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さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

人格の完成VS国家戦略?

 火曜4限はここしばらく学習指導要領の変遷についてのレクチャーを受けて、今回は戦後教育の変遷についてのビデオ。その後ディスカッション、という流れだったんだけど、色々とむつかしい。


 スプートニクショックを背景に日経連が「科学技術教育振興に関する建議書」を提出して理数教育の増進を図った、という話はそのまま現代の「グローバリゼーションを背景に経済同友会が『実用的な英語力を問う大学入試の実現を〜初等・中等教育の英語教育改革との接続と国際標準化〜』を提出して英語教育改革を図ってる」みたいな話と重なる気がする。
ここで気になるのが、当時の理数教育関係者はどういう反応をしたのかってこと。今の英語教育改革に対しては、「大学入試にTOEFL」の黒幕は経済同友会 - 希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ) - Yahoo!ブログを筆頭に非常な拒否反応を示している方も多いように思えるけど、当時もあったのかしら。あったとしたら、どういう論理で?誰か絶対調べてるからいずれ論文とか漁ってみたい。


 んでまあ教育内容はそれからずっと(というかそれ以前のいつの時代でもだけど)、その他社会情勢の制約を受けることになってきたようで、個人的にはそれは当たり前な気もしている。ただ同時に、「『人格の完成』という教育の目的がないがしろにされ、子どもが人格ではなく人材として、目的ではなく手段として扱われている!」というような批判も教育界内から根強いよう。
 ここでまず疑問なのは、「人格の形成」って、カリキュラムとは(ある程度)独立してなされるものじゃないの?ってこと。この人からは何も教わらなかったけど自分の人格形成に対する影響大きいよなって人もいれば、逆に塾の先生みたいにガンガン詰め込む(とされる)人にだって人格形成上の影響を受けることだってあるよね。
 それに国家戦略として立てる以上、マクロで見るしかないからどうしても子どもを「数」として扱わざるを得ないとも思う。ダメなのかなあ。ミクロな視点(=子どもを「人」として捉える)は、それこそ現場の先生にしか持てない視点なのではないかと思う。
というのも、人格云々はその個人を知って初めて言えることだろうから。保護者とか教員とか、とにかくその子どもを直接に知っている人じゃないとその子を個人として、手段でなく目的としては扱えないと思う。だってその子のことを知らなかったら、その子のことを属性のかたまりとしてしか扱えなくない?男の子で、こういう家庭・地域・学校で暮らしていて、云々かんぬん。その子を個人として知らなくても、こうこうこうすれば人格が完成されますなんて言われても、ただひたすらにアヤしくないか?笑


 これは見方を変えれば(そして厚かましいまでに大きな言い方をすれば)、「教育学の不備」とも言えるんじゃなかろうか。すなわち完成させるべき「人格」ってなんなのってことが共有されていない。現状、各先生が各先生なりの「人格の完成」を目指さざるを得ないと思うけど、全ての先生の実践を無条件に「正しい」と信じるのは、多分施政者としては間違いなんではないか(「信じてるから頑張ってね」ってどうなのよって話は、「これからの英語教育、これからの英語教師ー自立した学習者を育てる」@明治大学 - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!でもちらっと触れた)。
 「全ての先生は育成すべき『人格像』を正しく持っていて自律的に教育実践を行える」なんて、「全ての生徒に英語が必要だ」ってくらい無理のある話だと思うんだけど、なんだか前者は前提にされているような気がしないでもない。
 これは今日の3限の「教育政策と教育法」の授業でもちらっと触れられていた論点に思える。『教育法』を著した兼子仁は「教育的」という語をマジックワード的に用いているけど、彼はその語の定義を教育畑の人に任せているとのことだった。「教育的」ってことと「人格の完成」って、わりと近いところを言っている気がするんだけど、そうしたものに対するコンセンサスが取れていないことが、いまいち「人格の完成」という反論がピンとこない原因な気がする。や、コンセンサスを取ることは不可能なのかもしれないし、ピンときてないのは自分の不勉強・不見識って可能性は大いにあるけど。


 書けば書くほど、まとまっていないことが露呈してしまうばかりで時間だけ過ぎてゆく。今後また考えが変わったら随時修正していこうと思うので、何かコメント等ありましたらお願いします。

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