さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

「道徳的に統制群は置けない」

 昨日の授業にて。


 昨日の授業は、「授業の事例研究」というもので、各班授業を分析し、それを全体に発表、議論する、というもの。うちの班は文科省が作った「高等学校版 新学習指導要領に対応した外国語活動及び外国語科の授業実践事例映像資料」なるものを使ってやるんですが、中には自分の実践を題材にする強者も。その人は、タイトルのような言葉を言っていました。
 その人は、授業をやって、途中でジグソー形式(生徒を小さな班に分け、各班に別々の資料を渡し、まず自班の資料について議論。その後2回目は、自班に1人残して班員はばらばらの班に行き、自分たちの資料について発表すると同時に、他の人から他の資料についての発表を聞く。3回目は自班に戻って聞いてきたことをシェアする)に変え、その効果を見る、というものでした。
 数クラス受け持っているから、ジグソー形式を採る授業(実験群)と採らない授業(統制群)に分けて効果を見る、なんてことができそうなもんだけど、それは「道徳的に」できない、とのことでした。
 これについて少し考えてみると、おそらくその人の中では、「ジグソー授業のほうがいい」という信念があるんだろう。「通常授業のほうがいい」と思っていたらわざわざジグソー形式を採る意味がない。
 では、「どちらが効果的かわからない」状況であるならばどうか。個人的には、その場合には「実験」をして差を見て以後より効果的だったほうで授業を進める、という方が「道徳的」なように思える。けれど、それすら拒否する人はいそう。「差を設けること自体が悪だ」という信念?


 今回のケースではきっと「ジグソーが効果的」という信念に基づいて、統制群は置かないことにしたんだと思う。でもじゃあこの信念ってどこから来たんだろう。直感?先行研究?自分の過去の被授業体験?授業体験?
そこを常に疑っていられる人になりたいけど、疑いすぎると一歩も動けないからバランスが難しそう、というお決まりの結論。笑


 でもこういう「教員の信念」って、多分授業形式よりはるかに大事で、例えば、


1.文法訳読形式の授業が最高と考える教員に、文法訳読授業をさせる
2.文法訳読形式の授業が最高と考える教員に、コミュニカティブな授業をさせる
3.コミュニカティブな授業が最高と考える教員に、文法訳読授業をさせる
4.コミュニカティブな授業が最高と考える教員に、コミュニカティブな授業をさせる


という4つの授業を行なったら、多分結果は、1と4が、2と3より上に来るんだろう(1と4のどっちが上かは教員による・生徒による・テストによる・授業内容による、エトセトラエトセトラ)。


 「信念」の持ち具合って、どの辺りがいいんですかね?よく分からなくなったからあまちゃん観て朝ご飯食べようっと。