さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

英語教育研究、2つの「室」

「教室」と「実験室」のどちらに軸足を置くかが難しいよね、という話。

(完全に余談だけど、高校時代のゼミで自分は国語を選択して、星新一のショートショートの初出とその後の再録版を比較して、著者の細かな変更を抽出して解釈する、ということをやったことがあるのだけど、そこで星新一は「室」という単語を「部屋」という単語に変えていた。時代によって色褪せない作品を作ろうとする彼の努力が見て取れて、とても面白かったなあということを覚えている。)


一昨日M1同士で修論構想発表会をしたのだけど、我ながらひどいなあという発表で落ち込んでいました。
自分は英語非母語話者だから、英語で話す時に色々な誤りが出て、それが将来教壇に立った時に生徒にどんな影響を与えるんだろう、悪影響を与えるとしたら嫌だなあ、という素朴な疑問/不安から考え始めたんだけど、自分の「英語力」(便宜的に、母語話者のそれを高いものとして、英語を学習することでそれに近づいていくことを英語教育の目標の一つとする)が、生徒に影響を与える要因の中で最も大きいもの(の1つ)である、というの自体が自分のbeliefに過ぎないんだろうと思いました。もちろんこのbeliefはそれなりに正しいとは思う(英語まったく分からない人はさすがに教えられないよね)ものの、それこそが最大の要因なんだ!と思っていたような節があって、それこそまさに"Native Speaker Fallacy"でしょ、と反省。

そんな折、英語力と英語教育力の「関連ある/なし」 - こにしき(言葉、日本社会、教育)を読んで、「英語力」と「英語教育力」の関連を、自分はどういう風に考えているんだろう、と改めて考えてみた。
この記事は、母集団を「全人類」と想定しているが、自分が興味あるのは「英語教員」で、当然「英語教員」は「全人類」に比べ「英語力」は高いので、じゃあこの散布図を「英語教員」を母集団にしていると読み替えたらどの図が近いのかな、と想像した時に、多分「直線的関連(ただし個人差が大きい)」のような図なんじゃないかなあ、と思った。
そして同時に、これが実証されたら、「TOEIC◯◯点(英検◯級)も取れない教師なんて!」という、人によって様々な「俗説」にひと通りのケリが着くし、教員採用の際の目安にもなる(かならないか決められる)のかもとは思うけど、実証は無理(「英語力」「英語教育力」の測定て…)だろう。


やっとタイトルの「室」に移るけど、ある1つの(もしくは少数の)要因の影響をみたいなら、「実験室」に入って厳密に他の要因を統制してやらなければならないし、そこで測定されていない他の要因との関連を見ていないのだから、それがその他多種多様な要因を背負った「教室」にそのまま役立つものとは言えないだろう。
反対に「教室」に寄った研究をしたいのなら、全ての要因を考えることが不可能だと知りつつもそこに挑戦していかなければならない辛さがあるように思える。勘違いかもしれない。

いずれにせよ、見ることができる要因・説明変数は有限であり、その選択は恣意的に過ぎない。だからこそ、その要因を見る理由・他の要因を見ない理由を明言しなくちゃならないんじゃないかな、と。
ただこの「要因間の大小」を見通すのはすんげー大変そう。そこで先行研究とか理論に依るのか、現場の感覚に依るのかでも色々違いが出そうな気はしている。勘違いかもしれない。


だとしたら、自分は次にどこを目指していくべきなんだろう。
なんとなく、将来教員になりたいんだから「教室」に寄った研究をしておきたい気がしている。たくさん現場を見てみたい、なんならコネも作っておきたい(笑)、みたいな。
あと、自分が持っていた「英語力」と「英語教育力」のbeliefについて、現場の先生方の意識を調査して、それと実践の関係をみてみる、なんてのも面白いかもしれない。
Making sense of language teaching: teachers' principles and classroom practices」辺りは先行研究になりそうね。

というわけで、明後日の発表(EASOLA: Education, Anthropology, and Sociology of Language: 第26回例会(9/14土))の準備を頑張るぞー。