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さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

「ふしぎなキリスト教」読了

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

トイレ読書だん。いやあ面白かった。
前半はキリスト教の歴史、後半はキリスト教現代社会に及ぼしている影響、という感じ。
本当は前半をみっちり理解した上で後半、というのがよかったんだろうけど、正直前半は読み飛ばしたところも多かったです。

いつものように、手抜き引用。

橋爪 神はそれでは、ちょっと無責任かもしれないと思って、奇蹟を起こすことにした。預言者が預言者であるしるしに、奇蹟を起こす。手形の裏書きのようなものです。
 一神教の奇蹟の考え方を、よくあるオカルト信仰と勘違いしてはいけない。むしろ、オカルト信仰とは正反対です。世界は、Godが創造したあと、規則正しく自然法則に従って動いている。誰も、自然法則を一ミリでも動かすことはできない。その意味で、世界はすみずみまで合理的である。でも必要があれば、Godは自然法則を一時停止できる。これが、奇蹟です。世界が自然法則に従って合理的に動いていると考えるからこそ、奇蹟の観念が成り立つ。
 よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。科学をつくった人びとだからこそ、奇蹟を信じることができるんです。科学を信じるから奇蹟を信じる。これが、一神教的に正しい。(p. 117)

橋爪 カトリックは、救済のためには教会が必要だと考えている。
 昔は救済を、文字通り教会がお手伝いした。イエス・キリストの代理人として、人びとの救済を約束していたわけです。宗教改革のあと、いろいろ批判されて、さすがにこの考え方はひっこめ、煉獄とか免罪符とかの教養はすべてなくなったんだけど、ただし、この公会議の議決には従っていて、自分たちこそ、公同の唯一の正統の教会だという立場をとっている。その唯一の教会に参加していることが、キリスト教徒の条件だと考えている。その教会の頭はイエス・キリストで、手足が信者だというわけで、頭と手足は切り離せないと考えているんですね。(p. 293)

大澤 なるほどね。
 ちょっと補足的にコメントすると、近代的な自然科学の世界観とそれ以前の世界観とを比較した場合、誰でもすぐに気づく明白な相違は真理の規準なんですよね。中世だったら規準はテキストにあった。アリストテレスがこう言っているとか、聖書にこう書いてあるとか。でも、近代的な自然科学においては、それは規準にならない。だから経験科学というのが出てくる。この違いを言い換えれば、神の真の意図が、聖書をはじめとするテキストにあるのか、それとも自然そのものにあるのかの違いと言ってもいいでしょう。
 ずっと話題になっているように、キリスト教の場合、聖書がかなりあいまいですからね。となれば、神が直接お創りになった自然のほうが、神の意図を知るということではよりいっそう優先権があるとも考えられる。現にガリレオ・ガリレイ―彼は科学革命の初期の担い手だったと言ってよいと思います―がそんなことをどこかで書いていました。「アリストテレス主義者は真理は『物語の本』にあると思っているが、自然こそが真に偉大な書物なのだ」と。つまり、自然は、聖書以上の聖書だというわけです。(p. 315)

大澤(中略)
 つまり、カントは、神の存在をカッコに入れたうえで、哲学しているわけです。しかし他方で、にもかかわらず、カントの哲学は、全体としてたいへんキリスト教的だと思う。
 たとえば、カントの倫理学に、定言命法という重要な概念があります。定言命法とは、いついかなる場合でも、絶対に従わなければならない、倫理的な命令のことです。定言命法をどうやって導くのか。中世の哲学者・神学者だったら、聖書に書いてあるとか、キリストが言っているとかすれば、絶対の倫理的な命令を正当化できますが、カントはそういうことはしない。ではどうするのか。
 まず、それぞれの人が、自分はこういうふうに行動する、という原則をもっている。それを「意志の格率」と呼びます。その意志の格率を普遍化したらどうなるのか、と想像してみるわけです。つまり、すべての人が同じ意志の格率を採用したとして、うまくいくかどうかを考える。たとえば、ぼくが「自分が好きなときに好きなことをしゃべる」という意志の格率をもっているとする。それが普遍化できるだろうか。みんなが、好きなときに好きなことを勝手にしゃべってもよい、ということにしたらどうなるか、と考えてみる。すると、たいへんな混乱で、うまくいかないことは明らかです。勝手に好きなことを好きなようにしゃべっていたら、話し合いもできない。だから、「好きなときに好きなことをしゃべる」という格率は、定言命法にはなりえない。つまり、「普遍化」のテストに合格する格率だけが、定言命法になりうる、というのがカントの論理です。
 こういう倫理学の説が正義の理論として妥当かどうかということを考えるときに、キリスト教であれ、何教であれ、信仰を前提にする必要はありません。キリスト教徒でなくても、これが妥当かどうかを判断できるわけです。
 しかし、同時に、この定言命法というのは、カント流の隣人愛だと思うのですね。キリストが説いた隣人愛を、カントのやり方で哲学的に正当化していると見なすことができる。意志の格率を普遍化するというのは、すべての人を人格として尊重する、ということと同じです。カントは、他人を、自分の道具や手段として(のみ)扱うことをたいへん悪いことだと考える。どんな他人であれ、相手が嫌な奴や悪人であったとしても、独立の人格として尊重しなくてはいけない。それが定言命法の核です。こう考えると、定言命法が、カント風にアレンジされた、キリスト教隣人愛であることがわかります。
 で、何を言いたいかというと、こういうことです。カントは哲学をやるときに宗教を完全にカッコに入れているんですよね。神の存在についての判断を停止している。にもかかわらず、その結論は、きわめてキリスト教的なものになる。
 だから、ここにもキリスト教のあの特徴が現れているわけです。まさに、キリスト教から脱したように見える部分で、実は、最も強い影響が現われているという逆説です。
 ふつう世俗化というと、宗教の影響を脱することを言うわけです。しかし、キリスト教は、世俗化において一番影響を発揮するという構造になっている。そういうふうになった宗教はほかにはなかったんじゃないかな。(pp. 323-326)

うーんちゃんと前半読み直さなくちゃなあ。
とか言いつつ、次のトイレ読書はこちら。

デカルト (岩波新書)

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以前読書猿さんのサイトでオススメされてたのを見た気がする。楽しみだ。

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