さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

「現代アートとしてのきゃりーぱみゅぱみゅ」

行って来ました三文会。超面白いお話だった。


きゃりーぱみゅぱみゅが現在の日本を象徴している。現代アートの世界で欧米に対抗しうるものである、という主旨で、そのために現代アートの流れを概説。
現代アートは、作品それ自体を鑑賞するのではなく、「観念のプロレス」「コンセプトを遊ぶ」ものであるという言葉が印象的だった。
以下メモ書きを残しますが、正確性は欠いていると思って話半分にお願いします。


◯「何を美しいと思うか」という視座の形成
その形成において、宗教(及びそれに密接に関わっている生活習慣)が極めて重要な位置を占めている、という話から、キリスト教を理解することが現代アートを理解する上でも必要であるという。たとえば村上隆の「マイ・ロンサム・カウボーイ」という作品が16億円で落札されたが、あれを日本人的観点から「キモイ」なんて表する人もいるが、それはそういう視座を日本人が獲得しているだけで、あれ以上「日本的」なものを「世界に受け入れられる形で」提供できる人はいない、ということだった。


◯デザインーアートの区分
この区分は、「社会ー世界」の区分に対応しているとのこと。
「私-社会-世界」と三段階が有り、「社会」は混沌とした「世界」を整理したものであり、「分かったフリ」をするためのもの。
世界の混沌さをダイレクトに伝えるようなもの、すなわち「社会」の枠組みをぶっ壊すようなものが「アート」なのだという。
そして、鉄腕アトムという「アート」が原子力に対して夢や希望を抱かせ、それがその後の日本の原子力政策に反映されているだろう、という話から、アートにとって社会的インパクトが肝要であるとの話もあった。


◯アートの歴史
原初的なものを除けば、個人のためのアート(肖像画)、宗教のためのアート(宗教画)、そしてファインアート(アートのためのアート)、という流れがある。
1つのシーンを描くところから、例えばピカソのキュビズム的描き方のように、多面的・抽象的なものを描くアートがファインアートの主流になってくる。
というか、ピカソが写実的な絵を描くのがうますぎて、その分野で彼を凌ぐのは無理、ということになったみたい。
昔美術の授業かなにかで、カメラの登場が写実的な絵の限界を提示した、という話を聞いたけど、それに近いものがあるね。大体2つとも19世紀末〜20世紀くらいに現れたみたいだし。


そしてデュシャンの「泉」が出てくるわけですが、これは原題は英語でfountainという意味で、Google画像検索してみるとこんな感じ
泉というより、噴水みたいだよね?
便器自体が子宮にみえる、みたいな解釈とあいまって、性的なモチーフがあるのは確実だろう。
そうやってモチーフをこめるのも面白さだけど、なによりこの作品の偉大さは、「作家性の転換」にあったらしい。すなわち、「つくる」から「みつける」へ。一番アートとは無縁っぽい工業製品の中にもアート性をみつけることができるのだ、ということを示した作品であったことが、1つの画期であり、これを超える大転換は行われていないとのこと。
その後、ミニマリズム(「表現」は純粋芸術ではないとして、「何も描いていない」を描く)やらアクションペインティング(夢の世界に入り込むような世界を表現)などなど色々あって、
結局現代アートを観る時は、その裏にあるコンセプトをみないと面白くない、ということ。勉強しなくちゃなあ。
ただその勉強するにしても、キリスト教的価値観を共有している欧米が中心にあって、それ以外にはなかなか現代アートの中心は来ない(かつてはフランス、現在ではニューヨークが中心)てんで、結局欧米的なものを学ぶ必要がありそう。村上隆スーパーフラットということを言っているが、ハイカルチャー(中心)に対してローカルチャー(辺境:日本とか)がindigenousなものを売っていく構図自体をネタにしている。


◯ほんできゃりーぱみゅぱみゅ
やっときゃりーぱみゅぱみゅ。まず印象的だったのは、「『かわいい』はつまりビンボーってことです」って話。
これは、働いても豊かになれない→疲れる→癒しが必要→かわいい、という流れ。
ピンとこなかったけど、その反対の「かっこいい」には金がかかる、というのと対比するとなんとなくわかるかも。
たとえばしばしばLady Gagaときゃりーぱみゅぱみゅが対比されることがあるが、両者は真逆の存在。
「かっこいい」Lady Gagaは、「自我の強い女」であり、自分のやりたいことを周りに指示を出して1つの世界観を作り出している。また、「私こそが性だ」といわんばかりの強烈な性性(なんて言葉はなさそうだけど)を発している。
「かわいい」きゃりーぱみゅぱみゅは、「自我のない女」であり、周りの指示をすべて受け入れる柔軟性がある。また、「つけまつける」のPVをみても分かる通り、これだけ混沌とした世界を「かわいい」の1語でまとめているのは奇跡的だし、性的なものも「かわいい」のベールで覆っている。


こうした「かわいい」という日本発の概念が、世界で受け入れられつつあるこの現象は、上述の「キリスト教的世界観」を中心にしたアートの世界に対抗しうる1つの手立てかもしれない。と聞くとさっきのPVもなんだかすごいものに感じられる。笑
また、「かわいいとはどんなものか」を考える人には「かわいい」を作り出すことは難しく、今のきゃりーぱみゅぱみゅのように、「その人がやること・かわいいと思うこと」が「かわいい」になるような人でないと、先導することはできない、って指摘も。確かになあ。
この話を援用すると、「その人のやることこそが教育である」って言える人が「教育家」なのだろうか。それは違うか。笑


他にも、AKB48の本質は学芸会だからprofessionalismの浸透した欧米では受け入れられないだろう、とか、「わび・さび」「みやび」といった概念を現代の文脈で再現出来ればもう一度世界で戦えるかもだけど、日本は戦後「マインドレイプ」を受けたから難しいだろう、とか、色々面白い話が盛りだくさんだった。行ってよかったなあ。