語(例:スペイン語)で子に話しかけるが、子どもは周囲の友だちと同じ言語(例:英語)を使う。親はその言語(英語)もわかるから、子は親に親の母語(スペイン語)では話しかけない。結果、親の母語(スペイン語)は理解するが産出できない人に)
→聞いているだけで話す必要がないとダメ


◯実際に話さなくても、頭の中で(無)意識的にアウトプットする(リハーサルする)ようになることが大切。


◯なぜインプットが習得できるか。予測文法の存在
I gave him _______.
母語話者はその次を予測している。
←予測文法があることが何を意味していたのかは謎。言語習得が進むにつれ予測文法も確立されていくということから、自動化理論の立脚点を批判するものってことか。確かに自分も英語母語話者と話してて、相手の話す言葉の先を読んだりすることもあるけど。


◯自動化理論
最初に明示的知識をみにつけ、練習することにより、自動的に使えるようにする
[宣言的知識]―自動化→[手続き的知識]
こうした図式は正しくも見えるが、以下のような問題点もある。


◯根本的な問題・限界:
1. 複雑な言語ルールを全て明示的知識として習得するのは無理
2. 自動化そのものに限界がある(3単現の-s:頭でわかってても使えない)
1.から分かるように、自動化理論は、母語習得に関しては破綻している。第二言語習得にもある程度使えるかもしれないが…。


◯両理論の比較(このタイトルは完全に僕の独断で付けました)
 インプット理論:L1, L2ともに使える
 自動化理論:主としてL2
外国語学習においては、両者を最大限に利用すべき
→現状は?→インプット理論が無視されているよね。さらに自動化理論を使っていても、自動化するところまで行っていない(行かなくていい、とまで言う人も)。


◯言語習得のまとめ(このタイトルは完全に僕の独断で付けました)
(1)言語習得の多くの部分は、メッセージを理解することによっておこる
(2)意識的な学習は、
2-a.発話正しさをチェックするのに有効
2-b.自動化により実際に使える能力にも貢献
2-c.聞いているだけでは気づかないことを気づかせ、(1)の自然な習得を促進(noticing)。
自動化練習もアウトプット練習もいいけれど、基本はインプット。誰にも教わらないで身に付く知識は、たくさんインプットする中で身に付く。
←ものすごくインプットを強調されていた。コミュニケーションだータスクだー活動だーアウトプットだー!という流れに対して懸念を抱いて(このコロケーション合ってる?笑)いらっしゃることが伝わってきた。


◯効果的な外国語学習法・教授法


◯外国語教授法と「科学」の関係
言語学と心理学による教授法
・オーディオリンガル・アプローチ(構造主義言語学+行動主義心理学):日本ではオーラルアプローチ
「ドリルにより、音声・文法構造を習得」、L1とL2の違いを対比(対照分析)し、「母語の干渉を最小限に押さえる」


◯オーディオリンガル方式で教えてもなかなかうまくならない。
対照分析仮説に反証。理論的基盤の失墜
→オーディオリンガル教授法からコミュニカティブアプローチへ。


◯形式中心(オーディオリンガル)から意味中心(コミュニカティブアプローチ)へ
オーディオリンガルの欠点として、意味を考えなくてもできてしまうということが挙げられる。ものすごいスピードで浴びせられる音(形式)と意味を結びつけるという、言語習得で一番大変なところをやっていない。
英文和訳も同様である。日本語に完璧に訳したけど意味がわからない、なんてことも起こる。
科学的基盤は「言語学+心理学」から「第二言語習得」へ。


第二言語習得研究
それまでの理論優先・トップダウンの外国語教育理論から、
データにもとづく研究へ(Corder 1967)。
これが第二言語習得という分野のbeginning。
ちなみに先生は「『開始』って言うとなんかね。なんて訳すんだろう」的なことをおっしゃっていました。なかなか言語学的な現象ですね…!!ただ、「始まり」でいいのでは、とも思った。笑
誤用分析・中間言語分析など。


◯習得順序研究:どういう順序で教えても、習得する順序はあまり変わらない項目が多数ある
「教えたからといってすぐにできるようになるわけではない」ということ自体が、第二言語習得研究の重要な知見。コペルニクス的転回。
生徒ができなかったら、自分が悪いか、教え方が悪いか、生徒が悪いか、と考えてしまうが、「教えたらできるようになるはずだ」というbelief自体が正しくないということを示した。
←どうやって示したんだろう…。
どうせすぐ習得できないから教えるのあとでよい←→すぐ習得できないからこそ早い段階で教えよう(白井先生は後者)
ただ、どちらにせよ3単現の-sができないからといって目くじら立てる必要はない。
←「80%くらい正しく書ければいい」と白井先生は確率的に捉えているのが面白い。0か100かではないよなあ。


◯コミュニカティブアプローチ
最初から言語をコミュニケーションの手段として使う
←「最初から」というのが大事なところかと思ったら、そうでもなかったようですwそこがないと「言語ってそもそもコミュニケーションの手段だから、いまさらコミュニカティブ言われても」という批判を受ける気がする。
1. インプットモデル(インプット仮説)
2. インプット=インターアクションモデル
後者の方が「教え方としては」人気がある模様。


◯インプットモデルか、インプット=インターアクションモデルか?
インプットを取るか、アウトプットを取るか、という問題。SLA研究者の間でも議論がある。


◯ただ!SLA研究者のあいだでも、インプットが言語習得の必要条件であることに異論はない(Swain, 1985)
アウトプットの役割に関しては、議論がある
→インプットなしでは言語習得は起こらない


◯現在の論争点
Input processing (e.g. VanPatten←Krashenの後継者 2004)

  • Grammar changeはインプットによっておこる

Output Hypothesis (e.g. Swain 2005)

  • Inputだけでは、十分な習得はおこらない


◯アウトプット中心のドリルワーク(ペアワークなど)にあまりにも時間を費やすと、一番大切なインプットが足りなくなってしまうという問題がある。
新しい知識はインプットからしか入ってこない!
←だいぶ強調されていました…!!


◯Input仮説の落とし穴
インプットをcomprehensibleにするには、言語外の情報、知識などを使えばいい(Krashen)
例)昨日のサッカーの試合について、教師が授業冒頭で英語で話す。
Input理解は、文法処理をしなくても単語(内容語)処理できてしまうことが多い(VanPatten, Swain)
例)Yesterday, John walked three miles.(文法処理不要:semantic processing止まり)
Today, John walked three miles.(文法処理必要 :syntactic processing)
コーパスでは、文法処理不要な文章が多い。
←ここでの「コーパス」とは、authenticな文脈、とも言えそう。


◯学習者は、semantic processingで止まってしまう傾向あり
Syntactic processingをさせるためには、どうするか?
1. アウトプット派はアウトプットによってそれを行わせる(Swain)
2. 文法処理が必要なinput処理をさせる(VanPatten)
3. 文法指導をする


◯Outputの効用(Swain)
1. 自分のL2のgapに気付く
2. 相手の反応により、自分のL2が正しいか、仮説検証
3. 学習者が自分の言語について話す(metalinguistic function)
2は、相手の英語力次第
3は、まあどちらでも。
→日本では1が一番大事ではないか


◯Outputの効用
自動化(Ellis, VanPatten)
しかし、これまでの研究で、アウトプットそのものが言語習得につながったという結果はあまり出ていない(アウトプットをみる研究でも、大抵インプットもしているので…)


◯Input + outputの必要性が重要
Interaction → inputの順の方が、input → interactionの順より効果的(Gass & Alvalez torres, 2005)
Outputすることにより、inputの必要性が高まり、inputによる習得がすすむ(学習者のインプット処理を上げるためのアウトプットという位置づけ)
また、アウトプットさせることでinvolvementやmotivationに対する寄与もある
そうしたことを押さえた上で、inputとoutputを組み合わせることが大切


◯インプットとアウトプットを組み合わせる
インプットを増やす(アウトプットは、インプットの必要性を感じさせる程度で十分)
同じ教材(もしくは関連教材)を使ってinput→output→input
アウトプットからは新しい知識はうまれない(すでに自分の知っていることで何かをするだけ)
←また、本日の飲み会でお話を伺った先生は、「アウトプットによってメタ認知的な知識、すなわち自分の言語知識に対する知識は身に付く」と仰っていました。確かに。
←ただ、白井先生は、「ただ何も考えずに読ませる音読でアウトプット」みたいな適当なアウトプットが増えていることにも別の講演で懸念を示されていたと思うので、そうした流れに対するアンチテーゼとしてあえてここまで強く言い切っているのかな、とも思いました。


◯最後にインプットするの大事だな、と気づいた。
最後にproductionを入れた活動を村野井先生はやっているが、最後に再度comprehensionを入れることを白井先生が提案したら、村野井先生も同意されていた。


◯先生自身の実践(高校英語)
文法は家庭学習に回す、授業はcomprehensible inputを与える場に。
L→R reading (T-F questions)
(どんな子でもそれなりにできるのがT-F question、とのこと)。
偏差値10上昇!
→インプットの量が10倍以上に。


◯楽しく活動している、というだけでは宝の持ち腐れ。「大量のインプットがなければ」という視点を持つ必要がある。


◯Q/A(時間がないから1問だけ)
Q: 「学習者中心」とおっしゃっていたが、その「学習者」の見方について。先生のおっしゃっているのは、インプットを大量に受けてアウトプットをしつつ言語を習得していくという、ある一定のアルゴリズムを持った「メカ」としての学習者。学習者を情報処理する「メカ」とみていく第二言語習得研究にすがることに不安を感じている。
実際のアウトプットの場面では、様々な情報を使ってアウトプットをしなくてはならない。それほどチップを持っていない学習者はどうすればいいのでしょうか。


A: 社会文化理論・エスノメソドロジーの関係の人ですか?(会場、小さな笑い)
自分はquantitativeの界隈の人=SLAのメインストリーム的な人。それに対して質的な研究が80年代後半から出てきている。2つの研究は矛盾するわけではない(epistemologyな部分では矛盾するが、ここでは割愛)。同じような教授過程をマイクロにみているのが質的研究。
優秀な研究者は、質的研究と量的研究のどちらもできる。どちらもみて、どちらからも学べる。
←epistemologyな部分というのは、構築主義と実証主義、的なやつですね!?(浅)この辺が本当に難しいと最近思っていて、安易に「質的研究と量的研究のミックスだ!」と言えない気がしている。だって根本的に違うっぽいんですもの。


実際の言語使用というのはあまりにもバリエーションがあるので、それができるレベルまでインプットでもっていくのは難しい。その際考えられる対応は2通り。
1.English as a Foreign Languageなので、箱庭的な言語材料・言語使用になるのは仕方ない
→ある種の開き直りか。ただ、最近の教科書は改善しているとのこと。SLAの研究者が教科書作りに参画したりしている
2.個人差に対応したインプットを考えていく必要がある
→個々の状況において必要なインプットを自分で選べる。どんな学習活動をしたいか選ばせ、やらせて、記録させ、提出させる。自分の興味に合った活動ができる。
→本当はこの辺の話もしたかったが、時間切れで出来なかったとのこと。



個人的には、SLAはすでに日本の英語教育に入ってきているよ!というお話が面白く、またQ/Aでみえてきたお話は、本当に本当に興味がある。
外野としてみている分には「興味がある」とか言ってられるけど、自分が研究に入っていくとしたらさあどうする?って感じだよねえ。
また、亘理先生がTwitter上で提起されていた問題意識も非常に興味深い。

「大量のインプット」という時のインプットはcomprehensible inputだとして、白井先生とか社長とかが口を酸っぱくして強調してるにもかかわらず、なんでそうなっていかないかってことは、そろそろちゃんと考えてほしいけどね。実現している所としてない所の違いは何なのかとか。
(https://twitter.com/wtrych/status/366448555348598784)

それへのリプライで白井先生は、英語の先生がSLAを学んでいたか否かがその違いを生むという仮説を提示されていたが、果たして本当にそれだけなのか、というのは検討の余地があるように思えた。
…と書いてしばらく考えたけど、他の仮説を提示できるわけでもないっていう。ただなんとなく、先生個人の問題に帰属させるのは危ういのではないか、それこそ「教師がこうやったら生徒はこうなるはずだ、という姿勢」なのではないかとなんとなく思ってしまっただけです。笑


明日も頑張ります!楽しみ!!(と書いたのは8/10ですが、上のTwitterに関する追記を書いたのは8/11なので、なんだか変な感じ…。笑)

全国英語教育学会年次大会に参加しています

初学会2日目に午前中参加して、一旦帰ってシャワーを浴びて、すぐに札幌へ!
全国英語教育学会年次大会です!


ただとりあえずのお目当ては9(金)夜に行われた前夜祭。
普段Twitterでお見かけしていた先生方にお会いできるチャンス!ということで、思い切って行って参りました。
Twitterとか本とかTwitter上での絡みとか論文とかTwitterとか拝見していた方々ばかりで恐縮しきりでしたが、とっても楽しかったです。


先輩の家に泊めていただいて、(早起きして単語勉強するガリ勉っぷりを発揮して)、学会には全て参加するつもりです。楽しんでくぞー!

外国語教育メディア学会(LET)全国研究大会に参加しています

初学会!
…厳密には違うっぽいけど、自分から積極的に参加したという意味で初めて。緊張。周りの人同士は知り合いだったりするみたいだし。緊張。
アウェイの空気の中、最初の発表を聞きに。中学教員の方がご発表。カチッとしてる。
その発表の前後に、頑張って周りの人に話しかけてみる。大変。


次は同じ部屋でその同僚の先生のご発表。多読と語彙数の変化。有意差は観察されず。
←→ただ「生徒が読みを好きになる」などの主観的な効果は多くの場合先生によって支持されているみたい。


研究自体にはツッコミどころもいくつかあったと思いますが、それでも驚きなのが中等教育に関わりながらここまで研究に時間を使えている、ということ。
聞けば、「1日最低でも何かしら研究に関することをしている。例えば論文を5ページ読むとか」とのこと。すごっ!


今さりげなく「聞けば」なんて書いたけど、もうこれが大変。名刺という文化にデビューですよ。
名刺(専攻名間違えてる情けないやーつ)をこちらが出せばそれは相手に「自分も出さねば」みたいな強制力として働くから、自分みたいなペーペーが出していいのか?とか思うけど、それを周りの人に話したら「ペーペーは名刺配りまくってなんぼ」という意見を複数戴いたので、なけなしのコミュ力を削りとって交流。ちかれた。


色々書きたいことはあったはずなのに。眠すぎてなんも書ける気がしないから、とりあえずこの辺で。
明日朝はLET、夜からJASELE前夜祭、明後日はJASELE、明明後日も、それはそれは体力勝負になりそうだから、まずはたっぷり寝ます。

"What Should Every EFL Teacher Know?" (Paul Nation) Chap.16: How Do You Control a Class?

今日はクラス運営のお話。6ページと短めなのでさくっとまとめておきます。



misbehaviorに対処するよりも、それを未然に防ぐほうがよい。そのためには、(1)good lessons, (2)good relationships, (3)good controlが必要。その下に計10個のrulesがあります。基本的にはそのruleだけ書けば理解できると思いますが、必要に応じて少し補足します。
◯Good Lessons
Rule 1. Be organized and well prepared.
"starting the lesson in a businesslike way."という表現が印象的。活動に適した机と椅子の配置で、すぐに授業に入れるようにすべし。


Rule 2. Have interesting and challenging lessons.
"Interest and challenge"は、新しくて面白いアイデア・難しいけれど難し過ぎないタスク・ヘンテコで楽しめるもの・強く個人的結びつきを感じるもの、から生まれるという。


Rule 3. Keep the learners busy.
20分ごとくらいにfocusを変えて、生徒を飽きさせないように。


Rule 4. Have set routines.
生徒の間に、何をしていいか分からない混乱が生まれると、misbehaviorも生まれやすい。


Rule 5. Help the learners value what is learned.
英文解釈的に難しいタイトル。笑「自分の学ぶことに生徒が意義を見出すようにせよ」って感じか。what is learnedをvalueするようにthe learnersをhelpせよ。
でもここに「生徒自身にシラバスの一部を決めさせる」ってあるけど、学校でやるとしたらせいぜいいくつかの活動から選ばせるくらいしかできないんじゃないか。
他にも、成功体験が必要とか、人を褒めるよりも成果を褒めるのが有効な場合があるとか、進捗を可視化しとくといいとか。


◯Good Relationships
Rule 6. Know your learners.
一人一人の名前を覚えて、しっかり個人のニーズを把握する。彼らの強みを知ることも大事。


Rule 7. Be fair and caring.
ルールを作るのは大事で、さらにそれを皆に等しく守らせ、違反した場合は等しく罰することが大事。「典型的な英語教師」としてのみみられるのではなく、生徒から1人の個人として見られるようにすることで、misbehaviorも防げる。


Rule 8. Keep the learners informed.
なぜその活動が必要で、どうしてその形式でやらなければいけないのかをきちんと伝える。その他知らせるべきこととしては、個々人の成長具合・改善すべき箇所など。


◯Good Control
Rule 9. Be firm but avoid confrontation.
「教室から出てけ!」「嫌です」←困る。という話。そもそも断られそうな要求を生徒にしないことが大切、って言うけど、そうとばかり言ってられないこともあるやね…。


Rule 10. Protect yourself.
何かまずいことが起こったとしたら、自分はベストを尽くしたということを記録に残しておくことが大切。問題が起こった日付・状況も記録。また、自分の授業の概要(評価法・出席の要求など)を書類にして生徒を始め誰にでも見られる形にしておくと便利。


◯Problems and Causes

  1. 他にやりたいことがある
  2. 授業がつまらない
  3. 自分に注目を集めたい
  4. タスクをやりたくないから騒いでそちらに先生の注意を割かせる
  5. 先生もしくは授業スタイルが嫌い
  6. タスクが難しかったり、他の生徒との関係づくりに苦慮している
  7. 学習観・英語観が先生と違う

などなど、misbehaviorには様々な理由があるよね、というお話でした。



残すところあと1章!近日中に書き上げて本を返却しよう。
そして今日から初の学会。一参加者だけど。今日はワークショップ、明日明後日は発表聞いて、明後日夜からは飛行機で札幌や!全国英語教育学会や!たーのしみーっ!