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さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

『デカルト』読了

トイレ読書だん。

デカルト (岩波新書)

デカルト (岩波新書)

面白かった。と思うけど流し読みすぎて相変わらず身になっていないなあ。
以下気になった点をメモ。と思ったけど、ながっ!


・「知恵の木」の話

「知恵」を一本の木にたとえています。(もちろん旧約創世記の知恵の木が連想されていることと思います。)そしてその木の根は「形而上学」であり、その幹は「自然学」である、という。さらに知恵の実が結ぶのは枝においてであるが、枝は三本あり、一は「機械学」、二は「医学」、三は「道徳」である、という。そしてこの「道徳」は、すべての認識によって支えられた最も完全な道徳である、と注意しています。
 各部門の内容をざっと見ると、まず「形而上学」は、精神としての自己の存在を確かめ、ついで無限完全な存在としての神の存在を示し、最後に物質的世界の存在について考えている。自己と神と世界との根本的なつながりを明らかにすることが形而上学の課題なのであります。
 第二に「自然学」は、世界がいかにあるかを示すものであって、空間・物質(物体)・物体の運動法則を考え、いわゆる力学的世界像を大胆に画いている。物質は微粒子から成り、微粒子の形と大きさとの相違から、いくつかの元素の相違が生ずる。熱や電磁気も微粒子の運動から説明せられる。デカルトの自然学は素朴な物理学と化学とを含んでいる。そしてさらに、植物と動物をいずれも機会のように見て、物理学と化学とに生物学を接続させるのであります。
 第三に、知恵の木の三つの枝である「機械学」「医学」「道徳」はどうかといえば、
 (a)まず「機械学」とは機械的技術というほどの意味である。この時代に「機械学」(メカニック)と言えばふつうは、ガリレイの小著『機械学』が示すように、梃子とか滑車とかいう単純な機械の構造と働きとを説明したものであります。(中略)
 (b)次に「医学」はデカルトの非常に重要視したところであって、『方法序説』の終りにも「これからの余生を医学の研究に用いたい」と言っているほどであります。医学は身体の健康のためのみならず精神のためにも大切である。「精神でさえも、体質と身体諸器官の配置とに依存するところまことに大であって、人間をだれかれの区別なしにいままでよりもいっそう賢明かつ有能ならしめる手段が何か見いだされうるものならば、それは医学のうちにこそ求むべきだ、と私には思われる」という。たとえば道徳の教えの少なからぬ部分を医術に代えようとするのであります。(中略)
 (c)最後に知恵の木の第三の枝として「道徳」がある。デカルトはこれが、他の学問の完全な認識を前提するものであって、知恵の最後の段階である、という。「完全な認識」によって支えられた道徳を強調するデカルトは明らかに、古代の道徳論者が徳をほめながら徳の認識を教えなかったという、前にものべた不満を念頭にもっている。古代の道徳は砂上楼閣であるに対して、デカルトの求める道徳は、形而上学と自然学とに支えられた道徳なのであります。しかし道徳が知恵の「最終の段階」であると言われることの中には、道徳が究極の善にかかわり、他の二つの枝「機械学」「医学」のように手段的善のみを眼中におくのではない、ということも含まれている。機械学によって人間の支配下におきうる自然力も、医学によって獲得しうる健康も、なお悪用されうる手段的善であって、「道徳」によって導かれなければならない。木の実がなるのは枝においてであり、三つの枝はそれぞれ善い実を結ぶが、道徳の枝になる実が本当の「知恵」の果実なのであります。(pp. 56-58)


・「方法的懐疑」について

 さて『省察』のはじめにデカルトはいくらか感慨をこめてこう言っている。自分の考えを土台からきずき直そうと長い間心がけて準備をして来たが、いまやいろいろな雑念から解放されてゆったりした心境になったので、もうこの仕事をこれ以上延ばしておいてはならぬと感ずる。特にこれは実生活のことでなく理論の仕事であるから、どれほど大胆に自己吟味をやってもよいのだ、という。そこでふつうには疑われず明白だと認められている知識をも、意識的に疑って、少しでも不確かな点のある知識はすべて根こそぎにし、どうしても疑えない最小限の真理に達しようとするのであります。(p. 88)

 デカルトは内外の感覚が確かな知識であることを否定し、ついで数学的真理もまた、全能の神があざむいているのかも知れぬという理由で、疑わしいと考えました。この「欺く神」または「悪い霊」の意味は何であろうか。
 それは第一に、神学を背景にもつ考えであって、論理的数学的真理もまた神の意思決定に依存している、という思想から出ています。(中略)
 ところでデカルトにはもう一つの考えがあって、後にはそれが主になっているのであります。すなわち、数学は長い推理の連鎖から成っているから、たとえばわれわれが幾何学を学ぶ場合、或る日いくつかの定理を証明して明白に知るが、次の日には前のことを記憶していて次にうつる。そのとききのうの証明全体を心の眼で明らかに見ているのでなく、きのう明らかに見たという記憶にたよっている。しかるに記憶には誤りの可能性がある。そこで悪しき霊がわれわれの記憶に誤りを起させわれわれをあざむくことがありうると考えるのであり、そういうことがないという保証、すなわち神があざむかぬという保証がないかぎり、数学的知識は疑わしい、というのであります。これは数学的真理そのものについての疑いであるよりも、われわれの数学的真理の把握についての疑いであり、明らかな理性的洞察よりも記憶の保持に向けられる疑いであります。(pp. 94-96)


デカルトと宗教

理性と信仰は別だといっても、その別々のものを、価値に関してどう見るかは別問題であります。この点について二つの相反する見方があり、十三世紀にイスラム世界から西欧へアリストテレス哲学が伝えられた時以来ずっと対立をつづけて来たものであります。すなわち第一は信仰を理性より高いものとみとめる態度であって中世以来の正統的見方である。理性の解しうる真理は有限なものであって、それより上位に信仰の真理があり、これは理性にとって一つの神秘であるが真理であることに変りはないとする。しかし第二に、全く反対の評価がある。それによれば信仰の真理すなわち聖書に示された教えは、いろいろな比喩や神話にみちている。それの語る言葉は、感覚や想像力の言葉であって理性の言葉ではない。予言者は民衆の言葉で語ったのであって普遍的客観的な学問の言葉で語ったのではない。そこで真理性という価値の上からいえば、宗教の教えは理性の真理よりは低いものであるという。この態度をとって宗教に対して批判的となった人々のことを、デカルトの時代以来「自由思想家(リバタリアン)」と呼んでいる。
 宗教的信仰と学問的理性との関係についてのこの相反する二つの主張には、それぞれもっともな点があり、すぐれた思想家は、大抵この二つの主張のいずれをもみとめた上で重点をどちらかにおいている、といってよい。たとえば主として第一の敬虔な態度をとる人でも、真の信仰と迷信とを分つには第二の態度をも受け入れて迷信の批判をおこなうのであり、また第二の態度を主とする自由思想家や無神論者でさえ必ずしも宗教に無関心なのではなくむしろ強い宗教的情熱をもつ人であることが多く、従って、自由思想が実は宗教を浄化するのだ、という逆説も成り立つ。信仰はいつも批判にさらされていなければ腐敗する。信仰といえども人間のことだからである。(pp. 125-126)

この最後の行、すごくいいなあ。「人間のすること」とか「人間のやること」でなく「人間のこと」という表現が、すごく強い気がした。

そして前の2つの共通点として、数学的真理とか宗教とか、ある種絶対に正しいものを前にしても、それを受け取る人間側の不備がためにそれをきちんと把握できず「腐敗」することがある、というのを想定しているのかなと。よく分からない。笑
以下、いっこ前の引用の続き。

 ところでデカルトではこの二つの態度のいずれが主となっていたか。(中略)現在の大多数の解釈では、デカルトは普通のカトリック教の信仰をもち、当時の啓示神学の問題についても個人的につよい関心をもった人であったと見られている。われわれはデカルト死後の伝記者のようにデカルトの善き信仰を弁護する必要はないわけですが、事実は善き信者だったとみとめられる。――かれの形而上学における神の概念も、デカルトを自由思想家と見ようとする人の解釈するような、手段的な概念ではありません。デカルトは神の存在を仮説として置いたのではなく、われの存在と同等に確実な真理としてのべている。「われ考うゆえにわれあり」ということと、「われありゆえに神あり」ということとは、デカルトにおいて一つにつながっているのであります。(pp. 126-127)


・心身問題

デカルトは、われわれが身体においては全く一つの機械であることを進んで主張しているのである。(中略)人間の言語使用と理性的行動とが、機械としての身体だけでは説明できず、理性的精神の存在を認めてはじめて説明できる、とデカルトが考えた点を反省して見なければなりません。そのことは、人間が全体的には、自然学の対象となりえないことを意味しています。そこで人間を全体としてとらえようとすれば、形而上学をも改めて考えて、そこに確立された精神の存在を、説明原理に加えねばなりません。デカルトはそれが当然であると考え、そして精神が機械としての身体に働きかける点を、動物精気の統御の中心である松果腺にありと考えます。松果腺において精神は物質と合一しており、精神はここで動物精気の運動の方向を統御し、言語使用や理性的行動を生む、と見るのであります。そして一般に身体の人間らしい使い方のみならず、感覚や感情も、精神が松果腺において身体と結合しているから起るのだと解釈するのであります。
 しかしながらここに思想史上周知の問題がある。それは心身問題についてのデカルトの矛盾といわれるものであります。――すなわち形而上学においてデカルトは精神を身体からひきはなすことにつとめ、身体と独立な「考えるわれ」の存在を確かめた。心身の「実在的区別」を明示した。しかるにいま人間の説明原理として、物質的身体のみならず精神をも導入するにあたっては、精神を、松果腺において物質と一つになって働くものとして考えねばならない。心身の分離でなくむしろ心身の合一をみとめねばならなくなっている。これは矛盾であると見えるのであります。(pp. 156-157)


・情念

 「情念」というのは、「悲しみ」や「怒り」や「恐れ」のようなつよい感情のことであります。われわれの精神の底に生ずる一種の受動的状態のことであります。それをわれわれの意識のいろいろな様態と区別してはっきりとり出して見ることにします。――われわれの意識の能動的な側面は、前に「われ考う」の二面としてのべた知性のはたらきと意志のはたらきとであり、これは意識の能動性の二つの柱のようなものであります。これら柱の根のところに、われわれの受動的な意識様態、すなわち身体と密着した意識がある。それをよく見ると三つに分けられる。第一は眼や耳を使う外的感覚であり、第二は痛みや飢えのようなわれわれ自身の身体についての内的感覚である。この二つはいずれも身体のはたらきかけに依存しており、精神の方からいえば受動ですが、ただ精神でないものを指している。たとえば視覚は、精神の受動態であるが、精神でない外物を見ており、資格の内容たとえば色は、物の色と見られている。痛みの感覚の場合にも、手が痛いとか、頭が痛いとか、身体の或る部分への関係を含んでいる。ところで第三に、「恐れ」というような受動的意識(情念)では外感や内感とはちがった趣が見える。それは外物や身体部分についての意識でなく、精神自身についての意識である。もちろん「虎が恐ろしい」とか「幽霊が恐ろしい」とかいうように何か外物に関係づけられることもあるが、よく見ると、「虎が恐ろしい」というときに虎を指しているのは外的感覚であって、「恐ろしい」という感じは直接には虎の意識でなく虎を見ている精神の状態そのものの意識であります。(pp. 163-164)


デカルト哲学と現代

技術の伝播はイデオロギーの電波の場合のように説得を必要としない。それは不可避性、普遍性をもっています。ここ百年あまりの間の科学と技術との伝播は、有史以後の文化の伝播によりも、有史以前の青銅器や鉄器の伝播に似ていると言えます。(p. 183)

なるほどなあと思ったのでメモ。

…長かった。次のトイレ読書は、

学力幻想 (ちくま新書)

学力幻想 (ちくま新書)

で行きます。いつ読み終えるかなー。

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