さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『「ダメな教師」の見分け方』読了

「ダメな教師」の見分け方     ちくま新書 (547)

「ダメな教師」の見分け方 ちくま新書 (547)

トイレ読書だん。

ふんだんに引用しながら書いてたけど間違って消しちゃった*1から、復元は諦めます。笑
(あんまり面白い本ではなかったからなおさら、40分もまた打ち込む気にはならないよね!)

筆者は私立・公立の高校教員から校長になって、現在は教育アナリストとして活動されているそうです。

一番最後の部分に筆者の主張が凝縮されているように思えたので、そこだけ引用しておきます。

「権力の上に眠るものは、その権利の保護に値しない」という言葉があるが、学校利用者も、こと学校教育に関するかぎり「お客」としてはむろん、「主人」としての権利を行使する必要があります。学校のマニュフェスト作りや教師の評価制度に関わることを通じて、児童生徒や保護者や地域住民の学校に対する姿勢や態度は変わってきます。児童生徒や保護者に強い責任感が生まれ、「学校からの逃走」どころか、学校に深く関わるようになります。つまり他人事ではなく、当事者意識と当事者責任が強くなってきます。
 これには、文部科学省、教委はもとより、学校側・教師側が姿勢を低くする必要があります。とくに、学校側・教師側はただでさえ「人質をとって」優位にあるのだから、高い姿勢で保護者を見下すのではなく、むしろ保護者や地域住民が対等な立場になれるように、積極的に「先生選び」のシステムの構築に協力する姿勢がほしいものです。
 行政につながる公立学校は権力の末端期間です。従来のお役所体質ではなく、国民への教育サービスの機関であるという認識を持つことの重要性がここにあります。(中略)
 議会民主制の欠陥を補うために直接民意を聞く住民投票やイニシャティブ、リコールなどの制度があるが、地域に根ざした学校のような場合、こうした直接民主制のように成員や利害関係者の意思が直接反映するほうが自然ではないでしょうか。さもないと学校内は教師の論理で何事も進んでいきます。国民が教師を評価し選ぶことができて初めて、言葉の正しい意味で、国民が教育の主人公になることができるのです。そして学校は地域住民のものになるし、文字通り「学校の主人公は子どもと保護者だ」と言えるようになるのだと思います。(pp. 297-8)

本書の主張は、ホントこれに尽きてると思います。教員組合の悪影響を受けた教師はひとりよがりで、子どもを「人質」にとっており、「組織原則や簡単な法制上の知識すら必ずしも十分でなく、本部の指令に忠実に従い結果として教員組合の独善的な法令解釈や慣例に振り回される原因にもなっている。少し啓蒙しておく必要がある(p. 94)」とか、「公共財として学校にわれわれの税金をじゃぶじゃぶ投入する以上、義務教育ぐらいみんな均等に「安くてよい教育サービス」を提供してくれなくては困ります」とか。
ちなみにこの「じゃぶじゃぶ」なんて感情的な印象操作には注意しなくちゃいけないけど、
この点に関しては文科省財務省の対立が非常に面白い*2
文科省教育財政のポイント(pdf)
財務省文教・科学技術関係資料(平成24年11月、財務省主計局) - ◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!


勤務中から酒を飲むような教師もいるのです。むろん、多数派ではないが、さりとて例外中の例外というわけでもないところに、学校教師のかかえる病根の深さが垣間見えます。(p. 169)

「例外中の例外というわけでもない」って表現はすごい絶妙だよなあ。「勤務中から酒を飲む教師」は、全ての学校種・学校段階に均等に分布しているのか。

いままでは、制度的にも何かにつけ児童生徒のほうを競争させてきました。そして学校と教師側は、行政による護送船団方式と教員組合によってしっかり守られてきました。児童生徒に適性な競争をさせることを否定する者ではありません。競争は進歩の母だから、過剰にならない競争は不可欠です。だからこそ今度は、競争がなく停滞している教師側にも競争してもらう番です。教師への下からの評価は、競争の第一歩なのです。(p. 202)

ちなみにこの「下から」というのは生徒や保護者から、という意味ですが、特に上下・優劣を意味してはいないと注釈がありました。

名門校は、優秀な生徒と自覚にもえる一部の教師の存在のおかげで、名門校であり続けているのです。したがって、「生徒はほうっておいても自分でやる」といって十分な学習指導もしないで手をこまねいているような教師は、努力している優秀な生徒と意欲的に優れた学習指導をしている一部の教師ならびに学校外教育機会に、おんぶにダッコしているだけのフリーライダー(ただ乗り)なのです。(p. 207)

開成や灘など難関系中高一貫校に入れば東大など難関大学に入れるというのは、神話ではなく成果として信じることが可能です。あれだけ文句なしの合格実績を毎年積み重ねていれば、いかに資質のよい生徒を集めているにしろ、やはりその学校システムや教師の指導力など六年間の総合的な教育力の賜物だといえるでしょう。(p. 270)

「名門校」にはフリーライダーがいるけど、「難関系中高一貫校」にはいない、って言うのなら間違いではないか。「六年間の総合的な教育力の賜物」なのかは分からないかと!笑(ただ人間関係とか環境的なものも含めて「教育力」ならまた話は別。)

 小学校の児童会や中高校の生徒会の役員も、会長はほとんどが男子で、女子はたいてい副なのはどういうわけかと疑問をもつ人もいるのではないか。これは教師の意識の反映なのです。児童会や生徒会を指導する教師が、やはり「長は男子で、女子は副」のほうがよいと密かに思っている。児童生徒は敏感で、教師の心中を忖度します。なかには会長に当選しそうな女子に、副にまわって立候補することを露骨に「指導」する教師も珍しくなかった。地方都市に行けば、この傾向は今もあまり変わりません(p. 222)

この辺絶対教育社会学でやられてるテーマのはずだよなあ。
教員の意識が明示的にろ暗示的にしろ伝わって、というのもありそうだけど、「会長になること」が、男子のもつ人間関係ネットワークと、女子のもつ人間関係ネットワーク上では違った意味を持っているのでは、とも思う。


そんなわけで、分量半分くらいになってしまいましたが以上です。

次のトイレ読書は、評価がらみでこちら。

学校評価―情報共有のデザインとツール

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ほなね!(関西弁での日常会話ができるようになりたい…!!)

*1:はてなブログの自動保存を信頼したのが間違いだった!

*2:とばかり言ってられる問題でもない