さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

たどり着けない「完全な◯◯」と、後追いの僕たち

ホントどうでもいい話。

色々な授業で、「かつて完全な◯◯が目指されたが、その試みは挫折した」的な話を聞く。
たとえば公共政策の授業だったら、完全合理性やらOR(Operations Research)やら。
ほかにも完全な真理とか完全なエビデンスとか、色々。

60年代くらいの「科学の力で全て解決できるぜイケイケ!」みたいな感じから、「ちょっとうまくいかないかもね…」的にかげりが見え始めて、その後「真理」「合理性」ってそもそもなんだよ、みたいな懐疑から、社会構築主義やらなんやらが出てくる(なんて雑駁にすぎる理解自体が非常に恥ずかしいところではあるけど、それはいったん置いておいて)。

思うのは、「完全な◯◯がうまくいかなかった(いっていない)」という結果だけを受けて、「じゃあ◯◯の質を高める試み自体を諦める」とはならないはずだよなあと。
もちろん、具体的に諦めてる誰かを想定しているわけではないけど、なんというか、授業で概論として「Aはうまくいきませんでした。そんで次にBが出てきました」ということだけを言われると、あたかもAが全くの失敗で、BがAよりあらゆる点で優れているような錯覚を受けそうになる。
でもBが未整備なことも多々ありそうだし、Aだってまだまだ見どころあることもありそうだよな、と。少なくとも、Aをまったく学ばないままにBに行っていいわけではない気がする。

問題なのは、僕らはそれを後から歴史として追っているわけで、「その試みが失敗とみなされるまでの諸々の苦労」を知らないままに、「その試みは失敗(完全には成功しなかった、程度の意味なんだろう)」と教わることで、何かを知った気になってしまう。

たとえば、マルクス主義なんて、今がっつり勉強させてくれるところは少ない気がするけど、かつては主流だったわけで、それが何をもたらしたか、そもそもそれがどんなものかを僕は知らないままに、なんとなくダメなものとして見てしまっているんじゃないか。

いつもの通り、勉強しましょうね、って結論なんだけど。ヒー。