さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『教育的思考のトレーニング』より

教育的思考のトレーニング

教育的思考のトレーニング

 しかし、そう思わない人(引用者注:「教育と制作的行為とは違うから、ある働きかけをすれば必ずあるアウトカムがあるという行動主義的な考え方はおかしい」とは思わない人)もいる。その人たちは、自分が信奉する理論に自信を持っており、そのとおりに実践すれば、かなりの確率で予想通りの結果になると思っている。ゆえに、その理論を適用することは子どものためになることであり、それをためらう方こそ信念も自信もない教育者失格の人間と見なされる。こうした強い思いこみをするのは知識人に多いのだが、フランス二〇世紀の哲学者マルセル (Gabriel Marcel, 一八八九〜一九七三) の言葉は、こうした問題を考える際に示唆を与えてくれる。

  「知識人は労働者や農夫のように抵抗のある現実と取り組むかわりに言葉で働くのであり、紙はすべてを受けつけてくれる。」(『人間、この問われるもの』小島威彦訳、春秋社、一九六七年、九一頁)

 生命保険の契約や自動車販売の仕事を考えてみよう。商品のメリットを訴えて、思うとおりに契約がとれるだろうか。かりに、どんなにその商品に自信があっても、そううまくはいかない。断られる方が圧倒的に多い。農業が計画通りに進んだら、毎年豊作だ。実際はそうはいかない。収穫寸前に寄生虫にやられたり、台風に襲われたりする。マルセルは、そうした要因を「抵抗のある現実」と呼ぶ。抵抗のある現実との関わりのなかで、労働者や農夫は、「何でもそう思うとおりにはならない」ことを痛いほど学んでいる。
 これに対して、知識人の仕事の対象が、何でも受け入れてくれる紙であるというマルセルの指摘は鋭い。紙に何を書いても、紙から抗議されることはない。抵抗感のある現実と距離をおいて生きていると、「自分は何でもできる」という全能感が生じる。また、自分が言ったり書いたことが、相手にどんな影響を与えるかという想像力が働きにくくなる。しまいには、人間の精神すらも何でも書き込める白紙と見なされていく。(pp.70-71)


少し前の記事(LET&全国英語教育学会感想 - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!)で紹介した「摩擦」の話に近いなあと思ったのでシェア。ただ、紙につらつら書いてるだけだと周りからフルボッコにされたり、逆に行き過ぎると相手にされなくなったりして、そういう意味では知識人だって「抵抗のある現実」に直面せざるを得ないのでは、とは思った。