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さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―日本語事例と英語事例から―

8/10(土)16:00-17:40に行われたシンポジウムの記録です。
登壇者は、柳瀬陽介(広島大学・コーディネーター)・樫葉みつ子(広島大学・指定討論者)・大塚謙二(北海道壮瞥町壮瞥中学校・提案者)・坂本南美(兵庫県立大学附属中学校・提案者)の各先生方でした。


◯お断り
2つ前にアップした、白井先生の講演の記事は、わりと網羅的にメモを取ることができていました。しかし、今回のシンポジウムは、全てをメモすることが非常に困難で、メモを見返しただけでシンポジウムの内容をきちんと把握することは不可能です。しかし、メモが不完全にしか取れなかったということ自体に何か意味があるのかもなあとも思うので、ここにアップし、感想を書いていこうと思います。なので、これを読んであのシンポジウムをふり返ろうと思っている人にとっては期待はずれとなることを予めお断りさせていただきます。
「←」の後に書いたのが個人的な感想です。



◯はじめに
柳瀬先生が登壇されて、経緯の説明。の前に、
3ヶ月で18kg痩せた!が!円形脱毛症に!
ご本人に訂正いただきました。詳しくはコメント欄を参照していただきたいですが、順序としては「ストレスによる円形脱毛症→体重減・少食主義に→そのまま理想体重キープ」とのことでした。確かに順番は大事ですね…!!すみませんでしたm(_ _)m
←つかみ完璧すぎ…!!


本発表は、3年計画の2年目をふり返るもの。1年目の研究概要は、ジャーナルライティングを通じて、1.自分を他者化、2.他者化された自分を観察・記述することで、過去・現在・未来の自分の現実の可能性を想像できるようになる。
←これに関しては、柳瀬先生のブログ「英語教育の哲学的探究2: [草稿] 英語教師が自らの実践を書くということ (1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―」をご参照下さい。


その後、一般読者を対象としながら編集者や査読者にもアピールする大塚先生と、国際雑誌に投稿を果たした坂本先生のご紹介がありました。


◯「生態学的アプローチ」
←→「工学的アプローチ」=量的研究
RCT, Double Blind Testなどの、量的研究に必要な手順が踏まれていない。
介入の同一性も保てない(人によって同じ手法でも授業は違うよね)
結果を一般化するのはやりすぎじゃない?
←Double Blind Testとは、医療の例えで言うと、被験者自身が自分の薬が新薬か旧薬か偽薬か分からないようにするとともに、それを処方する医者自身も、それがどの薬か分からないようにする、という点で「二重」盲検法なわけです。
←やってみたいけどできないだろうなと思う教育の実験として、A先生はaという教授法を信奉していて、B先生はbという教授法を信奉しているような場合、A,B先生が、a,bの教授法をどちらも使ってみたら、多分その教育効果は、[A*a, B*b]>[A*b, B*a]となるんだろうなと思っています。


「工学的アプローチ」とは、生態学的観察抜きの事例研究を、「一般化」できる科学として標榜している自己欺瞞ではないか、という主張(そして、まだまだ強い言葉での批判が後に控えているよ…!!と匂わせていらっしゃいましたw)


生態学的アプローチ:
例えば体の大きい先生・小さい先生。中高現場で考えたら、色々違うはずだ。そうした要因(個体・歴史・時間・関係・環境などなど)はたくさんある。教育内容と教育方法を定めたら授業はうまくいく、なんて考えられてるけど、教師・生徒・学級・学校といった環境の中で「教育実践の生態学」が立ち現れる。


各要因間の相互関係を重視・相互関係の全体性・システムの複合性
→単純で一方向の因果性を疑問視。教育方法A>教育方法Bなんて、簡単には言えないでしょう。
先生A>先生Bなんてことも、もちろん言えないでしょう(植物の種の比喩)。
多元的な複数の視点をもち、個別の生態を丁寧に観察する。


←以上のお話も、柳瀬先生のブログ(「英語教育の哲学的探究2: 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ」)に詳しいですのでご参照下さい。というか僕のブログ読まずに先生のブログだけ読んだほうがいいと思います。汗


◯ARELE論文分析
ARELEのわりに、質的・認識論的・reflectiveな話が論文になっていない。
←この話も、柳瀬先生のブログ(「英語教育の哲学的探究2: [草稿] リフレクティブな英語教育:10年間の動向」)に詳しいですのでご参照下さい。あれホントこのメモアップする意味ないな…。


なぜ・誰が、中国地区からこのような発表を課題研究フォーラムを許したのか、的な批判があったらしい。
→(怒) まさに激おこぷんぷん丸な感じでお怒りでした…w


今回の講演で使うキー概念は、アダム・スミス「公平な観察者」(の、柳瀬流解釈)。
新任教師はAgentとして実践で手一杯。そこで実践をふり返ろうとすると、spectatorとしての自分が現れる。その役割は、
1. reflection(私は生徒Bをこうみている)
2. imagination(生徒Bは私をどうみているんだろう)
の2つ。これらがうまくかみ合うと、sympathyが生まれる。
そして、Agentとしての自分と、Spectatorとしての自分をを統括するXという視点。これをImpartial spectator(「公平な観察者」)と呼ぶと、publicationは、一般読者というImpartial spectatorに対してpublishするわけだから、その視点に近づく試みと言えるだろう。


段階的な発達(僕が勝手につけた呼称です。「発達」と言ってしまってよいかには議論があるかと)としては、
1. No reflection
2. Reflection on Action (by theories)
3. Reflection in Action (in classroom)
4. Reflection on Reflection in Action (3についての2)
→これがWritingという作業
5. Reflective Communication
→これがPublishingという作業


とのことでした。


◯大塚先生の実践報告
新出単語を学んでできるようになること3つ:発音・意味・日→英
どの順番で難しいか?
生徒をみていると、日→英より、意味を言うことのほうが難しそうだぞ?→アンケート→8割の生徒が、意味(英→日)より、日→英のが楽とのこと
←そうやって実践の中の疑問を解くために研究的な手法を使っている、ということだと思います。(きちんとメモを取れていなかったので、なぜここにこの話を持ってきたか不明瞭になってしまいました)


授業の目的:
英語学習の楽しさ・子ども達の進路実現・授業を通して社会性を身に付ける(人前で堂々話す・ペア活動の中で思いやり、協力の心を育てる)など。


publishingについて:
興味があって書き始めたが、あまりに辛い!が、若い先生・困っている先生の一助になれば、という意識に変わってきた。

『成功する英語授業!50の活動&お助けプリント』
1998年:英語教育セミナーで発表
2000年:インターネット上で公開
その後出版社の方の目に止まり、様々な工程を経て出版へ。確かにものすごく作業量があって大変そう…。


伝えるために『しょうゆ』
→醤油って、毎日みてても書けない。書けるようにさせたいものは書かせないと。


生徒を本気にさせるのは、ゲームなど使わなくとも、難易度調整で十分。など、色々な教訓をpublish経験から得たとのことでした。


◯坂本先生の実践報告
1,200人の生徒を抱える中学校の2年生に対する実践を海外論文誌に投稿した。
国際雑誌Teacher Development
←これ修論に使えそうかも…!!笑


教師の成長、をテーマにしている。9ヶ月間、TTを行なったパートナー教師の語りを質的に分析。
概念的気づき・感情的な気づき・同僚性への気づきや、教師としての、学びに対するownership of teacher learning(Norton, 1997)の獲得とその所有感の変化、生徒たちの語りの分析、などがトピック。


「授業者である自分」←→「教室を研究する自分」との行き来
授業をデザイン←→教室をmacro/microにみていく
生徒の学びを捉える←→生徒の言葉や教師の語りを分析的に捉える
など、様々な違いがある中で見えてきたものがある。

N.Sakamoto, 2011, “Professional development through kizuki - cognitive, emotional, and collegial awareness”, Teacher Development, 15(2): 187-203
こちらのページから購入出来ます。
背中を押していただいた先生方の存在などにも言及されていました。


以下、柳瀬先生・樫葉先生とのインタビューで聞かれたことを中心に答える。
Q1. 普段日本語で思考していると思うが、それを英語で刊行することはどうだった?
A1. 日本語でも、言葉を学び直した(語りの分析・自分とパートナー教師の記述によるリフレクション・生徒たちへの口頭によるインタビュー)
インタビューデータの特長として、播州の方言(「〜け?」とか)があり、翻訳は困難だった。


Narrative 1
「あの時、すごくがくっとなって…」
→これは、ショックだったのか、疲れたのか、悲しかったのか、なんなのか。前後の文脈から、動詞の選択が変わってくる


Narrative 2
(前で発表すると声が出ない・足がすくむという女の子にも、ぜひ発表してもらいたい、という状況。その子は立てない。友だちから背中を押されて前に。それでも声は出ない。N先生にちらっと一瞥。N先生はその子のもとに行き、そばにいてあげることで発表ができるようになる。その場面をふり返っての語り)
「カタカナをふってるんですけど、そのカタカナをすらすら読むっていうのも、あの子にはたぶんすごい難しくて。だから、たぶん来てほしいなっと思って。で、普段もよく話をしてるんで。こっちを見たなとか、あぁ来てほしいんやっていうのもわかって。(後略)」
→主語ない!英語に訳しづらい!


語りを分析して実践をまとめることの意味

  1. インタビューやジャーナルデータとの対話
  2. 実践との対話
  3. 自分自身との対話


言葉の持つ力を実感
授業や教室の研究を行うことの素晴らしさへの気づき
「教室」への意識の高まり


◯柳瀬先生から一言
Encouragement and Empowerment、を意識している。つまり、この先生たちスゴいでしょ!ということを言いたいのでは全くなく、現場教員への後押しになれば、と考えている。


◯樫葉先生のセッション
200人いる生徒のうちの一部は自分になつくだろう。そうした一部の生徒の言動を取り上げて実践記録として示すのはどうなんでしょう、という問題提起。
←この問題提起自体は心底納得。ただ、それに答える形になっていたようには自分には思えませんでした。


meaningfulな授業←生態学的な授業
教職の専門性:対人関係専門職として、生徒の持つ可能性を最大限に引き出す手助けをする行為において発揮されるもの


1.育てたい生徒像と、2.今の生徒たち、についての質問。


大塚先生:
1.社会に出て行く際に、堂々とした人間になってほしい。 “What’s a motto!” 6つのモットー。speak loudlyをさせようとしている。
2.月曜日はダメ。長期休暇開けもダメ。最終目標も、達成できている時とできていない時がある。


坂本先生:
どの教科でも共通する、思いやり豊かな生徒に育って欲しい。英語という教科は、言語を使うという特性上、人とかかわるということが多い。責任を感じる。学校に来にくい子、来にくくなってしまう子、そういう人にも来て欲しい、と思う。授業を抜けると、転校してくるような感じになってしまう子が多い。そういう人に対してもwelcomeなクラスづくりをしたい。中学校三年間は人間づくり。教室の関係の中に自分も入りたい。


◯柳瀬先生のまとめ。
「責任」という言葉への着目。(弱い意味での)一般化。観察。社会性
実践研究を論文としてpublishする意義
研究と実践を、「異質なものの融合」と表現されていたのが面白い。
←誰がその表現をされていたか聞き漏らしてしまいました。その融合を進めて行かなければならない、という趣旨のご発言だったと思います。


◯フロアとのQ/A
Q1. レビュアーからどんなコメントが有ったか。読者からの反応は。
A1. “awareness”って言葉を使っていたが、「これが本当に言いたいことなのか」という言葉から、termに関して再精査し、「気づき」という言葉を使った。
国内・海外からの反響大。「気づき」という概念が自分の授業をそういう目で見るようになった、という海外からのコメントや、授業の文脈の補足や、状況の補足。


Q2. すごく忙しい現職の先生にとってハードル高くないか。大きなコミュニティでpublishすることの意味。
A2. 坂本先生:新任3年間で色々あった。研修では「明日使える」というTipsの練習をするのが普通だが、論文にまとめるという仕事で、自分の活動は変わった。大学院の仲間と本を読んでみようとしたり、なんだり。
大塚先生:(写し漏らし)
柳瀬先生:イチローの分析を聞いて「私はイチローではない」って言われても。まずはクールに分析。全員にpublishを勧めるものではない。ただpublishによって自分の思考する時間・空間が広くなる。大きなコミュニティの方が、赤の他人からのレスポンスが得られるというのがでかい。また、publishすることで、お2人とも理論への志向性が高まったようなので、そうした効果もあるだろう。


Q3. 他の先生の研究を後押しするような場合があったか
A3. 大塚先生「自分も大学院に行きたい」とおっしゃった先生がいた。年齢的な側面もある。
←年齢が上になるにつれ、自分が与える影響も大きくなってきた、ということだと思います…。
坂本先生も、同じく同僚が1人大学院に行った。また、パートナー教師のN先生は非常勤。5回目のチャレンジで教採受かった。研究をする中で、「なぜ自分が英語の先生になりたいか」を語れた。


Q4. 現職の先生の「書く」という作業が、自身に及ぼす影響に関して。教職志望の学生たちにもこういった作業が有効ではないか。
A4. 柳瀬先生:「社会性を持って」書くということが大切。ただ書けばいいというわけではない。


◯柳瀬先生のまとめ
自分の実践を「ごまかす」ことは簡単。実践論文のクオリティを担保するのが今後の課題。



◯個人的感想
 現場の先生方の実践をpublishすること、というテーマでの講演。非常に面白く聞いた。内容に関してはここでは踏み込まないけれど、語り口としてより好きなのは柳瀬先生の研究者としての語りであった。大塚先生のメモに抜け漏れが多いのも、なんというか今の自分に彼の話を正しく聞いて正しく理解する力がないことが原因なように思えた(もちろんメモ取りに疲れてきたとかその他の要因もたくさんあるとは思うが)。そうした意味で、自分は研究者志向が強いのだな、と。
 ただ、坂本先生の報告にあった生徒とのエピソードには、素直に感動した。「生徒の美しい人間的成長」的なものと「研究」的なものとには、相容れない部分があるような気がしていたし今もしている(特に「美しい」って部分が主観だよねと。)から、なんとなくその場面での感動に自分自身戸惑った。
 そうした「感動」を排除しては教育は成立不可能なようにも思えるし、かといってそうした感動に目を曇らされて(非常に嫌な言葉遣いだなこれ…)いては、研究はできないようにも思える。わりとこの辺が「実践と研究の溝」の大きな要因の1つなのかな、と思う。


 最後に、少しだけ柳瀬先生の提唱する「生態学的アプローチ」と「工学的アプローチ」とに関して述べる。この二分法は、そのまま「質的研究」と「量的研究」とに対応しているが、詳しい説明は先述の柳瀬先生のブログをご覧いただきたい。
 講演では、「工学的アプローチ」が一般化を志向する科学を標榜しながら一事例研究に過ぎないことを痛烈に批判されていたが、そこで僕が感じたのは、「生態学的アプローチ」も同じかそれ以上に実現困難な理想像だろう、ということである。もちろんこんなことは柳瀬先生ご自身気づいていて、だからこそ苦しんでいるようなところがあると思っているが、以下僕の思考の整理のために思うところを書き記しておく。

 「生態学的アプローチ」も「工学的アプローチ」も、どちらも教育分野においてはかなわぬ理想像である。後者が理想にすぎないことは、今回の柳瀬先生のご講演を聞けばわかると思うが、前者も同じく実現不可能な理想である。なぜなら第一に、たとえ全ての要因を考えたとしても、それは到底論文・書籍に収まる分量ではないため、誰か他の人と共有することは不可能であるからだ。
 こう書くと「文章等で他の人と共有できなくても、私には全ての要因が分かる」と言う人がいるかもしれないが、第二に、全ての要因を把握すること自体もやっぱり不可能である。だって無限ですよ?神か!
 さらに重要なことには、第三に、「いや、私には全ての『実践の把握に必要な』要因が分かる」と考えるなら、それこそまさに量的研究=工学的アプローチの視点であるということが指摘できる。

 量的研究においては、ある要因(たとえば、指導法)がある結果(たとえば、英語力)に対して、比較的大きい影響を及ぼしていると考えているからその要因を測定するのであり、それ以外の要因の影響をなるべく除外するために、様々な統計手法やRCTなどのデータ採取方法が開発されてきたのである。
 というわけで何が言いたいかと言うと、今回の発表を聞いて、「そうか、確かに量的研究も一事例研究にすぎないな。これからは質的研究だ!」と安易に考えるのは危険ではないか、ということ。もちろん量的研究の欠陥(それは教育分野に特に顕著なんだろうと思うから辛いけど)は認めた上で、でも質的研究だって同じく無理ゲーだし、「全ての要因を見る」という理想を掲げた以上、「自分が大事だと思う一部の要因を見る」という、ある意味で安易な方法を取っている量的研究に比べて、さらに茨の道になることは目に見えている。だからこそ最後に柳瀬先生が「自分の実践を『ごまかす』ことは簡単。実践論文のクオリティを担保するのが今後の課題。」というようなことを仰ったのだとも思っている。




以上です。くり返しになりますが、今回の記事は、シンポジウムのまとめではなく、そこから感じた自分の実践←→研究観や、量的←→質的研究の見方、みたいなものを雑記したものです。あまり共感的でない書き方をしている部分もあるかもしれませんが、それはその方自身に対してネガティブなイメージを持っているということでは決してなく、それをみる僕自身のスタンスを無意識的に反映するものだとお考え下さい。
それではっ!

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