さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『どのような教育が「よい」教育か』読了

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

読み終わりました。非常に面白かった!!

 経験談による、無意味な信念の押し付け合いに終始しがちな教育談義、特に「どんな教育がよい教育か」という問いに対して、どうすれば我々は答えを見いだせるのだろうか。
そんな問いに対して筆者は、ヘーゲルの<自由>論と<相互承認論>を用いながら、答えを導こうとしている。

 ヘーゲルは続ける。各人はどうしても「生きたいように生きたい」という<自由>を求めてしまうが、この自由は、ただ独りよがりに「自分は自由だ」と主張しているだけでは決して獲得できないものである。自らの<自由>を十全に獲得しうるためには、私たちは他者からの承認をどうしても必要とするからである。(p. 26)

こうしてヘーゲルの論の概要を示し、教育の本質を「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」とする自身の立場を明示した後、筆者は、現在の「答えを出せない教育(哲)学」の現状について説明を加えていく。

 教育の現状として筆者が挙げるのは、新自由主義的教育改革と新保守主義との結託である。七〇年代までの自民党・文部省・財界=保守勢力と、革新政党・教職員組合・労働市民運動=革新勢力との、二極対立として続いてきた。国家統制を強めるか抗するか、という単純な図式が、八〇年代なかばから崩れてきた。これは、保守勢力の中に新自由主義的勢力が登場したためであるという。その結果、「広田氏がいう、旧来の保守―新自由主義的保守―左翼の社民・リベラルという、三つの勢力からなる三極モデルが出来上がった(p. 49)」ということだ。さらに2008年リーマン・ショックを引き金に、この新自由主義の立場も徐々に失墜しつつあるという。「つまり現代の私たちは、ポスト新自由主義の教育をどのように構想していけばよいのかという、切実な問いの前に立たされているわけだ。(p. 50)」
 そうした混迷に関して戦後教育学は、保守政権への対抗・教育固有の価値の探究という手法を撮ってきたが、それらは行き詰まり、代わりに「理想・当為主義」「相対主義」「規範主義」の3つの思想的立場が出てきた。

  • 理想・当為主義
    • 教育の理想を掲げ、したがって教育はこうあるべきだ、と論じるもの。
    • 他の理想との対立を避ける事が出来ない。
  • 相対主義
    • そのため、「絶対に正しいことなどあり得ない」ということを強く主張する立場。
    • 不平等を再生産する学校制度、権力に従順な子どもを育てる学校などの暴いたことは功績であるものの、どういった教育を構想していくべきかといった実際的な問題の前には無力になってしまう。
  • 規範主義
    • 上記の2つに搦めとられることなく、教育の「よさ」をどう問うていくことができるかを探求する動き。
    • 「やむにやまれぬ理想・当為主義への退行にもなりかねない(p. 65)」

 こうした現代の教育哲学の持つデッドロックを説明した後、筆者は自身の論の展開に移る。「現象学の援用」である。「教育に限らず、あらゆる知覚、価値観、あるいは信念等に関する信憑や確信、それらは、私たちの「欲望」に相関して現れる(p. 70)」ということを教育に援用すると、「私たちは自らの教育論の底にある何らかの欲望までであれば、確信(教育論)成立の条件としてたどりうる。(p. 73)」そしてその欲望が、他者に普遍的に了解されうるかどうか、というところで議論を進めていくべきだ、というのが筆者の主張である。

「私たちはどのような生を欲するか、その人間的欲望の本質を解明し、その上で、すべての人のそのような欲望を最も十全に達成しうる社会的・教育的条件を探究する」(p. 78)

ありうる疑問・批判に対して、筆者は次のように答えている。

  • 無数にある人間的欲望の本質を見極めることは可能か?
    • 確かに欲望形態や対象は多様であるが、その欲望形態に通底する、欲望の「本質」をみいだすことは可能だと主張する。欲望である以上、それが共通に持っている本質はある、という主張のようだ。
  • 本質論は真理主義か?
    • ここで言う「本質」とは、絶対的な真理というわけではなく、「できるだけ広範かつ深い共通理解の得られる、いわば洞察のことである。(p. 80)」
  • 欲望論は利己主義か?
    • ここで言う「欲望」とは、決して利己的な我欲のみではない。他者との相互理解への欲望や、他者とのよりよい関係への欲望という形態をとることもある。

 次に筆者は、現代政治哲学の諸理論をみながら、自身の欲望論的アプローチの優位を確認していく。ここで比較対象となるのは、「道徳・義務論的アプローチ」「状態・事実論的アプローチ」「プラグマティックなアプローチ」である。

  • 道徳・義務論的アプローチ
    • ロールズの「無知のヴェール」に覆われた「原初状態」など、いかなる社会が道徳的かを論じていく
    • ロールズ(生まれの違いによって社会的成功に差が出るのは不公平)とノージック(生まれの差ももって生まれた権利だから、これを社会が平準化するのは道徳的でない)との対立のように、究極的には答えの出ない問いである。
    • 「ちなみに、ロールズノージックの対立に顕著な問いの立て方を、私は「問い方のマジック」と呼んでいる。あちらとこちら、どちらが正しいか、と問われると、人は思わず、どちらかが正しいのではないかと思ってしまう。しかしそれはまさにマジックなのであって、こうした二項対立的問い、特に価値をめぐる二項対立的問いは、ほとんどの場合、問いの立て方それ自体が間違っているのである。(p. 89)」
  • 状態・事実論的アプローチ
    • 事実として全ての人はある種の共同体の中に組み込まれており、「負荷なき自己」を前提としたロールズの理論構成には無理がある、と主張する。われわれの埋め込まれている文化的価値の中で、「共通善」を探ろうとする。サンデルなどが代表的な論者らしい。
    • なにをもって「状態・事実」とするかは一義的には決められない(事実として我々は地球市民でもあるから、超共同体的な普遍的「正義」の理念を打ち出すべき、といった論理も成立してしまう)。さらに、事実から当為を導こうとすると、しばしば優生主義に陥ってしまう。それは、欲望論的アプローチから言えば、当人の欲望をまったく考慮に入れることがないため危険な思想であると言える。
  • プラグマティックなアプローチ
    • それぞれの場面場面でうまくいく方法を考えていく、というもの。
    • 上記2つのアプローチを慎重に避けているものの、それぞれの場面ごとにどう「よい」を判断していくかに関する具体的な考え方をもたない。

「私たちはほんとうにこのような欲望を持っているか」「ほんとうにこのような社会・教育を欲するか」という問いは各人が自らに問うという形で、確かめることができる問いである。この検証可能性が常に担保されている点こそが、道徳・義務論的アプローチに対する欲望論的アプローチ最大の優位である。(p. 100)

 そんなところで第三章「どのような教育が『よい』教育か」に移る。
 ヘーゲルは有神論くさいし国家主義者くさいから批判されるむきもあったけど、最近再評価が進んでる、ということで、彼の哲学を援用しています。
 いわく、「人間的欲望の本質は<自由>である(p. 107)」とのこと。ここで言う「自由」は決してわがままに振る舞うということではない。
 また、「本当に自由であるなどということが可能か」という従来の問いを、現象学的視点を持ち込むことで無効化した。つまり、「私たちが自らを<自由>だと実感する時の、その本質は何か(pp. 113-4)」を問うというのだ。この<自由>の本質=感度としての<自由>を、ヘーゲルは、「『我欲す』と『我為しうる』の一致の実感(p. 115)」と言う。
 多種多様な欲望とか、幸福とか、一見して人は「自由」以外のものも追い求めているように感じられるかもしれないが、欲望の根源は「不自由」であり、幸福を考える際にも「自由」というキーワードは不可避的に現れる、と主張している。

 ヘーゲルはまた、この「自由」を感じる際には他者からの承認が必要だと説き、これを「自由の相互承認」と名づけている。
 ここで、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>」が改めて「よい」社会の根本原理となる。

 そしてこれを実質化するためには法・権力が必要であるとした後、どのような法や権力であれば「よい」「正当」と言いうるかを考えていくこととなる。一口で言えば、それは、一部の人の意志/利益のみを代表するのではなく、すべての人のそれを代表すること、すなわち、<一般意志>を代表している時、法や権力は「よい」「正当」と言いうる、とする。
 もちろんこれは達成不可能なものであるが、基準原理であり、法や権力の「よさ」「正当性」を問う際の基準になる、とする。そこで必要になるのが、以下のような具体的な問いである。

  1. その時々の状況に応じて、どのような考え方が<自由の相互承認>や<一般意志>の原理を最も実質化しうるといえるか、その具体的理念を実践理論として探究する。
  2. どのような条件を整えればより<自由の相互承認>や<一般意志>の原理に近づけるようになるか、その技術論を実践理論として構築する。(p. 130)

 この議論に照らせば、前章でみたようなロールズリベラリストノージックリバタリアンの対立は、どちらも「原理」を問うているようなみせかけをしながら、その実「状況相関的な実践理論」を論じているに過ぎない、ということが説明される。つまり、格差原理とか共通善の涵養とかいった理念は、どちらが正しいか、ではなく、格差原理が正しいとされる状況はどんなものか、目の前のこの状況において、より<一般意志>を代表しうるのはどういった原理か、という問い方をすべき、ということだ。

 法や権力に対する解説は薄くとどめておいて、議論は「よい」教育とは、という論点に移る。改めて、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」が公教育の本質であると主張した後、教育は、「個のためか社会のためか」「平等か、選択の自由か」といったよくある論点は「問い方のマジック」にすぎないと看破する。
この本質を規定したことにより、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の実質化により近づくにはどうすればよいか」という視点こそが教育批判の唯一有効な根拠となる。

 それでは次に<教養=力能>とは何かを考える必要が出てくる。読みながらの感想だが、この辺りから特に「そういうものだ」というような決め付け(というと言い方は悪いが)のような物言いが増えてきたように思えた。
 個人の<自由>や社会における<自由の相互承認>を実質化するような、特に義務教育段階において育成獲得が保障されるべき<教養=力能>を筆者は「共通基礎教養」と呼ぶ。どの子どもたちにも共通という意味と、将来どのような学業・職業に就いても共通に必要とされる、という意味の2つが込められている。その本質を筆者は「諸基礎知識」「学び(探究)の方法」「相互承認の感度」としている。前2つが「学力」最後が「ルール感覚」とも一般的には呼ばれうる。
 この後になって筆者はその3つそれぞれについて簡単な論考を加えているが、どれもまだ抽象的である。たとえば「義務教育段階修了後の教育のあり方を、『選抜』システムから『選択』システムへと転換する必要がある(p. 157)」と言うが、その具体的な道筋は示されていない(示すのが目的の本ではないからいいんだけど)。
 また、p. 162から始まる「子どもの権利」の節では、子どもたちは十分な<教養=力能>が獲得されるまでは、まだ十全に<自由>な社会的存在とは認められないということ、同時に、社会は子どもたちを保護し、<自由>たりうるよう育む義務があるということが述べられている。そして人権を子どもたちに生まれながらに備わっている権利で、大人と同様の権利が保障されなければならないという考えを退ける。そうした天賦人権説よりも、「ルール的人権原理(p. 164)」として人権を捉えるべきだと主張する。


 「公教育の『正当性』の原理」では、「一般福祉」という概念が提示される。これは、上に述べた「一般意志」の変奏であるという。すべての人の福祉(=よき生)を促進することこそが権力の原理的使命だという。これはもちろん完全に達成することは不可能であるから、以下のように問いを深めていく必要がある。

  1. その時々の状況に応じて、どのような考え方が<一般福祉>の原理を最も実質化しうるといえるか、その具体的理念を実践理論として探究する
  2. どのような条件を整えればより<一般福祉>の原理に近づけるようになるか、その技術論を実践理論として構築する

 教育の正当性をめぐっては、これまで「リバタリアニズム」「功利主義」「リベラル平等主義」の3つが対立しつつも決め手に欠けるような状況があったわけだが、<一般福祉>という原理が提示されたことで、これらは相補的なものとなる。<一般福祉>を最も促進しうるアイデアは何か、ということを具体的な場面に即して考えることができる、というわけだ。
ただ、個人的な感想としては、<一般福祉>をどう捉えるか、というところ自体が超難問で色々な考え方があるだろうから、理屈としてはわかってもそううまくは行かなそうだなあとも思った。

 第四章は「実践理論の展開序説」であり、今まで展開してきた議論から、具体的にどのような実践が展開されうるかを考察していく。
 「『経験』か『教え込み』か」という論点に関しては、「経験」という言葉が、「私たちの学習・探究は何らかの経験においてしかなされ得ない(p. 184)」という意味と「教育の一方法としての『経験』」という2つがあり、後者はあくまで1つの方法でしかないのだから、目的・状況に合わせて選択すればよい(「目的・状況相関的方法選択」と筆者は呼んでいる)と主張する。
 「『よい』教師とは」という論点に関して筆者は、信頼と忍耐・権威・多様性と自己理解、を挙げる(詳細は割愛!)。
 最後には「『よい』教育行政とは」と題して、杉並教育委員会の例を挙げつつ、<一般意志>・<一般福祉>にいかに近づいていけるか模索しているさまを描いている。



 全体を通して、前半の理念的なところの議論は非常に面白く読めたものの、後半の個別の論点に関する議論は、どうも隔靴掻痒な感じ。「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」が実際どう図れるか、なんてことは、どう頑張ってもハッキリクッキリ分かるものではないだろうから、仕方ないんだけど。
たとえば、「すべての人の自由の実質化を促進する」ための<一般福祉>という概念は非常に分かりやすいものの、AとB、どちらの政策/教育方法が、よりこの目標を達成できるか、というところには各人の考えが入り込むだろう。共通の理念を掲げたからといって話し合いが円滑に進むとは限らない。
 ただ、共通の理念すらない状態より、だいぶ議論がしやすくなるのではないか、とも思った。たとえば英語教育において、「英語力をつける」派の教員と「英語を学ぶこと/英語の授業を通した、人格形成」派の教員がいるように思える(当然、どちらか一方というわけではなく、グラデーションだが)。その教員の信念、置かれた学校の状況、目の前の生徒などによって様々だと思うが、これも「生徒の<自由>および<自由の相互承認>(に必要な<自由>の感度)を実質化する」という共通の理念の下に一括化されうるかもしれない。
 こうした理念を置ければ、「本当にその指導が<自由>の実質化に資するものになっているか?」と、議論が少しだけ前に進むかもしれない。「だって◯◯って大事でしょ」の◯◯に入るもののレベルが一つ上がった(そして筆者の主張からすれば、このレベルは、もう上にも横にも行けないような、唯一絶対の段階)、とでも言えるか。
 具体的にこうした議論によって何が変わるかって言われたらよく分からない、というのが正直なところだけど、今までいたところよりは高い次元(それは同時に、抽象的な次元、でもあるからたちが悪いっちゃ悪いけど)で教育について考えることができるのかな、と思います。

 あとこれは余談だけど、ちょっと前に話題になった、ちきりんの「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記や、それに続く一連の反論(「Aしかない」とか極論を言う人の役立たなさ - プロマネブログとか)も、「問い方のマジック」で片付けることができるのかもしれないな、とも。
 すなわち、「AかBかどちらもありうる」「いや、どちらかを言い切るべき」という議論ではなく、「どういう時・条件なら『どちらもあり得る』と言うべきで、どういう時・条件なら『言い切る』方がよいのか」という問いに切り替えられるのではないか。その際、この問い方の良し悪しを決める原理は何になるのか、いまいち分からないけど。笑

 哲学は面白いなあと思う一方、入り込むと泥沼っぽいので、こういうライトめな本を読んでいきたいと思います!(溢れる小物感

♪くーるしくーてせーつなーくてーたのーしくてーひがーくれるー