さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

とはいわない

夏休み、のんびり過ごしている。もうすぐ仕事が始まり、その翌週には新学期が始まる。
二学期、どんなことを考えて実践に向かおうかなと思った時に「とはいわない」がテーマになりそうだ。

夏休み前の研修中、「とはいえ」というキーワードが出てきた。風越はいわゆるペーパー学力や(内容レベルでの)網羅主義に重点を置かない。「とはいえ」、受験する子どもたちもいるわけで、そこを無視するわけにもいかない、というような話。

その時に、この「とはいえ」って、さんだーの口ぐせだよね、という話になった。そうだったのか。笑
言われてみるとたしかに、両論併記的な物言いは自分よくしているかもなあ、と納得する部分も。
「Aが大事」と言う時に、「Bも大事」と言うことは別に矛盾ではない。どちらも大事、ということがままあるから。でも、「Aが大事。とはいえ、Bも大事」と言うことで、自分の動きが鈍る可能性はある。

ということで、二学期は、「とはいわない」をテーマに、自分のポジションをちゃんと取って、もちろん色々な意見を念頭に置きながら、自分の実践を積み重ねていきたいな。

国語の研修から〜愛も、スキルも〜

 風越学園の夏休み期間は、子どもが来ていないこともあり、研修や夏休み明けの準備三昧。先週末は、あすこまさんプレゼンツの国語の研修にて、リーディングワークショップ(読書家の時間)と言っても、背景にある哲学には違いがあることを学んだ。

(以下ふり返っての自分の受け取りなので、不正確なところもあるかもです。)

 二項対立的に捉えると、片方は子どもの豊かな言語体験をまるっと重視する派で、教員の主な役割は、すぐれた読み手としてのロールモデル。読むことを愛し、子どもたちと同じ目線で読むことの楽しみを分かち合い、リーディングゾーンに没入して読む体験を子どもたちが積むことを促す。
 もう片方の極は、スキル主義といっていいんだろう。すぐれた読み手のスキルを子どもたちも習得することを目指す派で、教員の主な役割はスキルの指導者。その日の授業の目当てを決め、レッスンをし、その後の個別読書の時間もそのスキルに絞ったカンファランスを行う。教員自身がたくさん読んでいる必要は、必ずしもない。

 お互いにお互いへの批判があることや、調査によると読書スキルや読書熱についても、後者の方が成果が出ており、ホールランゲージ的なアプローチの前者は、批判にさらされ、下火であること、そういった流れの紹介のあとに、日本での読書教育の歴史の概観(多読と精読≒読書と読解の二分がどう扱われてきたか、とか)があるなど、とっても面白い内容だった。大村はまの読書通信(だっけ?)、全部読んでみたいなー!


感じたことその1:
 教育政策を決定する政治家の目線に立つなら、多分後者を推すの一択。EBE(エビデンスベーストエデュケーション)の流れもあるし、各回観点を決めて授業していくことで、授業者の保護者への説明も容易。いろいろな意味で広く推し進めるのにうってつけである。
 ただ一教員としてどういうことがしたいかってのは、また別だろうなーとも思う。今あすこまさんと組んで国語のカンファランスをやらせてもらったりしているけど、スキルを手渡す場面ももちろん大事だと思いつつ、「おっ、この本読んでるんだ。僕も好きなんだけど、どんなところが面白い?」なんてやり取りも大事にしていて、こういうのは楽しいなあと思う。
 同時に、彼らが読んでいる本を自分が読んでいないと、やり取りの質が途端に薄くなる感じもあり、、。やはり「教員自身がたくさん読んでいること」は、この実践をするなら核になるよなあという感触もある。

 そしてあすこまさんすごいなあと感じるところは、エビデンス的には後者が優勢な現状は踏まえた上で、自分が心理的にシンパシーを感じる前者的なアプローチで、どうすれば成果が出せるか果敢にチャレンジしているところ。スキルを軽視して「没頭さえしてればOK!」と言っているわけでは、決してない。
 特に「読書家の時間と作家の時間、読書ノートと作家ノートが往還するような設計ができて、子どもの中で読み手としての自分と書き手としての自分が同じく往還するようになったら、多読/精読の二項対立も乗り越えられるかもしれない」といった仮説でもって、これまでの読書教育・作文教育の実践を受け止めた上で、止揚というか、一段高いものにしようとしているのは、本当に尊敬。

 フロアからは、「子どもの読んでいる本を読んでいないとなと思う。同時に、読んでいれば、『ここでこのスキル(推測、とか)を使っておくとこの先ずっと楽しめるよね』などのあたりがつけられるから、スキルに関したカンファランスも精度が上がる」といった意見も出て、これまたとても共感した。
 まずは自分も伸びようとする読み手・書き手であることは、大事にしたい。つまり、読むこと・書くことに没頭すること自体の価値は認めて、「いまここ」の子どもの読む姿・書く姿を受け止めること。同時に、スキル的な部分にも目配りした上で、子どもの実態に合わせて手渡したり、時には指導したりもできること。
 教育には、「そのままでいいんだよ」とその子をまるっと受け止める部分と、「そのままじゃあいけないよ」と目指す先を示す部分があるというのはあすこまさんも時々言うけれど、それは当然国語の範疇で考えても当てはまることだと思う。


感じたことその2:
 リーディングワークショップにおける二項対立は、きっと他の教育的営みにも当てはまる。愛を育むか、スキルを育むか、なーんて言うと、さすがに単純化がすぎるか。笑
 この間終わったテーマプロジェクトの中でも、そういう二項対立のジレンマを感じた瞬間はあった。
 「土」という大きなテーマの下、5,6年生の子どもたちは自分(たち)の興味をスタートに探究を深めていき、僕は「土の生物・微生物」「土の性質」というチームについた。
 虫への愛が爆発していた「土の生物・微生物」チームは、終始楽しそうに風越の森の土を持ってきてはハンドソーティングで虫を探し、ツルグレン装置をつくって微生物を探そうともしていた。アウトプットデイ当日は、来場者にも生物・微生物探しを体験してもらうコーナーをつくって、大盛況だった。
 伴走している自分としては、もっと自分に知識があったり見通しがあったりしたら、知識的な部分やスキル的な部分をプロジェクトの最中にもっと手渡せたのかな、と思ったりもする。
 ただ終わった後、一人の子が「わたしは虫が好きじゃなかったけど、今回やってみて、ホント可愛いと思うようになった」と、ニコニコしながら手のひらの上のババヤスデを見つめているのをみて、たっぷりと自然に触れて、どっぷりと虫を探した経験が、彼女の中に虫への愛をたしかに育んだのだな、と思った。

 んー、まとまらなくなってきたぞ。以下さらにランダムに書いてしまえ(ォィ
 「愛かスキルか」じゃ当然なくて、「愛もスキルも」であるはず。願わくば愛がベースにあってほしい。愛→スキルという流れが生まれるだろうし、愛があれば長期的なスパンでの学習も生まれるだろう。たださっきのリーディングワークショップの効果検証の結果が示しているように、スキルを中心においた授業から愛が育まれるというのも当然ある。「最初は苦しかったけど、できるようになるにつれ楽しくなった」的な。
 自分はともするとスキルの方を意識しがちだけど、こういう子どもの姿から、大事なことを思い直すし、次のプロジェクトの構想に活かしていきたいなと思う。ああ、そういえば去年のテーマプロジェクトは「愛」が中心テーマだったな。少しずつ、その大切さが去年より分かってきたような気がするぞ。
 上に紹介したババヤスデラヴァーの子の中に愛が育まれたのは、ラッキーパンチ的で、自分がそこに寄与した感じはあんまりない。邪魔しなかった、くらいか。でも本来は、こういう「愛を育む」も射程に入れてプロジェクトを構想したいよね。狙い通りいかないにしても。
 さらに急ぎ付け加えると、こうして「邪魔しなかった」と自分の関わりを過小に残してしまうのはあんまり良くないことだよなとも思う。過不足なかったかは別にして、いろいろな本を手渡したり自分も手を動かしたりと、彼らの探究に寄与しようと必死だったわけで、そこは自分で自分を、それこそ過不足なく評価してあげなくちゃなーと。

 どういう手法を取るか、その目的は何か、そこに教員としての自分はどう関わるか、といったところは密接に結びついていて、「手法」を考えすぎるとダメダメになりがちだなと思うから、きちんと目的から下ろして考えられるように意識していこうね


感じたことその3:
 ひるがえって、英語教育、外国語教育は。そもそも子どもの体験自体が、日本という環境ではそもそもかなり貧弱。「愛も、スキルも」という(ちょっと気に入り始めた)フレーズで考えるなら、そもそもの愛を育む土壌に乏しい。そこはこの日本という環境の中で、けっこう恣意的につくらないとなと思っている。同時に、スキルの部分の多くを機械翻訳が代替可能になりつつある現状も、考えちゃうところだ。それなのに受験でのニーズはまだまだ高いっていうところもね。
 複言語主義的なことが自分の新しいテーマになってくるかなーと思ったりしているが、まだまだめっちゃ浅いから、ともかく動いて、考える材料をたくさん得たい。そのための準備をする夏にしたい。


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「愛」というキーワードで思い出す曲たち。「人として」は、昭仁さんがカヴァーして、それはそれは素晴らしかったんよ。。(涙)

探究探究中

探究についての勉強会を職場で開いている。
知識・スキル・態度という諸々をひっくるめて「コンピテンシー」という呼び方をするようだ。
こういった,能力にまつわる言葉って,とかくたくさんあるし,それぞれの言葉から連想する具体も人によってまちまちで,なかなか議論するのは難しい。

探究を大切にしている学校なので,探究スキルについてぼくらスタッフが共通言語を持っていくことは大切なことだと思う。
同時に,僕たちが見たい姿って,探究スキルを使いこなす子どもの姿なのか?とも。
もちろん,使えないより使えた方がいいようには思う。でもそれ以前の「火が点いている」とか「『自分の問い』を持っている」とかいうところを大事にしたいような気がする。
もちろん探究スキルに長けることで火がつく子もいるだろうし,火がついているならそれに沿ってスキルの精度を高めていくことも必要だろう。
今日紹介された「AASL学習者基準フレームワーク」の中では,「探究」は6つある「共有する基盤」の1つに過ぎず,他には「包摂」「協働」「キュレート」「探索」「関与」があった。探究のサイクルというと,どうも個人の中に閉じるようなイメージもあったけど,このフレームワークはそれを明確に退けているように見えた。学校教育の文脈で行う以上,つまりこれから社会に出ていく人たちを育てる以上,他者との協働や社会参画は大事にすべきところだろう。この辺りは,プロジェクトの設計でも大事にしたいところ。
他者との協働の中で「火がつく」ことはありそうだよね,とも。


同時に,同僚の「探究のサイクルに実態はあるのかな」という問いかけも気になる。
「課題の設定」「情報の収集」「整理・分析」「まとめ・表現」的なやつね。
探究している人が行なっていることの近似値,みたいなふうに捕らえるのがいいのか?

その同僚は,「課題」→「情報収集」→「整理分析」→「まとめ」ときれいに行かなくても,「問いでジャンプする」のようなこともあるよね,とも言っていた。そうかもしれない。デザイン思考とか進化思考とか,その辺りのことはこの辺りに関係しているのか?

何ひとつ結論めいたことは出てこないのだけど,それもまた探究という感じでいい(のか?)。探究にまつわる自分の引き出しも増やしつつ,知見を貯めつつ,一番見たい躍動する探究者の姿を子どもの姿のそこここに見出して,同僚と共有して,四苦八苦七転八倒試行錯誤していこうね。

この間の研修とか、最近思っていることとか。

先週金曜日、研修があった。外から来て一日過ごしてくださった、保育がご専門の先生が切り取ったいくつかのシーンをご紹介してくださって、話題提供。それを元に各テーブル5~6人でちょっとおしゃべり。「このシーン気になる、もっと話したい」を出していく。各テーブルのおしゃべりの内容をシェアした上で、人気があった2つのシーンを、さらに深堀り。そのシーンに関わったスタッフからさらに詳しい話をしてもらって、その後さらにテーブルでディスカッション。すごく練られた構成で、とっても良かった。
前期(3歳〜小2)と後期(小3〜中2)とでは、まだ普段あまり混ざれずに過ごしているのだけど、通底している部分というか、共通して大事にしたい部分なんかが、少しずつ見えてきた感じで。
(同時に、そういう部分を共通に大事にしていく大変さも…。)

2つのシーンのうちの1つは、年少さん。ポシェットづくり(って言い方はしていなかったけど)にはまって、みんな思い思いのポシェットをつくっている様子があった。担当しているスタッフは、リアルなものに興味が出ている子もいれば自分の空想世界をもっと深めたい子もいるとか、自分と他人の境が少しずつ出てきているとかの、子どもたちの様子を説明してくれた。
流れとしては、子どもたちのうちの一人のおうちまでお出かけしよう、ということになって、そのときに使うポシェットをつくってみよう、ということだったらしい。

「現実と空想、自分と他人」
自分はこうメモしたあとで、「空想と現実、自分と他人」と書き直した。
つい「現実があって空想がある」って考えがちだけど、人の発達の流れとしては逆だよね。まず空想の世界があって、現実に出会っていく。そこに橋を架けるのが、このスタッフはとても上手なんだと思う。「お出かけ」というリアルな場に出るのにワクワクする子もいれば、自分の空想世界で遊んでいたい子もいる中で、この「ポシェットづくり」は、どちらにとっても必然性があるというか、ハマれる、楽しめることだったんじゃないか。

もう1つのシーンは、小1・2の算数で、ググッと入り込めている子たちと、そうでもない子たちの姿が語られた。つい自分は「どうしたら入り込めていない子を算数に向かわせることができるか」みたいなことを考えてしまうけど、このシーンを紹介してくれた先生は「この子たちにとってこの時間ってどういう時間なんだろう」と、徹底的に「その子」の見ている世界を見ようとしているのが印象的だった。

その後テーブルで話す中で、「文脈」という言葉が出てきた。たとえば先の年少さんの「ポシェットづくり」は、急に大人側から手渡されたわけではなく、来週行くことになっているお出かけと密接に絡んだもので、子どもたちの文脈に乗っかった活動だった。
とはいえ算数などの教科的な、抽象度の高いものになると、生活に密着した「文脈」をすべてのコンテンツに求めるのは厳しい気もする。そこで出てきたのは、この「文脈」を広く取って、「その子がその時そこでそれを学ぶ理由」という風にも考えられるかも、という話だった。たとえば算数数学で行なっている異年齢の学び合いで、下の学年の子がいると急に活き活きして教えるし、自分でもがんばって学ぶようになる子の話。どの学年でも見られる場面だなーと思う。その子にとって、内容的には別に必然性(≒文脈)はないかもしれない。でも、それをがんばって学ぶことで、見せたい背中を見せられるようになる、的な意味では、ある種の必然性がある、とも言えるのではないか。「なりたい自分になる」ために学ぶと、広く言えそうな感じ。
そういう環境を整備していくことは大切で、となるとやっぱりその場に集った人たちの関係性もひとつ重要になってくる。

とはいえ関係性があればなんでもできるとは当然思っていなくて、そこは本人の成長実感とセット。
今あすこまさん(https://askoma.info/)と組ませてもらっている5,6年の国語でもそれは実感していて、日々のカンファランス(その子の読んでいる本や書いている作品についての、1対1の短い対話)を重ねていることで徐々にやり取りの精度が上がって(いると信じたい…)、また子どもたち自身も自分の成長を感じてきている(子が増えている感じはしている)。そういう個々の成長実感の上に、それを交流する意味も出てくるのかなーと思っている。大人も子どももその意味を感じられていないものを交流することにあんまり意味はなくて、だから国語でやろうとしていることは、本人も見落としてしまっているその子の作品やプロセスの「宝物」をきちんと見取って、まずはその子本人に、そして積極的にその集団全体に返して、より豊かな読み手・書き手(の集団)へと導いていくことなんだろうなーと思う。

テーマプロジェクトについてもそうだな。自分の手元にちゃんと問いがあったり、日々何かを学んでいたりする実感があるからこそ、自分の言葉で自分のプロジェクトを語れるし、そこからの類推で他の人のプロジェクトも面白がれたり、親身にアドバイスできるのかな。
今回は「土」がテーマでやっているのだけど、恥ずかしながら全然門外漢で、子どもと一緒に試行錯誤・右往左往・吃驚仰天しながらやっている感じ。でもまあ、その中で「この失敗にはこういう意味があるよね」と意味づけたり、適宜学びにつながりそうだと自分が感じたところを素直に本人たちに返しながらやっている。どこまで本人たちに腹落ちしているかは、この後のアウトプットデイとか、その後のふり返りを見る必要があるけれど。

この辺りから、自分の専門たる外国語カリキュラムにも転化させていきたいのだけれど、うまくいっている部分もあれば、まだまだ全然…な部分も。

ただ、こうしてブログで少しずつ自分の実践や、日々感じていることを開いて、なにかのディスカッションのきっかけにできたらいいなと思っている。

『羊と鋼の森』(宮下奈都)読了

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)

いやー、めちゃんこ面白かった!
 ピアノ(というか調律師)との衝撃的な出会いから、調律師を志す外村の成長物語、というとだいぶ簡略にすぎるか。
 外村を調律師の道にいざなった板鳥や、先輩・柳や秋野とのやり取りも面白く、なにより外村の朴訥な人柄が、周りの人から素朴な反応を引き出しているようで、読んでて心地いい。
 そんな外村も、双子の高校生・和音と由仁との出会いで、少しずつ変わり始める。和音のための調律をしたいという欲が出始めて、熱を帯びて動き始めるさまがかっこいい。
 以下、記憶に残った部分の抜き出しメモ。

「ピアノで食べていこうなんて思ってない」
 和音は言った。
「ピアノを食べて生きていくんだよ。」(p. 175)

このときの和音の姿を、「まぼろしの祝祭のようだった木の輝き(p.177)」にたとえる描写も美しい。

「なんだか俺、めちゃくちゃにがんばりたい気持ちなんだよ。あああ、いつ以来だろう、こんな気持ち。ボクシングの中継を観たときみたいだ。そのあと、無性に走り出したくなってるような、あの血湧き肉躍る感じだ」
 矢継ぎ早に喋って、それからため息をついて首を振った。
「歯がゆいなあ。がむしゃらにがんばりたいのに、何をがんばればいいのかわからない」(p.185)

いやー、いいよね。他の人のアツい姿にほだされて火がつく感じ。自分もがんばろう!って感じ。

 和音が何かを我慢してピアノを弾くのではなく、努力をしているとも思わずに努力をしていることに意味があると思った。努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。
 うらやましいくらいの潔さで、ピアノに向かう。ピアノに向かいながら、同時に、世界と向かい合っている。
 僕にはするべき努力がわからない。わからないから手当たりしだいになってしまう。(p.195)

「うらやましいくらいの潔さ」、いいなあ。「するべき努力がわからない」っての、わかるわあ。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」(p.57)

板鳥さんが目指す調律師の姿。小説家・原民喜の言葉だそう。

 そうだ、こういうときには泣くといいんだ。そう思う前に泣いていた。僕は僕よりも大きい弟の背中に腕をまわした。こんなふうに弟に触れたのは、いつ以来だろう。腕を突っ張って遠ざけていたものが、びゅんと僕の中に飛び込んできた。世界の輪郭が濃くなった気がした。(p.154)

「世界の輪郭が濃くな」るという表現、素晴らしい。

 やっと、わがままになれた。これまでどうしてわがままじゃなかったんだろう。聞き分けがよかった。おとなしかった。いつも弟に押されていた。通したいほどの我がなかった。今、わがままだ、こどもだ、と指摘されてわかった。僕は、ほとんどのことに対してどうでもいいと思ってきた。わがままになる対象がきわめて限られていたのだ。
 わがままが出るようなときは、もっと自分を信用するといい。わがままを究めればいい。僕の中のこどもが、そう主張していた。(pp.171-172)

自分自身の「やりたい!」から始めるしかないのかな、といったところ。

「北川さん、僕、初めて板鳥さんの調律したピアノの音を聴いたときに、人生が変わったと思っています」
「うん」
「音楽が僕の人生の役に立ったのかどうか、わかりません。でも、僕の人生はあのときに立ち上がったんです。それは、役に立つかどうかをはるかに超えた体験でした。」
「うん、わかるよ」
 北川さんは力強くうなずいた。
「だからね、思いついたことをやってみたらいいと思うの。うまくいかなかったら、戻せばいいじゃない。和音ちゃんのピアノがもっとよくなるかもしれないんでしょう」(p.190)

「うまくいかなかったら、戻せばいい」という言葉も、胸に刻みたい。誠実でいれば、遅すぎることなどほとんどないだろう。



「天の川で、カササギが橋になってくれるっていう話がありますよね。ピアノとピアニストをつなぐカササギを、一羽ずつ方々から集めてくるのが僕たちの仕事なのかなと思います」(p.192)という言葉に続くこのシーンも、鮮烈。

 道は険しい。先が長くて、自分が何をがんばればいいのかさえ見えない。最初は、意志。最後も、意志。間にあるのががんばりだったり、努力だったり、がんばりでも努力でもない何かだったりするのか。
 毎日ピアノに触れること。お客さんの言葉をよく聞くこと。調律道具を磨くこと。事務所のピアノを一台ずつ調律し直すことや、ピアノ曲集を聴き込むこと、秋野さんや柳さんに教えてもらうこと、板鳥さんにもらうヒント。和音の音色。そして、もしかしたら、短い草いきれの中で寝転ぶことや、山の夜にひっそりと輝く木を見ること、泉のせせらぎに耳を澄ますこと。きっとすべてがカササギだ。
 くるくる回って止まらなかった方位磁針が、ぴたりと止まる。森で、町で、高校の体育館で、たくさんのピアノの前で揺れていた赤い矢印がすべて、ひとつの方向を指していた。和音のピアノ。僕は、和音のピアノのために全力でカササギを集めようと思う。(pp.192-193)

先に「するべき努力がわからない」とこぼしていた外村が、和音との出会いで変わるシーン。

 僕だけじゃなかったんだ。技術は身体で覚えるものだと思い込んでいた。いつまで経っても身につかないのは、身体が音楽的ではないせいなのかと半分あきらめの気持ちだった。落胆する間も惜しくて、メモを取り続けた。
 でも、これがけっこう難しい。調律の感覚を言葉で書き表すのは至難の技だ。的確なメモを取れるようになったら、相当腕も上がっているように思う。
「書きとめるだけじゃ、駄目だ。覚えようとしなきゃ、無理だよ。歴史の年号を覚えるみたいにさ。あるときふっと流れが見えてくる」
 秋野さんは言った。もちろん、言葉で調律のすべてを書き表すことなどできない。百分の一も、千分の一もできない。わかっているから言葉には頼らない。だけど、調律の技術を言葉に換える作業は、流れていってしまう音楽をつなぎとめておくことだ。自分の身につけようとしている技術を、虫ピンで身体にひとつひとつ刺していくことだと思う。(pp.214-215)

ふり返りの効能。まさに!という感じ。



ということで、GWも終盤にさしかかる今日でしたが、いい読書ができて満足!

ボールと私

昨日もテニスをしてきました。最近週1~2くらいテニスをしている。
教え子の保護者から始まり,町役場の人やテニスクラブのオーナーなど,じわじわ広がりつつある。楽しい。
テニスノートなんかもつけ始めた。ビバふり返り!
なんだけど,同時に膝も腫れてきたんだよな。困ったゾ…。笑

それで,昨日はなんか印象深い出来事があったのでメモ。
いつものメンバーで練習してからゲーム練習だったんだけど,自分はなーんか集中できていない感じがあった。
やっぱり来たるべき新学期が気になっちゃってるんだよな。不安もないと言えば嘘になる。
(久々に夢を見て,これがあんまり良くない内容だったから,そういう精神状態なんだろう。)

それで,それなりに打てるものの,よくわからないミスが多い,みたいな状況のままゲーム練習に入る。
いくら「集中!」と思っても,それははなかなか難しいんだよな。「集中しなくちゃ」って思っている時点で頭で考えちゃっているわけだから。
でもゲームが進むうちに,「結局いろいろ考えても,考えるだけで球が打てるわけじゃないから,目の前のこのボールをよーく見て,必要と感じる打ち方を思い切ってするしかないよな」みたいなことを考えて,そういうふうにやってみようとしたら,すこーしずつうまくいったりもしたんだよな。バンバンナイスショットが行ったわけでも,ミスが極端に減ったわけでもなかったけれど,内的な部分はちょっと変わったんじゃないかと思っている。

「ミスをしないためにどうすればいいか」を考えて打とうとしても難しくて,「どう打つのがベストか」に集中するのがいいのだろうなと。結局眼の前の球を前に自然に体がなんらか動いたり,動かなかったりするわけで,まずはそれを邪魔しないこと。
そしてその結果を踏まえて,次どうするかを考えること。必要に応じて練習で目指す姿に近づくこと。そのくり返しだよなーと。

それっぽい言い方をすれば,その場には「ボールと私」しかなくて,まずはその関係にどっぷり浸かること。その後でその結果をふり返って,よりよい距離感なり関わり方を考えていくこと。

子どもとのやり取りも似ている部分があるなと思っている。もちろん,「子ども」を私に打たれるままの「ボール」という受動的な存在として見ているわけではないし,子どもとのやり取りにインやアウトみたいなはっきりした基準もないし,もっと言えば勝ち負けも存在しないのだけど,頭で考えて「(自分が)こうしなくちゃ」「(相手に)こうしてもらわなきゃ」と思ってる時は,たいていうまく行っていない時な気はする。
自然体で,目の前のその人のことだけを見(ようとし)て関わる時は,よくも悪くも「らしい」関わりができているように感じるから,その後でその関わりがどうだったかふり返るしかないのかなと。

というわけで,明日から子どもたちもやってくる。ドキドキもしているけれど,やっぱり楽しみだな。

新年度へ向けて…!!

新年度が始まります。
4/1は,本当にのんびりスタート。
午前中は森を歩いたり,クレープを焼いたり,焼きそば食べたり。縁日かって感じ。
午後は屋内で,自分の「問い」について,じっくり考える時間。
午前中と雰囲気はもちろん変わったけれど,地続きな感じ。

「自分が『つくり手』としてつくる実感を持っている時」「自分が『つくり手』としてつくる機会を奪われたと感じる時」
「子どもが『つくり手』としてつくる実感を持っている時」「子どもが『つくり手』としてつくる機会を奪われたと感じる時」
についてまずは1人ひとり考えて,紙にメモメモ。それを呼び水にして,自分が今年度向き合いたい問いについて考えた。

面白かったのは,この後。
①自分が今年度向き合いたい「問い」について,A4の紙に書く
②それぞれのスタッフが書いた「問い」の紙を床に並べる
③自分以外のを各自1枚ずつ取る
④2人1組になって,それぞれが持っている問いをきっかけにしておしゃべりして,その紙にコメント・感想などを「プレゼント」として書く
⑤そうして書き加えられた「問い」を,改めて床に並べる

③〜⑤を3セットくり返したのだけど,合間に,「かぜのーと」の記事を読み,それを書いたスタッフの語りを聞く時間をたっぷり20~30分ずつくらい取った。
ちなみにその時読んだ記事は以下の通り。
6歳、卒園前の日々。 | かぜのーと | 軽井沢風越学園
仲間と一緒だから、もっとよい景色をみられるんだ。 | かぜのーと | 軽井沢風越学園
「すすめ、すすめ!」 | かぜのーと | 軽井沢風越学園 & 子どもの世界が広がる仕掛け | かぜのーと | 軽井沢風越学園
ネトスト気質の自分はどれももちろん読んだことはあったけれど,どれもすごくいい記事だった。

さらにそれぞれの執筆スタッフの語りも面白かった。外向けに発信しているものだけど,内向きにこうやって交流を生み出す方向で使うのもいいよねえ。

自分は「広がりと深まりを両立するには?」という問いを書いたけれど,それに対しては「本当に両立する必要あるの?」「自分の『〜したい!』を追求するうちに自然と広がりや深まりが出るんじゃ?」的なコメントをもらった。
たしかになー。「広げるべき」「深めるべき」みたいな感覚がちょっとあるのかも。でもやっぱり色々広く挑戦してきた昨年度から,より「深める」に行きたい感じはしているんだよね。

図工改め「つくる・描く」を担当しているスタッフが「いいこと思いついた!」がたくさん出てくる仕掛けやそれをすぐに試せる環境などを用意するのに細心の注意を払っているとのこと。これすごくいいなーと思ってて,それぞれの場に応じて「いいこと」が何かっていうのは変わってくると思うけど,そういう創造的な場をつくれたらいいなと思う。子どもたちとはもちろん挑戦したいけど,大人同士でも,自分自身も。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習
この記事は何度も読んでいる記事だけど,改めて読むと刺さる。ここで言う「精神的な背骨」は「美意識」とも「自分のものさし」とも言い換えられそうだけれど,いやー,まだまだだな。がんばろっと。


妻が,自分の職場の新年度会議がビミョーだったということだったので,風越学園の初日について書いてみた。
引っ張り上げることも必要と思いつつ,いずれにせよイマココの場所から始めるしかないよなあ,と思い始めている。