さんだーさんだ!(ブログ版)

旧「◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!」 - 大学院を終え、2015年度より中高英語教員になりました。

ツッコミ力と教育研究と誠実であるということ

 授業で講読文献の発表を一緒にやることになったその人は臨床心理士志望で、こっちは教員志望で、お互いあんまりちゃんと文献読んできてなかったから発表準備の話し合いも大して進まなくて、後半はずっと、正直研究って将来にどうつながってくるのかね?的な話をしてた。
 その時、もちろん究極的には色々勉強して研究するのって楽しいから今ここにいるんだよね的結論になるんだけど、意義付けを強いてするのであれば、様々な知識を得ることで同じ間違いを犯さないで済むんじゃないか、と指摘された。それこそ「歴史に学ぶ」的なね(ただ歴史的な話だとその成果も文献から読み取らざるを得ず、どこまで現代に応用されるものなのか分かりづらい気もするのだけど)。
 それと微妙にかぶる話で、この前朝日新聞に『統計学が最強の学問である』関連で西内さんのインタビューが載ってて、「天才ならば気付くことの半分程度は、統計分析でわかりますよ。」という言葉(4/17朝刊19面)に「おぉー!」って思った。現場の教員として何十年かけてやっと気付くことが、研究成果としてまとまっているのなら、こんなに美味しい場所は他にないよね。


 今色々勉強しているのは「研究法」が主で、いわば道具手入れして試合に出てない補欠的な場所にいるんだけど、このまま大して研究せず現場に出るとしても、色々な「切り口」が手に入るのは有用なんだと思う。そこで思い出すのは、以下のような島田紳助の言葉。

島田紳助が昔テレビ番組で、「他人のボケを活かすためには、瞬時に最低5通り程度のツッミまたはノリのパターンを考えて、その中から一番面白いものを選んで突っ込んでいかなければあかん。ツッコミ方が1パターンしか思い浮かばない様では面白いツッコミなんか程遠い」と言っ様な事をレクチャーしていました
(「コントと漫才の違い」から引用)


 教育現場においてある場面に遭遇した時に、その時の直感で最善の対処を選べるようにいずれはなっていくんだろうけど、とてもそれが最善か自信を持てる気はしない。だけど、色々な切り口を知っていれば色々な対応策が浮かんで、その中から「比較的良さげな」手を選べるようになるんじゃないかと期待している。そしてそれがいずれ最善手に近似されていく、みたいな?まだ全然わからないけどw


 それに関連するかしないか、帰り道同じコースの人と話していて、その人は教育現場において実験を行うことに抵抗感があるみたいでした。「お金もらって教えている以上、最善の教育をしたい。実験をして被験者扱いしたくない」とのこと。
 本当にこうした職業的な誠実さは大事だと思う。けれど同時に、自分にはその「最善の教育」をアプリオリに(使い方合ってる?笑)知っていると言える自信が全くない。おそらく直感かあとは権威的なものに頼って自身の実践の正当性を保つ人が多いのだと思うけど、なんだかどちらにも抵抗感あるわあ。笑


 そこである種の「実験」ができれば、どちらがよいかなんとなく手探りながら確認できるのかなと。もちろん「いいと思ってる教え方と全然よくないと思ってる教え方」を比較するのは論外だけど、「どちらがいいかわかっていない方法」でやるのは、そんなに倫理的に問題あるとは思わないんだけど、その辺どうなってるんだろう。
 というか、そもそも実験でそんな大きな差を生めるとは思わないし、じゃあなんで実験すんのって言われたらそれでも少しでもやった方が前進すると思うからって答えるしかないのかなあと。ああもっともっとこの辺の理屈とか経験とか積みたい。


 下手な一般化は危険と思いつつ、ある分野やら世界やらを知らない時のほうがそのインパクトを過大評価しがちで、いざ入ってみるとやっぱり大したことないと打ちひしがれてくんだと思う。
 計量的な分析とか「実験」とかもそうだし、例えば英語教育だって、自分はまだ実践経験がほとんどないから「何ができるんだろう、ワクワク」って思ってるし、例えば教えたことない人は 「ちゃんと教えればもっと英語できるようになるはずだろ日本の英語教師/教師はクソか!」とか言いがちだし、他にもきっと色々あるよね。でかいサークルでも中入ってみたら大したことないとか、結婚したらひどい女だったとか。笑


 自分の中で、色々がぼやぼやとつながってきてる感はあるけどでも整理しきれてないこの感じをM1感と名付けるのは、そう外れていないんじゃないか、なんて思う今日この頃。

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