さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『詩のこころを読む』

詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)

詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)

読み終えました。多分冒頭に石川啄木

不来方のお城のあとの草に臥て
空に吸はれし
十五のこころ

が引用されてて気に入って買ったんだと思う。

「生まれて(1-26)」「恋唄(27-76)」「生きるじたばた(77-164)」「峠(165-202)」「別れ(203-220)」という章構成。「生きるじたばた」が長いんですね。
いいなあと思う詩が多かったので、コピペ。

「僕はまるでちがって」(黒田三郎、pp.38-39)

僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じ服を着て
昨日と同じように飲んだくれで
昨日と同じように不器用にこの世に生きている
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕のなかを明日の方へとぶ
白い美しい蝶がいるのだ

決定的な「何か」が今日起こったことを予感させる。
「明日の方へとぶ/白い美しい蝶」!


「練習問題」(阪田寛夫、pp.53-54)

「ぼく」は主語です
「つよい」は述語です
ぼくは つよい
ぼくは すばらしい
そうじゃないからつらい


「ぼく」は主語です
「好き」は述語です
「だれそれ」は補語です
ぼくは だれそれが 好き
ぼくは だれそれを 好き
どの言い方でもかまいません
でもそのひとの名は
言えない

ぶっちぎりにかわいい!


「顔」(松下育男、pp. 55-56)

こいびとの顔を見た


ひふがあって
裂けたり
でっぱったりで
にんげんとしては美しいが
いきものとしてはきもちわるい


こいびとの顔を見た
これと
結婚する


帰り
すれ違う人たちの顔を
つぎつぎ見た


どれもひふがあって
みんなきちんと裂けたり
でっぱったりで


これらと
世の中 やってゆく


帰って
泣いた

「にんげんとしては美しいが/いきものとしてはきもちわるい」というのがなんだか可笑しいなと。


「男について」(滝口雅子、pp.65-67)

男は知つている
しやつきりのびた女の
二本の脚の間で
一つの花が
はる
なつ
あき
ふゆ
それぞれの咲きようをするのを
男は透視者のように
それをズバリと云う
女の脳天まで赤らむような
つよい声で


男はねがつている
好きな女が早く死んでくれろ と
女が自分のものだと
なつとくしたいために
空の美しい冬の日に
うしろからやつてきて
こう云う
早く死ねよ
棺をかついでやるからな


男は急いでいる
青いあんずはあかくしよう
バラの蕾はおしひらこう
自分の掌がふれると
女が熟しておちてくる と
エホバのように信じて
男の掌は
いつも脂でしめつている

「早く死ねよ」!!


「助言」(ラングストン・ヒューズ(木島始訳)、p.76)

みんな、云っとくがな、
生れるってな、つらいし
死ぬってな、みすぼらしいよ――
んだから、摑まえろよ
ちっとばかし 愛するってのを
その間にな。

…!!


以上が「恋唄」から。次は「生きるじたばた」

青春は美しいというのは、そこを通りすぎて、ふりかえったときに言えることで、青春のさなかは大変苦しく暗いものだとおもいます。大海でたった一人もがいているような。さまざまな可能性がひしめきあって、どれが本当の自分かわからないし、海のものとも山のものともわからないし、からだのほうは盲目的に発達してゆくし、心のほうはそれに追いつけず我ながら幼稚っぽいしで。ありあまる活力と意気消沈とがせめぎあって、生涯で一番ドラマチックな季節です。(p.83)

著者茨木のり子さんによる青春論。


「てつがくのライオン」(工藤直子、pp.112-113)

ライオンは「てつがく」が気に入っている。かたつむりが、ライオンというのは獣の王で哲学的な様子をしているものだと教えられたからだ。
きょうライオンは「てつがくてき」になろうと思った。哲学というのは坐りかたから工夫した方がよいと思われるので、尾を右にまるめて腹ばいに坐り、前肢を重ねてそろえた。首をのばし、右斜め上をむいた。尾のまるめ工合からして、その方がよい。尾が右で顔が左をむいたら、でれりとしてしまう。
ライオンが顔をむけた先に、草原が続き、木が一本はえていた。ライオンは、その木の梢をみつめた。梢の葉は風に吹かれてゆれた。ライオンのたてがみも、ときどきゆれた。
(だれか来てくれるといいな。「なにしてるの?」と聞いたら「てつがくしてるの」って答えるんだ)
ライオンは、横目で、だれか来るのを見はりながらじっとしていたが誰も来なかった。
日が暮れた。ライオンは肩がこってお腹がすいた。(てつがくは肩がこるな。お腹がすくと、てつがくはだめだな)
きょうは「てつがく」はおわりにして、かたつむりのところへ行こうと思った。
「やあ、かたつむり。ぼくはきょう、てつがくだった」
「やあ、ライオン。それはよかった。で、どんなだった?」
「うん。こんなだった」
ライオンは、てつがくをやった時のようすをしてみせた。さっきと同じように首をのばして右斜め上をみると、そこには夕焼けの空があった。
「あゝ、なんていいのだろう。ライオン、あんたの哲学は、とても美しくてとても立派」
「そう?……とても……何だって?もういちど云ってくれない?」
「うん。とても美しくて、とても立派」
「そう、ぼくのてつがくは、とても美しくてとても立派なの?ありがとうかたつむり」
ライオンは肩こりもお腹すきも忘れて、じっとてつがくになっていた。

絵本で読みたい。


「小学校の椅子」(岸田衿子、p.166)

ながいながい一生のあいだに
みじかいみじかい一瞬に
だれでも いちどは
ここへ戻ってくる
みんながいなくなった教室
さわるとつめたい 木の椅子に


「一生おなじ歌を 歌い続けるのは」(岸田衿子、pp.166-167)

一生おなじ歌を 歌い続けるのは
だいじなことです むずかしいことです
あの季節がやってくるたびに
おなじ歌しかうたわない 鳥のように

学校とか職業とかを想起させる詩だったのでメモしたんだろう。
「おなじ歌」が何を指してるのか、まだよくわからないけど。笑


「生命は」(吉野弘、pp.172-174)

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ


世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?


花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている


私も あるとき
誰かのための虻だったろう


あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

頁を繰ったら「なぜ?」って出てきて、東(という同級生のなんか天才っぽい人)っぽくって笑ってしまった。
最初写した時には「虻」を「虹」って勘違いしてた。それはそれで意味通る気もしたけど、やっぱ虻だな。

 もし、ほんとうに教育の名に値するものがあるとすれば、それは自分で自分を教育できたときではないのかしら。教育とは誰かが手とり足とりやってくれるものと思って、私たちはいたって受動的ですが、もっと能動的なもの。自分の中に一人の一番きびしい教師を育てえたとき、教育はなれり、という気がします。学校はそのための、ほんの少しの手引きをしてくれるところ。(p.186)

これも茨木のり子さん自身による教育論。なるほどねえ。


「旧い友人が新たに大臣になつたといふ知らせを読みながら」(河上肇、p.194)

私は牢の中で
便器に腰かけて
麦飯を食ふ。
別にひとを羨むでもなく
また自分をかなしむでもなしに。
勿論こゝからは
一日も早く出たいが、
しかし私の生涯は
外にゐる旧友の誰のとも
取り替へたいとは思はない。

素敵だ!!なんだか身につまされるところがあったりなかったり。

最後は「別れ」の章から一つ。

「幻の花」(石垣りん、pp.204-205)

庭に
今年の菊が咲いた。


子供のとき、
季節は目の前に
ひとつしか展開しなかった。


今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。


遠くから
まぼろしの花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も!


そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて。

この詩に関して茨木のり子さんは、
「完璧という言葉はやたらに使いたくありませんが、「幻の花」は完璧としか言いようがありません。足りないものは一つもなく、余分なものも一つもなく、菊をみていた視線から転じて、おしまいの二行に飛躍する呼吸の自然さ。「そうして」という接続詞が、こんなに利いている例もそう多くはなく、全体にふかぶかとした余韻と、詩にはどうしても欲しい<軽み>までそなわっていて。」
と評しています。その通りだよなあ!


さて次なるトイレ読書は…。

思想としての近代経済学 (岩波新書)

思想としての近代経済学 (岩波新書)

これこそまさに、「高低差ありすぎて耳キーンなるわ!」って感じ。笑