さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

英語は難しい、英語ができないのは教養がない

20分で書いてみようシリーズ(そして今回も、とても20分じゃ書き終わらなかったシリーズ)。

 今日はゼミの先生の先生がゼミにいらして、講演でした。非常に面白かった!翻訳も数多くされている先生の、業界ウラ話的な話は、具体名が豊富で、ちっともそれらの名前がわからなかったものの面白かったし、なによりその先生はもう80歳を越えていらっしゃるのに本当にお元気で、自分がやってきたことを楽しそうにお話になり、こういう年のとり方をしていきたいなあと思いました。
 あと、やっぱり精読、というか一語一語意味を確かめながらじっくり読んでいくのは面白いなあとも思った。

 ただ同時に気になる話もあったので、メモ。

 講演の中で、英文精読の功罪の罪として「英語が読めない人をバカにしがち」的な話があった。ある部分を正確に読む力と、その作品を正確に読む力、さらにその作品自体を文学史・作家史などの大きな流れに位置づける力は別物だということで、精読ができていないからといってバカにするのはよくないよね、と。

 英語ができる人ほど「できる」のハードルが高い気がする。「英語ができる自分」を高く評価していないフリをして謙遜するためには、「私はまだまだ英語ができない」と言うか、「英語は難しくない」と言うかのどちらかだけど、どうも後者は言いたくないみたいで、でも前者も不健康だよなあ。そんなん言い始めたら「英語ができる人」なんていないんだろうけど、それでもやっぱり根底では「英語ができること」に価値を置いて、「英語ができること」を諦めていないから、「できることはスゴい」が論理的に間違って「できないのはバカだ」みたいな意識に転換されてしまいがちなのかなあ。
 「どんな英語ができる人でも誤訳をする」という事実は、英語学習者をhumbleに(悪く言えば、萎縮)させるにも、ミスを恐れずどんどん英語を使っていこうとモチベートするにも使われうるから、それこそコンテクストを考えなくちゃいけない。

 そして「英語を読むのは難しい」という意識と「英語が読めない人はバカだ」という意識が合わさると、結局「難しいことが(比較的)できる自分」を特権的な位置に置いているだけな気がして、当初の目的だった謙遜に成功していないようにみえる。こういう意識は自分自身に向かう分には結構だけど、他者に向かう、とくに教員の場合は生徒に向かうと、いやだなあと思う。難しいなら多くの人はそれができないわけで、それをバカと考えるのは、うーん。

 話の中で、ビジネス畑で有名な人で、「僕は英語できないけど年何回かアメリカに講演行ってるよ」という人がいて、その人の英語を聞いたら"I'm interesting in American business."とか言ってたとのこと。それを聞いて講演者の先生は「そんなこと言うなんてバカじゃないか」と思ったとおっしゃっていたけど、それでもその「バカ」な人が年何度も講演に呼ばれてる現実を考えれば、「正確な英語」が求められていない場所も多々ありそうで、じゃあそれでもなお「正確な英語」を求める理由を、もっと強く押し出していった方がいいのではないか。「だって英語は正確に話したいでしょ」程度なら、「だって英語は不正確でも人とコミュニケーション取りたいでしょ」と同じだろうし、世間の流れはどちらかと言えば後者っぽいし。
 これも『どのような教育が「よい」教育か』読了 - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!にある「問い方のマジック」な気がして、精読かコミュニケーションか*1、ではなく、どんな場面には精読、どんな場面にはコミュニケーションが必要で、じゃあ(公)教育においてはどんな英語教育が求められているのか、ということを議論していくべきなように思える。


 改めて、自分のやってきたことは、自分がそれに価値を置くからやってきたわけで、その点において劣る人を正確に評価するのは難しいんだなあと思わされる。たとえば自分は英語が好きでそこそこ勉強してきて英語の先生になるつもりだから、やっぱり英語ができる生徒を英語全然だけど他の分野ですげー才能ある生徒より高く評価するかもしれないし、話せた方がいいなーとも思ってるから、多少文法雑でもガンガン話す生徒を、話すの苦手だけどしっかり考えて正確な文章書く生徒より高く評価するかもしれない。もちろん成績つける時にはそれでいいけど、それが全てではないという当たり前すぎることを常に忘れないようにいたいよね。
 自分が今できることをできない人をみたときにも、「自分だってもっとできる人からみたら全然だから頑張らなくちゃな」と自責に向かう分にはまあ1人で頑張ってって感じでいいけど、「何こいつこんなんもできないの」って他責に向かうなら気持ち悪いよね。ただもちろん、その場に求められてる最低限の能力、的なものはある気がするけど。

 以上つとめて他人事みたいに書いてきたけど、最近自分もなんかその気(け)があるような気(き)がして、全然できないくせに自分気持ち悪いなって思ったりしてるわけです。なんだかなあ。

*1:この置き方自体もアレだけど。