さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

LET&全国英語教育学会感想

時間を20分に区切って集中してブログを書いてみるよ!(と言うことで中身のないブログに何か免責できるような。


先週1週間は、学会というものに生まれて初めて参加しました。厳密には初めてじゃないと思うけど、ワークショップに行ってみたり、いろんな部屋に行って発表をはしごしたりしたのは初めてってことで。
当日の記録は、この辺↓
外国語教育メディア学会(LET)全国研究大会に参加しています - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!
全国英語教育学会年次大会に参加しています - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!
外国語学習の科学〜SLAの知見をいかに英語教育に活かすか(ピッツバーグ大学・白井恭弘先生特別講演)@全国英語教育学会 - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!
中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―日本語事例と英語事例から― - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!


一番強く感じたのは、「早くこの場所における当事者になりたい」ということでした。他に色々感じたことを以下に野放図に書いていきますが、研究者でも現場の先生でもない自分は、やっぱりこの分野に対してなんら責任を負えていないということを痛感しました。仕方ないこととはいえ、立派な研究をされている院生・大学の先生や、日々の校務分掌でも死ぬほど忙しい中、立派に研究している現場の先生とは絶望的とも言える差を感じていました。知識も、現場知も、何もかも足りない!
だからこそ、次回はなにかの発表をする立場、フルボッコにされる立場としてああした場にいられたらなと思いました。
…というエクスキューズを置いた上で、以下思ったことを書いておきます。


まず、この分野(英語教育なのか、教育なのかは分からない)を学問として立てることの困難さ。SLAの分野が一番「科学」として自身を立てることに成功しているように見えたしだからこそ白井先生が呼ばれて大きな講演を任されているのだと思うけど、それを現場の教員がきちんと自身の実践に落とし込めているわけでは必ずしもない(もちろん落としこむべきかどうかも議論があるところだけど)。
ここらへんの「理論と実践の乖離」的な部分に関して、もっとも得心がいった論は、研究と実践のあいだ - 英語教育2.0 〜my home, anfieldroad〜にあった、「摩擦」という考え方。生徒との関係性やら学校のおかれた環境やらで、先生は必ずしも理論が指し示す通りには実践できない、というそのhindranceを「摩擦」と表現するのは非常にうまい。
同時に、やっぱりこの「摩擦」は各自の先生がなんとかすべきもので、研究者が統一的な理論でなんとか解決できる類のものではないと思う。もしこれを「研究」でなんとかするなら、柳瀬先生の「生態学的アプローチ」的なものが必要になってくると思うけれど、それこそ無限の場合分けが必要になって、そんなマニュアル(と呼ぶのはアレかもしれないが)、とてもじゃないが作れないし作れても誰も読めないでしょう。


ということで、現場の先生の仕事としては、

  1. 「摩擦」をなるべく減らす
  2. (「摩擦」が理想的な状態になったと仮定して)「理論値」を出すために何をすべきなのかを知る

があり、「研究」の対象は主に後者なのだと思います。
ただ、「摩擦」を理想的な状態にすること自体が神がかりに難しく、それができる先生が現場で人気があって「◯◯先生の教師力セミナー」的なものに呼ばれたりするんだというのも理解できる。
あと、前者が研究の対象になりづらいからといって研究者がだんまりを決め込むのはまずい、とも思った。その観点から柳瀬先生の活動は意義深いが、なんだろう、全ての研究者が全力かけて「摩擦の低減」に取り組むのもやっぱりなにか違うような気がしている。


そうした話を書いた上で、次のトピックとしては、方法論的にあまりにもツッコミどころが多い「研究」も多い、ということ。
例えばアンケートで生徒の様子を把握、というのはよくあると思うけど、例えばダブルバーレル(「AやBは良くないと思う」という設問は、Aだけ良くないと思ってる人はどう答えるの?)とか、主語が自分なのか一般論なのか不明なもの(「英語は音読で勉強するのがよい」だけ書いてあった場合、一般的にはそうだが自分は訳読で勉強したいと思っている人は、どう回答するのか分からないかもしれない)があったり、そうしたところはまず真っ先に潰すべきツッコミどころのはずだけど、やっぱりなかなか難しいのかなあ、と偉そうにも思ってしまいました。あと因果関係の順番がどっちかわからないのに勝手にA→Bと想定していたり、分析も散布図書く前に勝手に群分けしていたり、「いいの!?」と思ってしまうものも多かった。


ただ。


まず自己ツッコミとして、「自分は研究する時それできるの?院生だからもちろんできるよね?(反語)」とか「まだ何もやってないくせに偉そうに」とかはあるものの、それよりもっと根本的な問題として、「こうした話は、おそらく多分に専門的な教育の賜物であり、そんなこと知らずに教員になった人に対してそれを要求するのは、まさに現場の学会離れ・研究離れを助長するのではないか」という疑問。
この分野を学問として立てるなら、この辺の話はクリアしなくてはいけない。ただ、現場の先生は学問として立てるかどうかなんて正直二の次三の次、というのも色々な話を聞いていて分かった(多分聞く前からわかっていた)。
例えば浦野先生・水本先生が効果量のワークショップをやってくださり、きっと学問としての正当性・積み上げ可能性を得るために、という意図があったのだと思うけど、あのレベルの話がすらすら理解できる人は、あの場にはそんなに多くなかったのではないか、なんて思ってしまう。さすがに自分は「理解」はできた(と信じたい)。「実践」できるかは、まあこれから。
あのワークショップ自体の価値は全く否定するつもりはないけれど、あのワークショップの「逆機能」(聞きかじったジャーゴンを使ってあとで失敗するタイプ)として、「うげ。こんな難しいの?ハードルたっか…」と、研究から足を遠ざけてしまう人が出るのではないか、ということでした。
じゃあどうすればいいのだ、と言われても何もないし、おそらくCELESでなされているプロジェクト「英語教育研究法の過去・現在・未来」には、研究法の周知みたいな目的もあるのではないかと想像しているので、あの場だけで何かをしようというより、研究法への意識を高めて、その後も引き続き勉強する場を提供していくのだと思うけど、、。ダメだ全然まとまってない。
でも話をされているお二人の先生の様子からは、及び今回講演を聞いた白井先生や柳瀬先生からは「このままではダメだ」という逼迫感のようなものが伝わってきた。勝手な解釈かもしれないけど、ああして第一線に立たれている方があそこまで精力的にこの分野のことを考えて行動されているというのは心底驚嘆したし、自分も少しでも何かできたらいいな、と思えた。


最後に感想らっれっつっ!

  • 学会ってなんか同窓会的な雰囲気もあるんだな!
  • でも一見さんにはなんか居づらいように思えることもしばしばだな!笑
  • でもでも北海道涼しくて楽しかったな!

(ああ結局30分かかってしまった…)