さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『教師のライフコース』

教師のライフコース―昭和史を教師として生きて

教師のライフコース―昭和史を教師として生きて


読んでます。

「この研究は、昭和六年山岳の長野県師範学校卒業生という、一つのコーホートを対象としている。そのために、時期的、地域的な限定をもち、さらに長野県師範学校が男子のみの学校であったということから、性別における限定をもっている。(p.5)」

とあるように、ある教師集団を長い間追った研究である。追うといっても、対象者は1984~85年に、事後的にふり返ってアンケートに答えたりインタビューに答えたりしているようだが、この時期の取り方がべらぼうに面白い。

 対象としたコーホートの誕生は、明治末年もしくは大正初年であり、師範学校への入学は一部生の場合は大正十五年である。昭和初年に師範学校において教師養成の教育をうけ、昭和六年に卒業して教職につき、昭和四十年代前半に退職されている。昭和二十年の敗戦をはさみ、四〇年知覚を教師としてすごされている。この期間ははげしく変動する教育の昭和史に対応している。したがって、このコーホートの歩みの研究は、昭和史のなかでの教師としての歩みの研究であり、また教師を軸とする昭和史の研究といってもよいであろう。(pp.5-7)


 特に、敗戦後に大きく教育方針が転換される中で、大きな葛藤は感じなかったのだろうか、というところに興味があって読んでみたら、どうやらむしろ戦時中に抱いていた反感が解放され、新教育に大いなる期待を持った人も多かったようだ。


教員赤化事件(参考:http://kotobank.jp/word/教員赤化事件)の一環として長野県で起きた昭和八年の二・四事件(参考:http://kotobank.jp/word/二・四事件)で検挙された知り合いの教員に対して同情的な感情を抱きつつ、どんどん軍国主義に傾く国家に疑問を覚え、しかし表立っての反抗はできない。さらに戦時中は、国家のための食糧増産・出征兵士の見送り等に時間を割かねばならず、教育活動が制限され、研究活動も従来ほどは行えなかった。また、一部軍国主義に対して積極的に加担した教員もいたが、きわめて反省的にふり返っている。まあそりゃそうか。


 そのような背景から、敗戦の受け止め方は、当然・安堵・虚脱などが目立ち、盲目的協力を後悔した、というのが一般的な反応のようだ。

二・四事件において連座し休職経験をもつ教師は、敗戦体験を「ほっとした。マッカーサー様々であった」と記したが、同時に新教育の発足を教育基本法の学習から始めた経緯を左のように記述している。
「先ず第一に教育基本法第一条の暗誦からはじめた。口ずさんでいるうちにこれはすばらしいと思い出し、度々口ずさんでは自分ながらの人間像を画くことから始めたことを思い出す」「画一的教育、人間無視の軍国主義錬成教育から脱皮して、人間の価値を認めあい、自主的精神に充ちた人の育成に努力するのであるから、希望に満ち、やり甲斐あることであった」(pp.233−234)


 「人間無視の軍国主義」への反発から、児童中心主義的な新教育への転換が図られた、的な理解でいいのかな。(浅)
もしかすると、昨今のグローバル化の流れも、ある見方からすれば「人間無視」に映っていて、さらにその点で軍国主義的なものと重ねあわせてみえてしまって猛烈に反発する人もいる、なんてこともあるのかなあと、読みながら夢想してました。