さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

「英語デビュー」

採点も半ばを過ぎ、そろそろ夏休みが見えてきました。楽しみだなあ。
授業ネタを色々書きたいと思いつつ、なかなか書きづらい状況もあったりするので(汗)、別のお話。「英語デビュー」について。

高校デビュー・大学デビューって言葉があるじゃないですか。
中学/高校までの自分を捨てて、自分を知っている人のいない新天地で、ホントのワタシ、デビュー!みたいなやつ。服装とか髪型などなど、おしゃれ面でそれまでとグッと方向性を変える場合が多いみたいです。
得てしてこの言葉は「デビュー(笑)」と、的はずれなおしゃれを笑うような文脈で使われることが多い気がする。自分が大学に入った時も、どう見ても似合ってない服やらを着てた、明らかに「デビュー」な人、いたなあ。

それでですね、やり直しのチャンスがあるってことはいいことだと思うんです。高校までの自分をいい方向に変えるなら、大学に入るその時がチャンス。
―同じようなことが言語にも言えるんじゃないか。

日本語と英語はとっても違うので、それを使う自分も、決して同じではいられない。と思う。
これには「いやいや、何語を話していようが自分は自分であるべき」という異論があることも分かっている。でも、言語って文章として紙やスクリーンに載っているものだけを指すわけではないし、音としてCDに入ってるだけでも、Dropboxに置いてあるだけでもない。それを話す人の話し方とか振る舞いとか、もっと言えば考え方なんかも広く含んでいるものだろう。
だからそれを学ぶということは、文字や音以外の部分も必然的に含んでしまうため、日本語を話す自分と英語を話す自分は、やっぱり違うものになるんじゃないか。

自分はそれをポジティブに捉えて、新しい言語を学ぶということは、新しい自分を見つけることにつながるんだと信じている(この「信じる」も、日本語的にはやや大げさで不自然かなと思えど、英語なら"I believe"は普通だし、まあいっかな、とか)。

実際自分は英語を話しながら、「へー、俺案外(日本語の私からみると)偉そうに振る舞えるんだなー」とか「英語ではあんまり相づちしまくるのは変って聞くけど、まだ日本語の私がどうしても顔出しちゃうから、色々言っちゃうのは許してね」とか、色んなことを考えている。
自分の生徒にも、今・ここで日本語を使っている自分以外に、「英語のワタシ」なんてものが、けっこう頑張れば手に入れられるかもしれなくて、それの方がもっと「ホントのワタシ」に近いかも、なんてことを考えてもらえたらなーと思っている。
英語で話す時にだけ「賢そう」とか「イケボ(笑)」とか「アメリカ行ったらモテそう」とか言われるので、そんなことをボンヤリ思っている。そうだ、別件でスーツ着てればモテるとも言われたことがあるから、アメリカにスーツ着ていこうね。

とここまで書いておいてなんだけど、今書いてきた話は基本的に、英語でしかコミュニケーションできない相手と対峙した時の話なわけで、じゃあ教室内の擬似的なコミュニケーションにおいてはどう考えればいいのか、なんて辺りは、ううむ、まだ正直まとまっていない。笑
ただ、自分の中に別の自分がいるってのは、けっこう楽しいことだと思うんだよなあ。


冒頭の「デビュー」の人を、数ヶ月後キャンパスで見かけた。なんだか普通におしゃれになってた。やっぱりデビューはするもんだ。