- 作者: 苅谷剛彦
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/01
- メディア: 新書
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読み終わりました。今月から就職してしまった友だちから借りたままだったので、いつ返せるんだろう…汗
「あとがき」にて「ミクロとマクロの視点の違い」と「『べき論』と『である論』のすれ違い」について書かれていることにすごく共感したのでメモ書き。
子どもたちが「自ら学び、自ら考える力」を育てたい、育てるべきだ、といった主張は間違っていない。そうした教育を目指すべきことについても、異論を挟むことはむずかしいだろう。しかし、どうすれば、それが巨大な学校制度全体で、しかも法的拘束力をもって一斉に取り組まれる実践として実現し、可能になるのか。教育の実態をみる「である論」をふまえて考えてみなければ、あるべき姿に届かないまま、理想が理想として空転してしまうことが多いのである。
しかも、優れた実践例をもとに「べき論」が語られる場合に、その善意は、なるほど一つの現実をふまえているだけに、説得力を持つ。だが、どうしてほかの教師や教室、ほかの学校やほかの地域では、そうした優れた実践ができないのか、それを可能にするためには、どのような条件が必要なのか。こういう制度レベルの話に届かないまま、「べき論」として語られることが多いのである。(p.217)
自分は以前書いた記事(「これからの英語教育、これからの英語教師ー自立した学習者を育てる」@明治大学)に、
でもそういう個別的なミクロな場(っていう言い方合ってるかな?)と、政策決定というマクロな場では話が別なんじゃないか、とも思う。
つまり現場には色々な生徒がいて、色々な先生がいて、能力ある人もない人も、熱意ある人もない人もいる。
教員がみな熱意あって能力あるべきだというのは当然だけど、現実にはそうではない。
そうした人たちに「信じてるから、英語で授業してね」というのは一種暴力的だとも思える。だって反論しようがないもの。熱意がないのはあなたが悪い。能力がないのはあなたが悪い。そらごもっとも。
なあんて書いていたけど、まさにその話につながるところだと思った(ので共感した)。
あとさらにむつかしいなあって思うのは、自分は全力で「能力ある」教員になってやろうと思ってるけれど、同時にそういう人が制度批判すると「いやお前はできてるからいいじゃん。やっぱみんなできるように努力すべきっしょ」って言われるだろうし、同じ批判を「能力ない」人がすると、「負け犬の遠吠え乙www」なんて感じになりはしないか。
となるとつまり、批判の資格を持つことが批判の意義を失わせる、なんてヘンな事態になったりはしないか。
この辺りは本当によく分からない。大体の仕事は「仕事は仕事。仕事が否定されたからといって、人格が否定されたわけじゃない」と言われるだろうが、教員はわりと「全人格を賭けて子どもに対峙する」的な仕事だから、仕事が失敗と認定されることはすなわち人格の否定につながりやすい、とどこかで読んだ。
だから、教員の先生方はお互いの「仕事」を容易には批判できないんだろう。「あれはあの先生のやり方だから」。
本書後半では、「子ども中心主義」やそれと親和的な理論である「構成主義」に対してツッコミが入れられていて、これも非常に面白く読みました。
前半の「ゆとり教育」の成果、的な部分を飛ばし読みしてしまったのでもう一度読んでみようっと。