さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『先生のホンネ―評価、生活・受験指導』

先生のホンネ 評価、生活・受験指導 (光文社新書)

先生のホンネ 評価、生活・受験指導 (光文社新書)

読み終わりました。トイレ読書ではありません。
学校で起きる色々な「事件」に対して、各々の先生がどういった対応を取るのか、そしてその対応の奥にはそれぞれの先生のどんな背景が影響しているのかを、ちょっと小説風に書いている本です。
非常に面白かった。各章末に「解説」と題して、社会学的な説明が加えられているのも個人的にはツボ。
どの先生も、自分のそれまでの教員歴や、学校内での自分の立ち位置、校長から与えられた進学指導の「ノルマ」に自分の信念、など、様々な思惑の下で生徒・同僚教員との関係を築いている。そして、それら諸々の思惑は「生徒のために」という一句の下に覆い隠されてしまう。

 先生は何の疑いもなく、「生徒のために」と思いながら、生徒と向き合い教育実践しているのです。ただ、残念なことではありますが、この「生徒のために」という言葉は、あらゆる言動を正当化してしまうマジックワードであることに気づいていないのです。
 それは、「子どものことを思って」と言いながら、子どもに勉強を迫る親の本心が、実は自分の名誉のためであったりするのと同じです。「生徒のために」と言いながら、校則遵守や、国公立受験に誘う先生が、実は自己の利害に沿ったものであったりするわけです。(p. 246)

ここでいう「自己の利害」は、別に生徒のことを本当は思っていない、ということではない。本心から思っているが故に起こるすれ違いも、本書には記されている。

 一人っ子ゆえの甘さからの脱出宣言を、真剣に受け止めたのは清水和子先生である。生徒から悩みを打ち明けられることは、先生の心を引きつけるツボなのである。語られた内容に意味があるのではなく、誰にも話せず心にしまい込んだ悩みを他でもないあなただけに打ち明けるということに、先生は魅了されるのである。この生徒から示された親密性を、生徒から信頼された証と受け止めるのである。それが、親の反対を説き伏せるべく「今度、三者懇談があった時、先生も一緒に入って言うたるわ」という言葉に表れる。生徒からの信頼の報酬に見合った返礼へと動かされるだけでなく、その行為に酔いしれる。
 ところが、打ち明けた内容は、会話というコミュニケーションが作り出した現実でしかなかった。紺野にしてみれば、その場限りの話として受け止めてほしかっただけである。それゆえ、場当たり的に仕立て上げた理由づけを真実と看做され、保護者懇談のテーマにされることなど、またく[原文ママ]もって望んでもいないのである。
 生徒に寄り添ったつもりの先生が、保護者だけでなく、生徒当人からの信頼をも失いかねないことになる。それだけに、生徒の告白には人を動かす魔力があり、信頼を勝ち得たい先生ゆえにはまり込む落とし穴とも言えよう。(pp. 179-180)

これは耳が痛いなあ。「生徒と心が通い合う瞬間」を、自分も多かれ少なかれ望んでいるのだろうし。

その他にも、出席簿の男女別(&男子先)の並びに異議を唱えた先生が、失恋によって受験勉強に打ち込めないでいる生徒の様子を「男として情けない」と評するなど、「フォーマルの場とインフォーマルの場で、先生は異なる価値観を生徒に発信している(p.181)」とか、いかにもありそうだなあと思った。

様々な先生が登場していて、折にふれて読み返したら色々感じることが変わりそうで面白そうね。