さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

教育の歴史(コテンラジオ)④ユニバーシティ?カレッジ?世の中に知識人を輩出する「大学」のルーツ

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最近このポッドキャストをよく聞いている。歴史は詳しくないけど,深く学んだ人たちの話を聞くことで「面白いな~」と興味がわく。
そして,最近「教育」をテーマにシリーズが始まった。
もうすぐ終わっちゃうのかな?と思うのだけど,めっちゃ面白かったので,メモしていきたいと思います。

#200 ユニバーシティ?カレッジ?世の中に知識人を輩出する「大学」のルーツ【COTEN RADIO】 by 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) • A podcast on Anchor

  • 今回は大学!12世紀後半から13世紀後半。人の集まりのことを「大学」と呼んだ。コミュニティであり,建物も当初は持っていなかった。12世紀後半から,職業としての知識人が現れた。知識人であるだけでお金がもらえるようになった。社会が豊かになったことが一因。
  • 教会権力,政治権力,皇帝権力などさまざまな権力との交渉で,自治権などを獲得していった。
  • 都市単位での生活が基本となる中で,商人や修道士は都市間を移動。メディアとなっていく。知識がたまっていく。都市に規定されない。
    • 大学が持っている越境性や独立性は,このあたりに端を発するもののようだ。
  • 都市が発展すると,読み書きそろばんニーズも増す。(会社が大きくなると,直接売り上げは上げないけど必要,というバックオフィス業務が増える,という説明があった。なるほど!)
  • 古代ギリシアで勃興した哲学・自然科学は,中世ヨーロッパには直接引き継がれず,アラビア語に翻訳され,イスラーム世界に蓄積されていた。そこから逆輸入を始める。
  • universityは,ウニヴェルシタという「組合」を語源にする言葉。ボローニャ大学が最初。その前のローマは,教皇と皇帝が叙任権闘争で争っていた。自治都市も,自分たちの権利を論証する必要が出てきて,法学を学ぶ必要が出てきた。法学の学生が集って組合をつくり,universityになっていった。
  • もともと学生と教師は今で言う家庭教師的な関係だったが,規模が拡大すると,教師は組合団体に雇われるようになった。
  • パリ大学の形成過程は,ちょっと違う。学生らに対抗する,教師らの組合。これがカレッジ。教師らは,学位授与権を持つことで,生徒たちに対抗した。当時の権力からこの学位授与権を(組合として一致団結して)認めてもらった。
  • 大学が学位を与えることができるということは,権威を自ら再生産できる。小中とレベルが違う。大学は博士をつくれる。権力からある程度距離をとって自治的に学問を深められたことで,この後の時代にかなり自由な発想を展開する。
  • ボローニャ大学パリ大学の学位取得者を中心として,ヨーロッパ全土に大学が広がる。
  • アリストテレス古代ギリシア的考え方が,キリスト教会の中にも少しずつ浸透。これがルネサンス宗教改革ルネサンスフランス革命に影響を与えていく。


権威を自ら再生産できるとか,たしかに重要なポイントだよなあ。そしてここの自治的な空気が,今後の思想展開に影響しているとか,胸アツ!

教育の歴史(コテンラジオ)③「よそはよそ!うちはうち!」中世ヨーロッパの日常が生んだ教育の多様性

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最近このポッドキャストをよく聞いている。歴史は詳しくないけど,深く学んだ人たちの話を聞くことで「面白いな~」と興味がわく。
そして,最近「教育」をテーマにシリーズが始まった。
もうすぐ終わっちゃうのかな?と思うのだけど,めっちゃ面白かったので,メモしていきたいと思います。

#199 「よそはよそ!うちはうち!」中世ヨーロッパの日常が生んだ教育の多様性【COTEN RADIO】 by 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) • A podcast on Anchor

  • 今回は,ローマ帝国が滅びて,各国が分立し,キリスト教がおこってからのお話。言語も貨幣も都市計画も一つのところが決めていたのが,分立して,教育に何が起こるか。
  • 大きく2つに分かれる。前半:修道院,後半:大学。大学がおこるには,諸国並立の状況が必要だった。
  • 修道院での教育は,日常生活の中で行われた。徒弟制度。座学という感じではなく,生活の中での行為そのものが今で言う教育として扱われていた。国家とか政治的権力とは遠い。詩の朗読とか暗唱も一部入っている。年齢階層別に生活することをしていなかったので,常に大人と居る。仕事場に3歳くらいの子どもがいて,そこで学んでいる。
  • 自分の仕事は教えること,と思っている人はいない。
  • この時代,ギルド,というものがあった。都市単位,職業単位の組合。仕事を融通しあう。統一権力によって規定されていた時代(ローマ帝国時代)ではなくなったので,教会勢力は強いが国家権力は弱い。自らお互いを助け合うニーズが生まれる。生産・販売をギルド内で寡占することでお互いを守る。そして親分(マイスター)が後進を育てる。住み込みで職人は学ぶ。その後諸国を遍歴し,「マスターピース」をつくる。それがマイスターに認められると正式なギルドメンバーになれる。12世紀以降は基本的にこういうシステムがあった。
    • ちなみに産業革命時,一番の抵抗勢力になったのは,このギルド。技術革新によって教育の内容も変わるし,それまで承継されて来た知識やスキルが価値を持たなくなる。
    • 騎士とかナイトとかもこのギルドで育成される。技術や教養を身につける。女性を大切にしなくてはいけない,とか。
  • 大学,というのも1つのギルド。知識人ギルド。ギルドがギルドして,国家権力や教会権力と比較的独立して生まれることができて,独立的に自治ができた。利害一致している人たちが集まって相互補助をするというのが当たり前の世の中。知識人は知識人同士つながって,自由な発想をつかうことができた。これがルネサンスにつながった。
  • 政治権力の分散→思想家大量発生→世界とはなにか?を再考→社会が変わる→教育が変わる,というサイクル。
  • 次回は大学の誕生。日本の高等教育と,大学の違いとは?

この「技術革新によって教育の内容も変わるし,それまで承継されて来た知識やスキルが価値を持たなくなる」というのは,本当に常に我が身をふり返らなくてはいけないところだよなあ。たとえば英語スキルの本質的な価値ってなんなんだろう?とか。

教育の歴史(コテンラジオ)②論破おじさん・ソクラテスの遺志を引き継ぎし古代アテネの教育スタイル

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最近このポッドキャストをよく聞いている。歴史は詳しくないけど,深く学んだ人たちの話を聞くことで「面白いな~」と興味がわく。
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#198 論破おじさん・ソクラテスの遺志を引き継ぎし古代アテネの教育スタイル【COTEN RADIO】 by 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) • A podcast on Anchor

  • アテネでは公教育があったらしい。
  • スパルタでは強いということが大事だった。強さに特化した教育。強くならなそうな子は殺された。20歳くらいまで体育中心の教育を受けた。スパルタが豊かな証拠。生産活動をしなくてよかった。
  • アテネでは衆愚政治に入ったタイミングで,ソフィストが台頭する(ソフィスト衆愚政治の原因という説も)。
  • ソフィストは議論で勝てばOK,という考え方。相手を言い負かしても社会は良くならなかった。弁論術に長けただけ(一部のビジネス系YouTuber,という揶揄もw)。
  • ペルシア帝国が攻めてきた。ソクラテス(前470 – 前399)が現れた。ペロポネソス戦争(前431 - 前404)などの大変革期に,このままでいいのか,というこれまでの社会の見直しが行われた。
  • シュメール・エジプトでは,限定的なスキルを渡そうとしていた。王様の補佐役が必要だったから。
  • アリストテレス(前384 - 前322)の説いた教育は,国家の責任において,全生涯に渡って教育をするもの。民主主義なので,自分たちで考えなくてはいけないから。国家は民衆そのもの。教育の重要性に気づいた始まり。今リベラルアーツが必要とCOTENの人が考えているのと同じ。自分の生き方を自分で生涯にわたって考え続けなくてはいけない。
    • ここでは優生主義的な思想が見られる。どうやって優秀な支配者を生むか。
  • アテネの国力はこの間落ち続ける。アレクサンドロス大王(前356 - 前323)の東方遠征によって,アテネは敗れた。
  • 徳を求めるようになった。これは「人に言うことを聞いてもらう必要が出てきた」からではないか。中国でも,ローマでも,ギリシアでも徳を求めるようになったのは,腕力では限界があるから,ということはありそうだ。
    • みんながご飯食べられてない時代は腕力が強ければ人は言うことを聞いたかもしれないが,人々の生活が安定してくると,お互いへの信頼関係・人格・教養,というようなものが必要になってくる。
  • 合意形成のコストを考えると,国家統治のフォーマットをどうつくるかは,とても大切。中国だったら儒教,ヨーロッパだったらキリスト教とか。どういうフォーマットをつかって合意形成をしていくか。
    • 武力統治から人格や哲学による統治になった(複雑化・高度化した)のは,人間が成長したから,というように捉えていたが,社会の変容によるものだったのだな,と気づいた。
    • いかに我々が社会に規定されているか。
  • 今回のポイントは,古代のエジプトやシュメールと違うものがギリシアやローマで生まれている。社会的な状況の違いがカギ。自らを主体的な政治参加者と捉えているかどうかが違い。

—世界について考え直すことができたのは,ペルシアの侵攻といった外的要因と,基本的には暇だったという内的要因がある。

今回の後半,示唆に富んでいるよなあ。ぼくらは社会に規定されている。さて,今の教育システムが映す社会の様相とは?でもその順番で考えるのは本当はおかしくて,今どういう社会なのか?を考えることで,きっとそこに必要な教育のスタイルが見えてくるんだろう。

教育の歴史(コテンラジオ)①教育の歴史 ー人間は何のために学ぶのか?ー

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最近このポッドキャストをよく聞いている。歴史は詳しくないけど,深く学んだ人たちの話を聞くことで「面白いな〜」と興味がわく。
そして,最近「教育」をテーマにシリーズが始まった。
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#197 教育の歴史 ー人間は何のために学ぶのか?ー【COTEN RADIO】【アーリーアクセスは2021/7/26 15時頃に配信予定】 by 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) • A podcast on Anchor

  • 子どもに教育するという概念も,歴史的にみると比較的最近出てきた。教育が出てきたのは中世くらい。
    • 農民に生まれて農民に死ぬ人に,哲学なんかを教える必要はなかった。実践の中で必要なスキルを教えるだけだった。
  • すべてが「生きる」だった。
    • 近代になると分業が進み,専門的な「教育」が必要になってきた。
  • 一回教育のことを忘れて聞いてください。年齢区分で分けたりせず「子ども」という概念もなかった。
  • 教育を考える上で,「教育コストを誰が負担したか」を考えるのは大切。教育は,とてもコストがかかる。社会の中でのニーズに合わせて教育の形も変わる。教育は社会のニーズを映す鏡。
  • 座学を人間が始めたのは,メソポタミア。教育は,読み書き計算できる人を生む,というニーズが最初。そのニーズを持っていたのは,政府であり,家庭ではなかった。家では別に文字がなくても生活できた。中世で学校がなかったのは,政府にそのニーズがなかったから(農民に文字が読めるようになってもらう必要がなかった)。
  • シュメール文明に教育が必要だったのは,交易ニーズがあったから。
  • シュメール語を学校で教えていたが,徐々に生活言語がアッカド語に移っていった後も,学校ではシュメール語を使っていた(アッカド語が十分に洗練されていなかった/シュメール語は正式な言語として格式高い位置づけを得ていた)。
  • 政府が行政ニーズを持ち始めると,書記が必要になり,教育コストを払い始める,ということが古代国家に共通して見られた。

とはいわない

夏休み、のんびり過ごしている。もうすぐ仕事が始まり、その翌週には新学期が始まる。
二学期、どんなことを考えて実践に向かおうかなと思った時に「とはいわない」がテーマになりそうだ。

夏休み前の研修中、「とはいえ」というキーワードが出てきた。風越はいわゆるペーパー学力や(内容レベルでの)網羅主義に重点を置かない。「とはいえ」、受験する子どもたちもいるわけで、そこを無視するわけにもいかない、というような話。

その時に、この「とはいえ」って、さんだーの口ぐせだよね、という話になった。そうだったのか。笑
言われてみるとたしかに、両論併記的な物言いは自分よくしているかもなあ、と納得する部分も。
「Aが大事」と言う時に、「Bも大事」と言うことは別に矛盾ではない。どちらも大事、ということがままあるから。でも、「Aが大事。とはいえ、Bも大事」と言うことで、自分の動きが鈍る可能性はある。

ということで、二学期は、「とはいわない」をテーマに、自分のポジションをちゃんと取って、もちろん色々な意見を念頭に置きながら、自分の実践を積み重ねていきたいな。

国語の研修から〜愛も、スキルも〜

 風越学園の夏休み期間は、子どもが来ていないこともあり、研修や夏休み明けの準備三昧。先週末は、あすこまさんプレゼンツの国語の研修にて、リーディングワークショップ(読書家の時間)と言っても、背景にある哲学には違いがあることを学んだ。

(以下ふり返っての自分の受け取りなので、不正確なところもあるかもです。)

 二項対立的に捉えると、片方は子どもの豊かな言語体験をまるっと重視する派で、教員の主な役割は、すぐれた読み手としてのロールモデル。読むことを愛し、子どもたちと同じ目線で読むことの楽しみを分かち合い、リーディングゾーンに没入して読む体験を子どもたちが積むことを促す。
 もう片方の極は、スキル主義といっていいんだろう。すぐれた読み手のスキルを子どもたちも習得することを目指す派で、教員の主な役割はスキルの指導者。その日の授業の目当てを決め、レッスンをし、その後の個別読書の時間もそのスキルに絞ったカンファランスを行う。教員自身がたくさん読んでいる必要は、必ずしもない。

 お互いにお互いへの批判があることや、調査によると読書スキルや読書熱についても、後者の方が成果が出ており、ホールランゲージ的なアプローチの前者は、批判にさらされ、下火であること、そういった流れの紹介のあとに、日本での読書教育の歴史の概観(多読と精読≒読書と読解の二分がどう扱われてきたか、とか)があるなど、とっても面白い内容だった。大村はまの読書通信(だっけ?)、全部読んでみたいなー!


感じたことその1:
 教育政策を決定する政治家の目線に立つなら、多分後者を推すの一択。EBE(エビデンスベーストエデュケーション)の流れもあるし、各回観点を決めて授業していくことで、授業者の保護者への説明も容易。いろいろな意味で広く推し進めるのにうってつけである。
 ただ一教員としてどういうことがしたいかってのは、また別だろうなーとも思う。今あすこまさんと組んで国語のカンファランスをやらせてもらったりしているけど、スキルを手渡す場面ももちろん大事だと思いつつ、「おっ、この本読んでるんだ。僕も好きなんだけど、どんなところが面白い?」なんてやり取りも大事にしていて、こういうのは楽しいなあと思う。
 同時に、彼らが読んでいる本を自分が読んでいないと、やり取りの質が途端に薄くなる感じもあり、、。やはり「教員自身がたくさん読んでいること」は、この実践をするなら核になるよなあという感触もある。

 そしてあすこまさんすごいなあと感じるところは、エビデンス的には後者が優勢な現状は踏まえた上で、自分が心理的にシンパシーを感じる前者的なアプローチで、どうすれば成果が出せるか果敢にチャレンジしているところ。スキルを軽視して「没頭さえしてればOK!」と言っているわけでは、決してない。
 特に「読書家の時間と作家の時間、読書ノートと作家ノートが往還するような設計ができて、子どもの中で読み手としての自分と書き手としての自分が同じく往還するようになったら、多読/精読の二項対立も乗り越えられるかもしれない」といった仮説でもって、これまでの読書教育・作文教育の実践を受け止めた上で、止揚というか、一段高いものにしようとしているのは、本当に尊敬。

 フロアからは、「子どもの読んでいる本を読んでいないとなと思う。同時に、読んでいれば、『ここでこのスキル(推測、とか)を使っておくとこの先ずっと楽しめるよね』などのあたりがつけられるから、スキルに関したカンファランスも精度が上がる」といった意見も出て、これまたとても共感した。
 まずは自分も伸びようとする読み手・書き手であることは、大事にしたい。つまり、読むこと・書くことに没頭すること自体の価値は認めて、「いまここ」の子どもの読む姿・書く姿を受け止めること。同時に、スキル的な部分にも目配りした上で、子どもの実態に合わせて手渡したり、時には指導したりもできること。
 教育には、「そのままでいいんだよ」とその子をまるっと受け止める部分と、「そのままじゃあいけないよ」と目指す先を示す部分があるというのはあすこまさんも時々言うけれど、それは当然国語の範疇で考えても当てはまることだと思う。


感じたことその2:
 リーディングワークショップにおける二項対立は、きっと他の教育的営みにも当てはまる。愛を育むか、スキルを育むか、なーんて言うと、さすがに単純化がすぎるか。笑
 この間終わったテーマプロジェクトの中でも、そういう二項対立のジレンマを感じた瞬間はあった。
 「土」という大きなテーマの下、5,6年生の子どもたちは自分(たち)の興味をスタートに探究を深めていき、僕は「土の生物・微生物」「土の性質」というチームについた。
 虫への愛が爆発していた「土の生物・微生物」チームは、終始楽しそうに風越の森の土を持ってきてはハンドソーティングで虫を探し、ツルグレン装置をつくって微生物を探そうともしていた。アウトプットデイ当日は、来場者にも生物・微生物探しを体験してもらうコーナーをつくって、大盛況だった。
 伴走している自分としては、もっと自分に知識があったり見通しがあったりしたら、知識的な部分やスキル的な部分をプロジェクトの最中にもっと手渡せたのかな、と思ったりもする。
 ただ終わった後、一人の子が「わたしは虫が好きじゃなかったけど、今回やってみて、ホント可愛いと思うようになった」と、ニコニコしながら手のひらの上のババヤスデを見つめているのをみて、たっぷりと自然に触れて、どっぷりと虫を探した経験が、彼女の中に虫への愛をたしかに育んだのだな、と思った。

 んー、まとまらなくなってきたぞ。以下さらにランダムに書いてしまえ(ォィ
 「愛かスキルか」じゃ当然なくて、「愛もスキルも」であるはず。願わくば愛がベースにあってほしい。愛→スキルという流れが生まれるだろうし、愛があれば長期的なスパンでの学習も生まれるだろう。たださっきのリーディングワークショップの効果検証の結果が示しているように、スキルを中心においた授業から愛が育まれるというのも当然ある。「最初は苦しかったけど、できるようになるにつれ楽しくなった」的な。
 自分はともするとスキルの方を意識しがちだけど、こういう子どもの姿から、大事なことを思い直すし、次のプロジェクトの構想に活かしていきたいなと思う。ああ、そういえば去年のテーマプロジェクトは「愛」が中心テーマだったな。少しずつ、その大切さが去年より分かってきたような気がするぞ。
 上に紹介したババヤスデラヴァーの子の中に愛が育まれたのは、ラッキーパンチ的で、自分がそこに寄与した感じはあんまりない。邪魔しなかった、くらいか。でも本来は、こういう「愛を育む」も射程に入れてプロジェクトを構想したいよね。狙い通りいかないにしても。
 さらに急ぎ付け加えると、こうして「邪魔しなかった」と自分の関わりを過小に残してしまうのはあんまり良くないことだよなとも思う。過不足なかったかは別にして、いろいろな本を手渡したり自分も手を動かしたりと、彼らの探究に寄与しようと必死だったわけで、そこは自分で自分を、それこそ過不足なく評価してあげなくちゃなーと。

 どういう手法を取るか、その目的は何か、そこに教員としての自分はどう関わるか、といったところは密接に結びついていて、「手法」を考えすぎるとダメダメになりがちだなと思うから、きちんと目的から下ろして考えられるように意識していこうね


感じたことその3:
 ひるがえって、英語教育、外国語教育は。そもそも子どもの体験自体が、日本という環境ではそもそもかなり貧弱。「愛も、スキルも」という(ちょっと気に入り始めた)フレーズで考えるなら、そもそもの愛を育む土壌に乏しい。そこはこの日本という環境の中で、けっこう恣意的につくらないとなと思っている。同時に、スキルの部分の多くを機械翻訳が代替可能になりつつある現状も、考えちゃうところだ。それなのに受験でのニーズはまだまだ高いっていうところもね。
 複言語主義的なことが自分の新しいテーマになってくるかなーと思ったりしているが、まだまだめっちゃ浅いから、ともかく動いて、考える材料をたくさん得たい。そのための準備をする夏にしたい。


www.youtube.com

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「愛」というキーワードで思い出す曲たち。「人として」は、昭仁さんがカヴァーして、それはそれは素晴らしかったんよ。。(涙)

探究探究中

探究についての勉強会を職場で開いている。
知識・スキル・態度という諸々をひっくるめて「コンピテンシー」という呼び方をするようだ。
こういった,能力にまつわる言葉って,とかくたくさんあるし,それぞれの言葉から連想する具体も人によってまちまちで,なかなか議論するのは難しい。

探究を大切にしている学校なので,探究スキルについてぼくらスタッフが共通言語を持っていくことは大切なことだと思う。
同時に,僕たちが見たい姿って,探究スキルを使いこなす子どもの姿なのか?とも。
もちろん,使えないより使えた方がいいようには思う。でもそれ以前の「火が点いている」とか「『自分の問い』を持っている」とかいうところを大事にしたいような気がする。
もちろん探究スキルに長けることで火がつく子もいるだろうし,火がついているならそれに沿ってスキルの精度を高めていくことも必要だろう。
今日紹介された「AASL学習者基準フレームワーク」の中では,「探究」は6つある「共有する基盤」の1つに過ぎず,他には「包摂」「協働」「キュレート」「探索」「関与」があった。探究のサイクルというと,どうも個人の中に閉じるようなイメージもあったけど,このフレームワークはそれを明確に退けているように見えた。学校教育の文脈で行う以上,つまりこれから社会に出ていく人たちを育てる以上,他者との協働や社会参画は大事にすべきところだろう。この辺りは,プロジェクトの設計でも大事にしたいところ。
他者との協働の中で「火がつく」ことはありそうだよね,とも。


同時に,同僚の「探究のサイクルに実態はあるのかな」という問いかけも気になる。
「課題の設定」「情報の収集」「整理・分析」「まとめ・表現」的なやつね。
探究している人が行なっていることの近似値,みたいなふうに捕らえるのがいいのか?

その同僚は,「課題」→「情報収集」→「整理分析」→「まとめ」ときれいに行かなくても,「問いでジャンプする」のようなこともあるよね,とも言っていた。そうかもしれない。デザイン思考とか進化思考とか,その辺りのことはこの辺りに関係しているのか?

何ひとつ結論めいたことは出てこないのだけど,それもまた探究という感じでいい(のか?)。探究にまつわる自分の引き出しも増やしつつ,知見を貯めつつ,一番見たい躍動する探究者の姿を子どもの姿のそこここに見出して,同僚と共有して,四苦八苦七転八倒試行錯誤していこうね。