さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

「マイケル・サンデルのコミュニタリアン共和主義」

森村進,2012,「マイケル・サンデルコミュニタリアン共和主義」『一橋法学』11(2): 1–41.

読んでみました。


 「リバタリアンの立場からサンデルの議論を検討(p.400)」とあるように、リバタリアニズムコミュニタリアニズムという構図で議論が展開していきます。もっと細かく言うなら前者は狭義のリベラリズム、後者はコミュニタリアンな共和主義、と言えるみたい。
 前半はサンデルの著書である『民主政の不満』(「アメリカ研究者でなく、そして時間が有り余っていない読者は、第1章と結論、それに訳者の『要約』・『解説』と『付録』を読めば足りる。(p.404)」とのことw)と『公共哲学』を取り上げ、その議論を追いながら批判を加えていきますが、そもそもコミュニタリアニズムって?共同体志向ってこと?とよくわかっていないので、関連しそうなところを抜書き。

サンデルは公機関に対して道徳的中立性を要求するリベラリズム(個人主義的自由主義)に反対して、〈政治は人間の「徳」を促進すべきだ〉と考えると同時に、〈人間はローカルなコミュニティ(地域共同体)の中でこそ望ましい生き方ができる〉とも考える。この二つの主張のうち、前者は「徳の倫理」、後者は「コミュニタリアニズム」と呼ぶことができる。(p.405)

うーん難しい。両者のバランス…とか言い始めると「中途半端だ!」とどちらからも批判されるんだろうなあ。

サンデルは、共和主義は強制的であるという批判に対して、〈全員一致を想定するルソーの統一的な共和主義ではそういった危険があるかもしれないが、トクヴィルがアメリカの公共生活の中に見出した多元主義的な共和国ではその心配がない〉と答える(中略)しかし人々が求める「善」の中には公共善だけでなく、個々人の間で異質なもの、それどころかしばしば衝突するものがあるという現実を直視しなければならない。社会道徳は何よりもまず、その事実から生ずる人々の間の対立と衝突を解決して社会に平和と繁栄をもたらすための手段であるべきである。共和主義者を含むコミュニタリアンは、あたかもあらゆる価値が「公共善」あるいはコミュニティの価値に帰着するかのように説くのが常だが、それは諸個人が多様で別個の人格だという事実を無視している。人間にとっての「善」の中には、相互に無関係だったり(個人的幸福)、それどころか対立したりするもの(有限な資源)も多い。この顕著な事実を無視することがコミュニタリアニズムの通弊である。(p.407)

まあそりゃそうだよなーと思ったりもする。

サンデルはリベラリズムが個々人の私的な決定に委ねようとする領域の多くを公共的な「自己統治」の対象にしようとするのだが、その「公共」の中に自由市場は含まれない。サンデルが考える公共性とは、市場経済や営利活動と対立するものである。(p.417)

しかしここで疑問として挙げられたのが、実際問題どうやって意思決定するの?という問題である。コミュニティコミュニティ言うけど結局事実上多数決しかなくね?ということみたいです(pp.418-419)。


 また、「正」と「善」はリベラリズムにおいては区別されており、前者が正=正義=従うべき義務をもつもの、であり、後者は「徳」など、その価値を否定はしないが持つも持たぬも人の勝手だよね的扱いがされている。
サンデルはコミュニタリアンなので、「コミュニティの判断や決定に服しない不可侵の私的領域を認めようという発想がない(p.419)」とのことで、善をすなわち正としているのかも。


 また、コミュニティへの帰属に関して、「自分が属するコミュニティが共有している価値に無関心だったり反対したりする人々がいれば彼らの判断を尊重して、コミュニティの意思決定に服さない自由も尊重すべきだ、と個人主義者は考えるのだが、コミュニタリアンはそう考えない。(p.420)」とあり、
そう考えない理由としては、「個人の善は、その人のアイデンティティを構成するコミュニティによって規定されているのだから、そのメンバーをコミュニティの決定に服させることは、一見本人の意に反しているような場合でも、その人の真の善と目的に貢献する(p.420)」というパターナリズム的なものと、「悪いコミュニティの場合は例外だが、コミュニティへの帰属と積極的参加はそれ自体として人間の徳性の向上に不可欠の要素だから、それを拒絶するという自由は認められていない(p.421)」というモラリズム的なものの2つがあるようだ。


 さらに、自我形成に関してもリバタリアニズムコミュニタリアニズムの間には差異があり、それは、前者が個人の内的な信念や価値観を重視するのに対し、後者がコミュニティの一員としての地位を重視している点だという。ここでの「コミュニティ」とは、自分の意思で参加するものというよりは、ある民族とか家族関係とか、そうした「逃れられない」コミュニティであるという。
 こうした個人の属性で色々説明しようとするのは社会学っぽいよなーとぼんやり思うけど、その属性には種類も重み付けも個人によって異なるのだから、あんまりそればっかり主張されても、というリバタリアニズム的発想にもうなずける。
 また、リバタリアニズムではこうした信念・コミュニティの「選択の自由」を推す論者もいるが、筆者はそれにも否定的である。

各人の価値観や信念や「アイデンティティ」が尊重されるだと(原文ママ)したら、その理由は、それらがすべて内在的に価値が有るものだからではなく(中略)、かといって本人が選択したものだからでもなくて(中略)、それが本人にとって捨てがたい大切なものだからである。(pp.429-430)

社会通念とある人の価値観が食い違ったとして、その価値観自体の良し悪しを議論するのも、選択の自由を認めてむやみに尊重するのもうまくなくて、「それがどんなにかその人にとって大切か」をみた方がいいのかなあ。
と思ってしばらく読み進めていたら、以下のような言及があった。

自らの信仰に基づいて特定の公的義務の免除を求める人は、その宗教の正しさに訴えかけるのではなくて、自分にとってその信仰が不可欠のものだという事実(それが事実だとして)を論拠とすべきである。(p.437)

(それが事実だとして)って辺りには「それって事実なんですかね?」という皮肉が透けている気がするんだけどどうなんでしょ。


その他、サンデルのリベラリズム批判がロールズ批判に限定されている、ということでロールズ以外の様々なリベラリズムに触れられていたものの、正直よく分からなかったので流し読み。多分疲れてきたんだと思う。笑


一番最後。「中立的リベラリズムの正統はリバタリアニズムであって、現代アメリカの意味でのリベラリズムコミュニタリアンな発想を無意識にもせよ取り入れた不純なものにとどまる。(p437)」と手厳しい。


早速「リベラリズム リバタリアニズム」でググってみたところ、Wikipediaリバタリアニズム」に以下のような説明がありました。

個人の自由を尊重する立場としては、元来「リベラリズム」という用語が存在するが、この語は社会的公正を志向するがゆえに政府による富の再分配(所得再分配)によって平等を実現しようとする社会主義〜社会民主主義的、あるいは福祉国家的な文脈で使われるようになった。そのように語意の変化した概念と区別し、本来の自由主義を表す言葉として、リバタリアニズムという用語が使われるようになった。
現代のリベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げ、リバタリアニズムと相反する。例えばリベラリズムは、貧困者や弱者がその境遇ゆえの必要な知識の欠如、あるいは当人の責めに帰さない能力の欠損などによって、結果として自由な選択肢を喪失する事を防ぐために、政府による富の再分配や法的規制など一般社会への介入を肯定し、それにより実質的な平等を確保しようとする。しかし、リバタリアンは「徴税」によって富を再分配する行為は公権力による強制的な財産の没収であると主張する。曰く、ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンから税金をたっぷり取り、彼らが努力によって正当に得た報酬を人々へ(勝手に)分配することは、たとえその使い道が道義的に正しいものであったとしても、それは権利の侵害以外の何物でもなく、そうした行為は彼らの意思によって行われなければならない。すなわち、貧困者への救済は国家の強制ではなく自発的な寄付によってのみ行われるべきだと主張する。

てーことで、理念としてはリバタリアニズムいいなあと思うけど、実際社会を回すためにはそれだけで大丈夫なの?と思った次第です。
あと、最近教育分野でホットな(のかなあ)「新自由主義」に関しても今度調べてみようっと。しかしまったく関係ないのにかなり長い時間かけて論文読んで日記書いてしまった。んまー一応マストなことに関してはGWかけてわりかし消化できたはできたんだけど。