さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

English Book Club200208 "The Visitor" Chapter8

The Visitor: (Jack Reacher 4)

The Visitor: (Jack Reacher 4)

  • 作者:Lee Child
  • 出版社/メーカー: Bantam
  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: ペーパーバック
この本を,近くに住んでいるドイツ人の方とちびりちびり読んでいる。彼女はとても英語のできる人で,色々教えてもらっている。毎回2時間くらいお邪魔するけど,30分くらいは新しい学校のカリキュラムの話なんかをしている。楽しい。
今日はChapter8に入ったのだけど,毎回学んだ表現なんかが流れていってしまわないように,メモしておこう。

The line shuffled forward

シャッフルって日本語からの連想で,混ぜるみたいな意味が中心かと思っていたら,あにはからんや,最初に出てくる意味は「足を引きずって歩く」だった(ウィズダム英和)。すり足でのろのろと列が進んでいる様子。

staking them out

high-stakesなんかで使うことしか知らなかったけど,stake A outで「見張る・張り込ませる」ということらしい。stalkも近い意味かな?みたいなことを言ったら,彼女はstake outは相手に気付かれないようにって感じ,stalkはストーカーの感じで,相手になんらか気づかせることもある,と話していた。
印象に残っているのは,「そっか,stake outは尾行か」と自分が日本語でつぶやいた時に彼女がなにか説明してbecauseと言って,尾行とbecauseで音がかぶったこと。面白いなとなんかニヤニヤしていた。笑

the greatest good for the greatest number

最大多数の最大幸福。utilitarian的だよねというコメントがすぐ彼女から出てきて,教養だなあと。受容語彙ではあるけど,表出語彙にはなってないな。

He looked away, and clenched his teeth to stop himself from smiling. So far, so good.

この文で今日はおしまい。彼がSpecial Forcesというキーワードに相手の注意を向けるように仕向けたのだけど,何が狙いなのかまだわからない。いやはや先が楽しみだ。


実はこの著者は,つい最近引退を表明して,弟に続きを書いてもらうらしい。びっくり。彼女いわく,最新作はあんまり面白くないから良い判断だったのでは,と。ともかく,続きを楽しみに読もう。こういう時間をちゃんと取ろう。

フローと遊び


【ポジティブ心理学】自己啓発本の定番!?ミハイ・チクセントミハイのフローを掘り下げる【動機づけ】
この動画を観た。ミハイ・チクセントミハイの「フロー」という概念について。以下内容を箇条書きに。

  • フローとは「全人的に行為に没入している時の包括的感覚」
  • フローに入る条件
    • 活動を理解している
    • 現実を離れている
    • フィードバックを獲得
    • スキルと難易度の最適なバランスがある
      • よく言われる「スキルと難易度のバランス」はフローの唯一の条件ではない
    • 全能感「俺は何でもできるんだぞ」
    • 活動が本質的。ルーティーンワークではない
    • 自分が世界の中の一部になっているという感覚
    • プロフェッショナルであること(他と比べた優位性)が求められる
  • 創造的な人々に着目した研究
    • 没我の感覚
  • フロー研究の意義
    • 疾病モデル→予防モデルの移行(悪い部分を治すというより,良い部分もより良く。プラスになるような心理学)
    • 動機づけ。欲求論的アプローチに対する情動論的アプローチ
      • 欲求論的アプローチ:内発的な動機が基本的な欲求と仮定して動機づけが行われる。「自分がこういうことがしたい!」というのがそもそもあなたの中にあるよね,というのを前提に置いた上でどうそれを引き出すか考える
      • 情動論的アプローチ:環境と人間の相互作用によって動機づけが生まれる
    • 個人の特性でなく個人と活動の相互作用に着目

この動画を観て,子どもの遊びって「フロー状態」な感じするよなあと思った。以前苫野さんは遊びを「主体的な非日常性への没入」と本質看取していたけど,それとかなり近い気がする。子どもの遊びはしばしば現実を離れるし,全能感や本質性,「自分が世界の一部になっている」みたいな感覚もきっとありそうだ。
プロフェッショナル性みたいなものは子どもの遊びに望むのは難しいだろうけど,一流のプロがフロー状態で事に当たっている時って遊んでるみたいな感覚があるんじゃないかな,違うかな。

さて,学校の中でこんな感覚を感じながら過ごすには?と考えると,やはりまだまだ分からないことは多いよなあ。

インターネットはすのこである。

職場の上司が,村井純さんを紹介していた。日本の計算機科学者。彼がファウンダーのWIDEプロジェクトなるものがあるらしい。
WIDE
[左手に研究、右手に運用。社会基盤を両手で支えます。]とのこと。ふむふむ。

SFC-GC Video Material
これはSFCの「インターネット」という授業の最終回。村井さんにとっても最終講義なのかな。彼のQAが中心に。

なんでこのことをブログ記事に書いたかというと,彼の言葉で面白いなと思うものがあったから。

インターネットは"すのこ"のようなもの

すなわち人間が届かなかったものに届くようにするのがインフラとしてのコンピューターの役割だ,ということ。

「AはBのようなもの」って,国語で習う直喩ってやつで,レトリックの有名な手法。「彼女は天使のようだ」的な。
ほんでこういうのってAとBのわりかし意外な共通点を拾うから有効なわけで,「彼女は天使のようだ」ってのはなんとなく陳腐な感じ。
インターネットをつくった人である村井さんが,インターネットの本質を「ちょっとだけ届く範囲を増やすもの」と捉えているのが面白い。インターネットはもうその重要性を疑う人は誰もいなくて,すのこどころじゃないだろう,というのが直感的に思うことだけど,村井さんが言うから価値が出てくる比喩にも思える。
だからなんというか,レトリックをどう尽くすかということより,誰がそれを言うかという方が大事な場合もありそうだよね。
上に紹介した最終講義でも,色々含蓄ある言葉が多かった。お時間ある人はぜひ。

ぺこぱとU理論

ぺこぱが自分の中でブーム。NHKの「笑けずり」の頃から知っていて,この間のM-1決勝,最終決戦進出を見て,そのスタイルの変化とともにこれまでの努力に思いを馳せたりしていた。
その特徴的なツッコミが話題になったけど,友人と話をしていたら「ぺこぱはU理論だよね」という話になっていた。ふむ。そう言われたらそうかなとかうなずいていたけど,ちゃんと分かってなかったから,自分なりに調べてみた*1

U理論とは

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画像はU理論とは | U理論の普及と実践の機会を - 【PICJ】プレゼンシングインスティチュートコミュニティージャパンより転載。


詳しくは参考URL参照(u理論入門編!u理論の基本「7つプロセス」と初心者向け書籍のご紹介 | ノマドジャーナル)だけど,このページによるとU理論とは「リーダーシップの能力開発や、イノベーションを起こすための思考プロセスを明らかにした理論」とのこと。そこには以下の7つのステップがある。

1. ダウンローディング

  • 過去の経験によって培われた枠組み(≒思い込み)の内側で自分の思考・意見が再現されている状態。

2. 観る(Seeing)

  • 過去の枠組みによる判断・雑念を保留して,新たな視点に立って目の前の事象を観る。

3. 感じ取る

  • 過去の枠組みを崩し,枠組みを超えた側から自分の状況を見えている状態。過去の解釈に依らないため混乱が起きるかもしれないが,盲点であった事象に気づくこともある。

4. プレゼンシング

  • 「源(=自分の内側から現れる世界)」につながる。「私」とは何者か,私の「成すこと」は何か,といった問いを考える。

5. 結晶化

  • これまでの固定観念を取り除き,掘り下げた考えを具体化する。

6. プロトタイピング

  • 試行錯誤を行い,アイデアやインスピレーションに形を与える。

7. パフォーミング

  • 上記のステップを経て得られた新しいアイデアを実践(習慣化・組織伝播)する。

正直,4. プレゼンシングはよく分からない。多分ここが一番大事なんだろうけど。
U理論とは | U理論の普及と実践の機会を - 【PICJ】プレゼンシングインスティチュートコミュニティージャパン
↑のページによると,「『ダウンローディング』『観る(Seeing)』『感じ取る(Sensing)』までが個人の内側の体験にとどまるのに対して、プレゼンシングは個人という枠を超えて、まるで共振するかのように他の人に響くものがあ」るとのこと。ふむ。


ぺこぱの漫才

シュウペイ(以下シ);どーもーぺこぱのシュウペイでーす。お願いしまーす。(と松蔭寺の前に立ってポーズ)
松陰寺太勇(以下松);いやかぶってる!なら俺がよければいい。(とシュウペイの横に移動)

という感じで,シュウペイのボケに松蔭寺が一度突っ込んでから,新しい解釈を提示するという構成。

シ;ブーン(とタクシーを運転)
松;へいタクシー!(と手を挙げる)
シ;ブーン…ドーン!(と車で松蔭寺に突っ込む)
松;いやいってぇな!どこ見て運転してんだよ!って言えてる時点で無事でよかった。そうだろ。無事であることが何より大切なんだ。

書いていて思ったのは,ボケというものは基本的に,1. ダウンローディングと2. 観るのステップかもな。当然タクシーは自分にぶつかってこないという「過去の枠組みからの判断」が,タクシーが自分にぶつかるという事象を「観る」ことで逆に可視化される。
「いやいってぇな!」までだと一般的なツッコミで,「3. 感じ取る」まではいっていない。「車にぶつかられたら痛い」という,これまた過去の経験からの当然の判断が提示されるだけである。だがここで松蔭寺は「(運転手に文句が)言えてる時点で無事でよかった」と新しい見方を提示する。これは,3. 感じ取るのステップと言えるんじゃないか。

シ;ブーン(とタクシーを運転)
松;へいタクシー!
シ;ブーン…ドーン!(と車で松蔭寺に突っ込む)
松;いや2回もぶつかるっていうことは俺が車道側に立っていたのかもしれない。もう誰かのせいにするのはやめにしよう。

1: タクシーは2回もぶつかってこない
2: 車が2回連続でぶつかってくる
3: 悪いことがくり返されるということは,自分の側にそれをくり返させる要因があるのかもしれない。

シ;スーン(と車が止まる)
松;いやブーンじゃなくてスーンの車が,もう街中にあふれてる。

1: 車はブーンと走る
2: この車はスーンと走る
3: そうやって走る車(電気自動車)はすでに街中に存在する。
※けっこう社会派的なやり取りが多いのもぺこぱの特徴なのかも。U理論的とはあまり言えない。

松;運転手さん,新宿駅までお願いします。
シ;かしこまりました。ちなみになんですけど,新宿駅って,なんですか。
松;いや知らねぇんだったら教えてあげよう。そうだろ。知識は,水だ。独占してはいけない。

1: タクシー運転手は新宿駅を知っているものだ。
2: このタクシー運転手は新宿駅を知らない。
3: 知識を共有する機会になる。

ぺこぱの漫才とU理論

さらに,分かりづらい「4. プレゼンシング」はすでに松蔭寺の中で経験されていると考えると,ぺこぱの漫才自体が,彼(ら)のアイデアを「結晶化」したものと言える。自身の哲学を実践し,日本社会へと伝播させようとする試みなのではないか。じっさい,松蔭寺は「そうだろ。」と観客に同意を求めたり,「もう誰かのせいにするのはやめにしよう。」「知識は,水だ。独占してはいけない。」と自身の教訓を端的にまとめ直したりしている。この教訓めいた感じが,「漫才とはこういうもの」という「過去の経験からの判断」と矛盾するのでおかしさを生んでいる,というのも上手い構造だなあ。

そして興味深いことに,そうした松蔭寺の呼びかけに呼応する流れも出てきている。
見知らぬ人に嫌なことをいわれた母親 斬新な『切り替え方』に「マネしたい!」の声
「ぺこぱ流育児のススメ」など,他の人がぺこぱの考え方に触れ,それを自分の暮らしの中に取り入れようとしている。これは,彼らの漫才が,7. パフォーミングの段階にすでに入っていることの現れではないか。

大学時代に,社会学者の理論を使って社会事象を論じるというレポートがあったけど,これくらい気を抜いて適当にできたら,ちょっと楽しいかもしれない。笑

*1:半分以上冗談記事ですw

ただしさからたしからしさへ〜『みちこさん英語をやりなおす』再読

みちこさん英語をやりなおす (am・is・areでつまずいたあなたへ)

みちこさん英語をやりなおす (am・is・areでつまずいたあなたへ)

  • 作者:益田ミリ
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2014/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
こちらの本を4年ぶりに再読した。かなり感じ方が変わっていたので面白かった。ちょっと具体的に紹介。

一番印象に残った箇所(pp.125-129)を,以下抜粋。
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この部分を読んで感じたことは,4年前とまるっきり違うように思う。

これ多分英語的に見ればツッコミどころがあって,それは "0 year old" という言い方はしないということ。
Google Ngram Viewerをみても分かるように,"0 year old"より,"0 years old"が使われているし,さらに1際未満の子どもの場合は, "◯ months old" と月齢で呼び表す言い方のが普通らしい。

それで当時の自分は,多分そういう「(英語としての)ただしさ」をとても重視していたように思う。もちろんそれは今でも大切だと思っていて,学習者に間違った知識を伝えたくはないと思っている。

ただ同時に,学習者自身にとっての「たしからしさ」も,「ただしさ」と同じかそれ以上に大切だと,今は昔に比べてかなり強く思っている。だからこそ,ここでみちこさんの言う「『わかる』ってすごくうれしいこと」「わたし,もう絶対年齢のあとに『s』付けるの忘れないと思う」という気づきは尊いと思うし,娘のまさみの言う「赤ちゃんじゃなくなったら『s』がいるんでしょ」というみずみずしい気づきには,ある種の畏敬の念を覚える。

「主語を学習者に」ということを,軽井沢風越学園のスタッフはたびたび口にする。そのたびに自分は,無意識に「ただしさ」の方を主語にしていた自分や,学習者にとっての「たしからしさ」を蔑ろにしていた自分を反省する。
みちこさんが言った「先生 簡単かどうかは先生じゃなくてわたしが決めることだと思います(p.27)」という言葉は忘れずにいたいし,それを勇気を出して言ったみちこさんには敬意を払いたい。

ゆくゆくは,ただしさもたしからしさも大切にできる教員になりたい。でもおそらく自分に当面必要なのは,学び手にとってのたしからしさを徹底的に大切にできる力・見方・あり方だとも感じている。今いる場所はそれを伸ばすのにこの上ない環境だと思うから,開校までも,開校してからも,強めに意識してふんばってみたいところだ。

『ことばの教育を問いなおすー国語・英語の現在と未来』読了

ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

読みました。
mochisava.blogspot.com
こちらの記事を読んだことがきっかけ。

苅谷夏子さんによる第3章「いきいきとした教室へ」が特に印象的だった。
大村はまの実践では、いきいきとしたことばを大切にしていたというところから、博物館の話。自分が飼っているフクロウと、剥製のフクロウを比較しての話。ちょっと長いけど写してみようか。

剥製はもう圧倒的に、生きていない。生気がない。当たり前のことですが、それは実に重大なことだと思えました。(中略)ことばというものの姿にも、このくらいの差はあります。
 大村は、いきいきとした表情を持ち、人の暮らしの一片を見事に表すことばのあり方を子どもの前に示そうとし続けました。「ことばって面白い」と本心から思わない子どもには、教えても教えても本当には力にならない、と、大村は自分自身の経験からもわかっていました。だから四六時中、身の回りのあらゆる言語事象に目をくばり、生気のあることばの現場を捉えようと網を張り続けていました。勉強なんだから退屈でもがまんしなさい、と言わず、活きのいい魅力的な学習材を用意することが、大村教室の力となっていました。
 ただし、いったん関心が確固たるものになれば、剥製も、一見無表情に見えたことばも、ちゃんと興味深い対象となり得る、というのは面白いことです。そうなれば博物館は魅惑のワンダーランドですし、辞書も愛読書たり得ます。鳥好きは、落ちていた羽根一枚でも愛をもって眺め、大事そうに手帳にはさんだりします。ことば好きは、たとえば古代エジプトヒエログリフさえ、愛着の対象とすることでしょう。そうしたことから言えば、「いきいきとしたことば」というのは、関心や基礎的な態度をまず樹立するための条件ということになるでしょう。

特に英語自体に興味が強い教員である自分は、自身の「博物館好き」を自覚した上で、はてさてどうしよう、という感じ。子どもの興味関心を最重要視するとはいえ、自分が英語自体を教えたくなるタイミングも出そうだから、副業で普通に個別指導とかやろうとかなとも考え中。笑

同じ章からもう一つ。

 大村は、いきいきと学ぼうとする子どもを切望していましたが、本人がまずその先頭をきって、誰よりもいきいきと学び、考え、研究する人でした。(中略)
 それができたのは、大村自身がいつも新鮮な課題に取り組んでいたからです。実際、教員生活の後半三〇年ほどの間、同じ単元学習を二度と繰り返しませんでした。どんなに成功した取り組みも、繰り返さなかった。新鮮さを、本気になって大事にしていたのです。取り組みが新鮮であれば、とくに繕わなくても、ことさら演じなくても、いきいきとした教師でいられたからです。本心からの興味をもって、その課題に生徒といっしょになって向かっていくことができたからです。もちろん、新鮮な取り組みが子どもたちを引きつけたことは言うまでもあありません。

 プロジェクトを中心に進めていくことを考えている学校としては、とても興味深い話。プロジェクト中心の学校をいくつか見に行ったけれど、石窯があるところが複数あった。が、いずれも埃をかぶっている感じ。一年目は盛り上がるけど、つくられたそれは継続的に使われていくのかというと、わりと疑問かもしれない。
 もう一つは、大村はまの実践をまとめる意味ってなんだろう、ってこと。彼女の単元学習の完璧な指導案があったとしても、それをコピペして何ができるんだろう。彼女のこの徹底を、労無くしてもらってしまうことなぞ到底できない。子どもを見とるスキルが卓越していたことも含め、模倣を拒む感じがものすごい。「てびき」と言って、この課題にあの子(たち)はどう反応するだろうというのをなるべく細かく考えてリハーサル?していたらしい。これは現任校のスタッフも昔やっていたようだけど、自分はしばらくできる気はしない。汗

 自分が生の英語を教材化しようとしていたのも、結局は自分がその新鮮さを楽しみたかったんだろうと思うと、ちょっとだけ共通点を感じられたりはする。とはいえ現代を生き、家庭をもち、家庭人としても人生楽しみたい自分としては、それらもろもろの間の「ちょうどいい*1」バランスをみつけるためには、きっと一旦「あふれる*2」ことが必要なんだろうと思うと、ちょっとだけ気は重いけど、まあなんとかしていけるでせう。うーん、ちょっとテーブルの上にこぼれる*3くらいがいいかな。笑

*1:昨日妻と観た「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています」でのキーワードだった。いい映画だった…!!

*2:これまた同映画の榮倉奈々演じるヒロインちえの「ビールはあふれる位が丁度いい」より。

*3:「あふれる」も「こぼれる」も、「溢れる」なんだ。わっかりづら!

開校の2020年を迎えて

 新婚旅行第二弾*1で金沢在住の妻と、加賀温泉に来ています。妻は逃げ恥再放送を観ているので、僕は別室で今年をふり返っています。…と書き始めたけど、とっくに新年になってしまった。本当は昨年中にやりたかったけど、まあ新年を迎えるにあたっての決算的な感じで。
 昨年は本当に、色々ありました。結婚と転職が大きかったな。結婚生活は、まだ同居していないってのもあるけど、目立ったトラブルはなく、楽しくやれている。それでもお互いの細かな違いが見えてきて話し合ったりすることはあるから、一緒に住んだらますますだろうなあ。ゆくゆくは子どもも、とか思うと、共働きの僕らははてさてどうなるんでしょう。逃げ恥のみくりの母の「運命の人なんていないの。運命の人にするの」という言葉を胸に、がんばっていこう…!!
 やや離れるけど、時短家具。こんなツイートをした。

食洗機とかロボット掃除機とか乾燥機付き洗濯機とか、もちろん人の手を煩わさないってのも大事だけど、それと同じくらい夫婦間の細かい違いを無しにしてくれる感じがよい。小物の干し方は関係なくなるし、微妙な洗い残しや掃除残しは「まあ機械だからしゃーないね」でちょちょっと手を動かせば済む。

特に問題らしい問題ではないけど、機械を間に挟むことで解消できるものもあるんだろう。自動運転の車とかだと、機械を間に挟むからこそ困ったことにもなるのだろうが。


 それで、転職。都内から長野に越してきて、とても寒いことにはまだ慣れなそう*2だけど、それよりなにより軽井沢風越学園の開校が近いのです。募集選考プロセスも終わり、来年度どんな人が学校に集まるか決まりました。学校に何を求めるかというよりも、学校という場を一緒につくっていこうという気持ちが強い保護者が多く、頼もしい限り。きっと予想しない大変さがいろいろ出てくるんだと思うけど、そこも支え合って楽しんでいけたらなあ。

 自分は一応英語の免許持ちということで風越学園に居るのだけど、前任校までの英語教員としての役割と比べて、だいぶ役割は変わっていきそうな感じ。それが吉と出るか凶と出るかはまだ分からないけど、これからの時代を教員として生きていく中できっと必要な経験になるだろうなとは思っている。というような話をここからグルグルと書いていますが、まとめると↑みたいな話なので、以下は特に興味ある方だけご笑覧いただけたら。

 前任校では、良くも悪くも英語を教える・学ぶことが当たり前で、与えられた週2コマの中で何をしようか、というのが自分の仕事だった。時にはその枠をはみ出して何かすることもあったけど、基本はその枠だった。もっと言えば、前任校は超進学校だったから、授業準備・教材研究にかなりの時間を使えた。漁ってみたら着任前に、こんなツイートもしていた*3

本格派っぽい数学の先生に「くだらないクレームに2時間潰すより、2時間英語のことを考えていてほしい」って言われて感動した。いい職場な気がする…!!

こういう職場の特異なところは、それぞれに教科専門性の高い人が多かったから、各々が教える内容についてはある程度敬意を払いあっていたところかなと思う。それぞれが究めてきた世界を子どもに安心して投げかける。もちろん人によって出し方や受け取られ方は異なっていたし、自分はその中で力負け感はあったし、もっと言うとやっぱ英語って他教科と比べると学問感は薄いから難しいなと思う部分もあった。だからこそ自分は時間を使ってなるべく生の英語を教材化して扱おうとしてきたのかも。
 ともかく前任校では「なぜそれを教えるの?」という前提の部分は、その価値が自明視されている分、あまり問われなかった気がする。少なくとも表立ってそういう話にはならなかったように感じる。
 ところが新しくできる学校では、子ども時代に必要な経験ってなんだろう、みたいなことをかなり話し合っている。少なくとも自分は「なんで英語やるの?*4」というお決まりの問いに、これまでになく厳しくぶつかっている。小学校歴の長い先生が多い中、外国語科は外様って感じもあるのかもしれない。ただ、その価値を自分がちゃんと把握して、伝えられていないのかも。
 とここまで書いてきてさらに思ったのは、その「価値」なるものを、自分は分かってて、他の人は分かってないだろうと考えているのはなんともおこがましいかも。もちろん専門にやってきた人にしか分からない魅力はあるだろうけど、そうでない人だってその人だけに見えている魅力があるかもしれない。
 こうやって内省を深めていくのも今年度の特徴ではある。自分の特徴的な認知のクセ・歪み的なものを相対化しまくる感じ。来年度以降の何かにつながればなと思う。自分はやはり、自分の持っているものに自信がなかったり、あとは「専門性」みたいなものに極端に重きを置いてしまいがちなのだろうなあと思う。自分を絶対視したり専門性を蔑ろにするのはもちろんチガウけれど、そのバランスの問題というか。

 ほんで軽井沢風越学園での実践について。外国語に触れる前の、異文化との出会いを大切にしてほしいと思うから環境づくりはまずもって頑張りたいところだけど、その中で子どもが何を感じるか、何をつかむかはわりと個人差が出るところだよなあと思う。それでいいのか?という自問と、とはいえこれまでの学校でも生徒は同じものを同じように得たわけでは全然ないよなという気持ちと。
 よく分からなくなってきたから、唐突に話を変える。『人工知能時代の外国語教育』という論文をしばらく前に読んだ。言語スキルに特化しすぎてない?取って替わられるかもよ?という問題意識*5のもと、筆者は以下3つを外国語教育の目標として掲げる。
①グローバル時代の市民として日本に生きる知恵を学ぶ
②外国語や外国文化と比較対照する国語(日本語)を学ぶ
③協同と共感することを学ぶ
これはかなり共感する。③はいうて風越学園全体で取り組むことなのだろうと思うし、①や②は必然的に他教科との連携が必要になる。②に関しては、日英対照で言語への気づきを促すようなワークショップをつくろうとしているところで、明日からは早速出張。①については明示的に取り出してコレ、と示すのは難しいけど、「うんざりするほど大変だし、めんどくさい」ような多様性*6がリアルに感じられる場ができるかどうか、だよな。決して今のスタッフ陣が多様性に富んでいるとは思わないし、そこはスタッフだけで担保するものではないだろう。

 ちょっとさみしく&こわく思っているのは、以前に比べて英語に触れる量が減ったし、また英語自体への興味も昔より薄くなってるのかなってことだ。もちろん、それでも人並み以上に英語には触れていきたいと思ってはいるけど。「これからの(外国語)教育」を考える上で必要なことはなんだろうと、しばらくは(開校後も)悩みながら進んでいくんだろうな。英語へのこだわりは持ち続けていくけれど、こだわりにこだわっても仕方ない。何かが見えると思ってここに来たわけだから、それを信じてやれるだけやってみるしかない。

*1:第n弾まで続く予定^^^

*2:というか本当に寒いのはこれからって言うし…orz

*3:この先生とはだいぶ長い付き合いになり、去年は結婚式にもお越しいただきました^^

*4:この本を紹介しないわけにはいかない→ https://www.amazon.co.jp/dp/4327410888

*5:ちょっと単純化しすぎか。詳しくは本文をお読みください

*6:『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』より。早いとこ読んでみたい