さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

学問的誠実さと教育的誠実さ

最近は夜な夜な教育の話をすることが多い*1
どういう風に子どもにアプローチするか,という話。難しいよねえ。

自分は曲がりなりにも教育社会学出身ということで,その子どもを属性の束として見ることが多い気がする。
他にも,たとえば英語の効果的な学習法について,大筋として理念としていることはあるけれど,「じゃあ今この瞬間に私は何をどう勉強したらいいですか」と言われると,途端に難しくなる。オススメの参考書なんかも,しっかり検討していないものに関しては「分からない」と言うしかないよなっていう場面もあったりする。
そういう姿勢は,きっと学問においては誠実と言ってよいのだと思う*2

それで,その晩の教育談義で気づいたことは,上記のような姿勢―属性の束として見たりとか,「分からない」と言ったりとか―が,「教育的に」誠実なのか疑問だ,ということ。

属性の束という話で分かりやすかったのが,たとえばE判定を取った生徒。その人を「E判定を取った人の集団の一員」としてみれば,合格率は多分10%以下とかで,志望校の変更を検討するレベルなはずだ。でもその10%以下の人の中に「目の前のその生徒」が入らないという保証も当然ない。最後まで頑張り抜いて逆転することができるかもしれないし,たとえ逆転できなかったとしても,志望校を変えなかったことがその生徒にとってプラスになる場面があるかもしれない。うん,教育的関わりっていうのはおそらく「その個人を見る」ことに強く結びついている。
その人が一番幸せになれる選択肢を見とって,そこに向かって後押しするのが「教育的」なんだろう。もちろん,どういう後押しかは本当に千差万別だ。「一番大事なところだから,人に預けるな」と突き放すのも手だし,「君はがんばれば絶対に出来る。志望校を落とすな」と勇気づけることもできる。「このまま行っても悲しい結果が待っているから,現実的な選択肢を模索し始めろ」だっていい*3
受験前の生徒はとても不安定で*4,誰かに力強く後押ししてもらうことが救いになることはとても多いように見える。これについては,さっき挙げた,英語の学習法についての話にも共通するところがある。言い切ること自体の強さはたしかにありそうで,「この人がこの勉強法がいいと言ったからいいはずだ」と,ある種宗教的な,呪術的な効能もあるんだと思う。「英語なんて言葉なんだ!こんなものやれば誰だってできるようになる!」的な。

両者ともに言えるのは,教育的な関わりとここで言うのは,目の前の個人にコミットする,ということなんだと思う。だからこそネット等で「これが絶対の勉強法!」みたいなのは胡散臭いし,それに合わない生徒がいた時に修正できないという点で不誠実とすら思うことがある。でも逆に自分が顔の見えている目の前のその人のために何かが言えるかというと,自分はまだまだ苦手だなあと思わされている。その個人のことをよく見とるのがそもそも難しいってのがまずあるし,その上みえたらじゃあコミットできるかというと,当然その人の人生に責任は取れないわけで,なかなか難しい場合もありそうだ。E判定の生徒に何を見れば,「志望校を落とすな。がんばれ」と言い切れるのだろうか。

と,ここまで書いて思った。教師→生徒の関係で前者が後者を見とってコミットするのはすごく大事だけれど,それより何より大事なのは,生徒→生徒自身の関係において前者が後者を見とってコミットすることなんじゃないか。「飢えた人に魚を渡すのではない。魚の釣り方を教えるのだ」的な話かもなー。

相変わらずまとまらないところでTime is up.モヤモヤと考えていきましょうね。

*1:楽しい。

*2:分からないことをメディアで断言し始めると学者はネットで叩かれる。

*3:ちなみに同じようなことは多分部活においてより根深くて,甲子園に向かって努力し続けたけれど怪我もあって高卒で働き始めた友だちがかつて,「高卒と大卒でこんなに待遇が違うと知らなかった。高校の頃は,部活に全力を尽くすのが良いことだと思ってたし周りの誰からも止められなかった。こういう現実を知っていたら。」的なことを言っていて,どういう関わりが彼にとって最善だったんだろうとか,部活を後押ししまくることが本当に教育的だったのだろうか,なんて思ってしまった。

*4:自分のことを思い出しても,なかなかだったよなあ。笑