さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

「本当に取り返しのつかないこと」を自分で選べるのか問題

忘れるということがピンとこないことについて - Take a Risk:林岳彦の研究メモを読んだ。

p( この世界におけるx|本当に取り返しのつかないことA )

という例え方(?)はとても納得の行くものだった。昨日友だちと話してて色々思うところがあったので、メモ。


考えようによっては、全ての過去が「A」に入りうる(過去は取り消せないので、文字通りの意味で「本当に取り返しのつかないこと」である)のに、たとえば昨日の昼に僕がつけめんを食べたことは「A」には入らない。
ということで、何を「A」に入れるかは、自分が決めている。

今一緒に研究をしている友だちは、けっこう自分の政治性(?)を押し出す人で、「原発再稼働は反対だ」などというテーマが日常会話レベルで出てくる。
自分はそれに対して極めてあいまいな反応しかできていないけど、それはきっと「忘れている」ように映るんだろうなあ。

「本当に原子力がないと電気が足りなくなるのか」「放射性廃棄物はどれほど危険なのか」といったことについて自分なりの答えを持てるほど調べていないし、なんとなくそれらが身近にあるとは感じていない(多分近くに放射性廃棄物は来ていないし、停電等に見舞われた経験もあまりない)から、それは「無視している」ということになるんだと思う。

もちろん「無視している」と言われたらごめんなさいと言うしかないけど、ただ自分の感触としては、その「A」を外から押し付けられたくないと、強く反発しているような気もしている。
たとえば昨日の朝、「あの日生まれた子どもたち」的な特集ニュースを観てつぶやいたんだけど、

あの日生まれた子どもに特別な意味付けをしているのは結局のところ周囲の大人であって、その重たい意味付けを将来その子が投げ出したくなったりしないのかな、となんとなく思った。その日生まれたことを背負って生きていく人ばかりではないだろうなあと。

これなんかは、生まれながらにして「A」を周りに背負わされている状態に、自分には映った。

自分が背負うもの(≒「A」?)は自分で決めたいし、自分が打ち込むものは自分で決めたい。
だから、それが「外」から否応なく押し付けられてしまう事態は極めて好ましくないことだと思っている。

ただ、何をもって「自分が決めている」と言えるかは難しい*1
たとえば反原発運動に従事する人たち(の多く)に対して、あの事故がなければそうした運動をしていなかっただろうことは「客観的に」予測される(3.11以前ももちろん反原発運動はあったと思うが、今ほどの規模ではなかったんじゃないか)。その意味で「外」から「A」が押し付けられているように映る。
でも個人個人をみれば、その「外」からの「A」としての震災・原発事故を引き受けつつ、「自分で決めて」打ち込んでいるんだと思うから、他の人が「もしAがなければ別の選択肢を持っていたのに」なんて思ってしまうことは、最初に挙げたブログにある通り

"本当に取り返しのつかないことA"により条件付けられた世界に生きている人」にとって「Aが起きたことを忘れるということ*2」がそもそも「ピンとこない」

ことなんだとは知りつつ、自分はやっぱりそう思ってしまう。
原発事故の話も、なんだかひどく部外者っぽくて嫌になるけど、それが人の健康を害するからとか多数の人の住居を奪ったからという一次災害としてよりむしろ、そうした一次災害によって「外」から「A」を多数の人に押し付けてしまっているという点で、とても悪いことだと思う。

反対に自分が今「自分で決めて」打ち込んでいるようにみえることも、他の人からみたら「いや、それは『外』から決められてるでしょ」と思われることも多々あるんだろう。

だから結局は、自分はこの3.11を自分事として取っていない、取ろうとしていないということをぐだぐだと言い逃れしてきただけみたいにも思える。

あとさらにシニカル*3で嫌になるけど、各自が自分にとっての「A」をもとに活動をして、言説同士が張り合って、その結果社会にとっての「A」を規定していくというプロセスは絶対に必要だと思うから、「運動(規模を問わず、他の人に対して自分の「A」を表明して働きかけていくこと)」自体は必要なことだと思っている。まあ、TPOとその程度なんだろうけど。

まだモヤモヤした気持ちは続いているけど、なんなんだろう、これ。

*1:というか、色々書いていくうちに、「A」は本質的に「外」からしか与えられないものなんじゃないか、とまで思う

*2:引用者注:きっとここに「『Aが起きなかったら』ということを想定する」というのも入るんだろう

*3:っていうのか、メタに立とうとしている、というのか