さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『日本を滅ぼす教育論議』読了

 きっと今日はこれから授業の予習等に追われてあんまり日記のネタになりそうなことできなそうだから、朝方読み終わった本の感想を。
この前の記事で紹介してたやつです。著者の岡本さんはOECD文化庁文部科学省を経て二〇〇六年より政策研究大学院大学教授という経歴。
本書の趣旨は、とにかく「ロジカルに行こう」ということに尽きると思います。議論の前提になるものが共有されていないから、日本の教育論議は変な方向に行ってるよ!という主張が何度も何度も手を替え品を替え展開されています。特に面白かったものを列挙。

 既に述べたように、日本の学校教育は極めて平等主義的な発想で発展してきたが、明治五(一八七二)年に公布された「学制」の中にある「すべての村に不学の家なく、すべての家に不学の人なし」という趣旨の目標は、国際的にも知られている。
 しかし最近は、日本が伝統としてきた「結果平等主義」を「悪」とする主張が流行している。例えば、既に述べた「運動会の徒競走で、ゴールの二メートル手前で全員が待ち、いっせいにゴールインする」といった極端な例が紹介され、「平等主義」への批判や「機会均等でよい」との主張が高まったが、これは論理的に間違っている。
「すべての子どもたちに必要なこと」については義務教育段階で「結果の平等」が達成されるべきであって、それが「教育を受ける権利」の実質的な保障であるはずだ。義務教育とは、「すべての子どもたちに必要なこと」を結果として全員に身に付けさせるためのものであり、「小学校に来たい人だけ受け入れます」という「機会均等」のみでいいというのであれば、義務教育の廃止を主張すべきだろう。
 つまり、間違っていたのは、「結果の平等の追求」そのものではなく、「すべての子どもたちに必要なこと」(「結果の平等」を追求すべき部分)と、「それ以外のこと」(「機会の均等」を確保しておけばいい部分)とを区別していなかったことなのである。(pp.112-113)

この「結果の平等を追求すべき部分」と「機会の均等を確保すればいい部分」との区別を明確に意識すべきだ、という意見は本書の骨子になっています。


 その後「心の教育」的な話に及んだ際には、「内心何を思っているか」に関してはそれこそ「個性化・多様化」が保障されるべきで統一などできない。それなのに日本では「同一性の信仰」から、自分の規範をみなが画一的に持つべきだと各々が考えているせいで、「心の教育を!」と言われると、各自が自分の理想とする規範を思い描きつつ、無条件に賛成してしまいがちだ、と言っています。であるから、心の教育は、「内心」を対象にするのではなく、実際それがどういう「行動」に現れるかでみるほうがよい、という主張がされていました。

逆説的に言うと、「◯◯市青少年健全育成計画」といったものに書くべき「目標」、すなわちその市すべての青少年を対象として共通に育成すべきことは、「◯◯市の子どもたちは、全員が◯◯を大切にする」ということよりも、むしろ「◯◯市の子どもたちは全員、◯◯◯や◯◯◯などのルール違反はしない」ということなのではないだろうか。(p.118)


 ここを読んで思い出したのは、この前教育関係の他コースの大学院生とご飯食べた時に、母親が教員だという先輩が言っていた、「うちの母親の教員としての目標は『犯罪者を作らない』ということだった」という言葉。ここまで目に見えて、かつミニマルスタンダードになりそうなものもないよなあ。笑


 その後も、初等中等教育と高等教育の役割が日本と欧米で逆(日本では初等中等教育で徳(的なもの)、高等教育で知識、というのが通例だが、欧米では反対らしい。だからこそリベラルアーツも盛んだったりするのか??)であるとか、アングロサクソン諸国(≒英語圏?)では家庭教育で「それは悪いことだ」と絶対的な基準を明示してしつけをするが、日本では「それは恥ずかしいことだ」など、他者からみてどう思われるかという相対的な基準でしつけをすることが多いとか面白い話も多かった。そんな中で印象に残ったとこをもう一つ引用。

 自由であるとき、人は自らの判断で行動を選択できるわけだが、その結果については、当然のことながら自分自身が責任を負わなければならず、他人の責任は問えない。このことについては、理屈としては「当然だ」と言う人が多いが、例えば、自らの判断でイラクに行った日本人が拉致されて人質になってしまったときには、おかしな主張が相次いだ。「自分の判断と選択で行ったのだから自己責任であって、税金を使って救出しようとする必要はない」と言う人や、逆に「自己責任ではない」と言う人がいたが、いずれも、「責任」の概念を理解していない間違った主張である。
 自らの判断でイラクに行った場合、その結果起こったことについては当然「自己責任」である。しかしこの自己責任とは、「人質になってしまった」という自分の選択の結果について「政府は損害賠償をせよ」などとは言えないという意味だ・このように「自己責任」とは、「自分の行動の結果」について「他人のせいにはできない」「他人の責任は問えない」ということである。したがって、「政府が税金を使って救出しようとするかどうか」――すなわち、政府には救出しようとするルール上の義務があるか、義務がない場合、救出しようとすることは政策として適切か、ということとは全く無関係なのだ。(pp.211-212)

なるほどなー。


 pp.89-90辺りには、「効率化」と「速くやること」を混同し、「効率化」に反対しつつ、「プロセスを大切に」とか「ゆっくりやる」とかいう人がいるが、それはなんらかの目的を設定したときに「プロセス重視」「ゆっくり」の方が「効率的」であるからに過ぎない、というのもしっくりきた。
 「学校教育に『効率』という概念はそぐわない(新自由主義的だ!とか言うこともできる??)」という意見に対して「それも『学校独自の目標』に照らして『効率的』ってことですよね?」とか言うとなんか怒られそうだから、「合目的的」とかに言い換えればいいのかしら。
 こうした「目的と手段の混同(「効率」は手段に属するもので、その目指す先にある「目的」の議論まで達していない)」に関しては、以下の引用が真理を突いているのではないか。

学習指導要領を作ってきた専門家でさえ(むしろ専門家だからこそ?)このような「目的と手段の混同」に陥っていたわけだが、専門家だけでなくすべての人々について、「自分がしていることには価値がある」「単なる『手段』とは思いたくない」といった誇りや自負心が、「目的と手段の混同」という深刻な問題をもたらしていることが少なくない。(pp.91-92)

手段でもいいような気がするけど、きっと現場にでたら色々変わってくるんだろうなーとも思いました!