さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

『近代政治哲学』読了

『近代政治哲学』読了しました。

最近参加している↓の勉強会でオススメされた。
thunder0512.hatenablog.com
いやはや,面白かった。
勉強会でも出てきたホッブズ・ルソーの話がさらに詳しめに出てきている上,
その他の思想家に関しても詳しく書かれている。
あと,著者がイケメン。笑

第一章では封建国家の話になり,日本と違ってヨーロッパの場合、封臣は複数の封主,さらには海外の封主なんかとも契約可能だった,ということが書いてある。
そうなると国土というものは存在しないよね,というのも納得で,つまり国内社会と国際社会という区分けが存在しない。
さらに考えを進めると,つまりそれは国を統治するためのルールづくり=立法権という概念がないということ。各封主は個別の契約にしか縛られない。なるほどねー。国家において主権は対外的には戦争する権利として,対内的には立法権として現れる。ふむふむ。

それでこの本の面白いところは,各章が政治哲学上の概念の展開を追体験できる構成になっていること。
第一章で主権概念の成立をみた後,第二章でホッブズの社会契約論を出しながら,「自然状態」「自然権」という考え方の発生をみる。さらにスピノザによる批判と展開,ロックによる社会的啓蒙,ルソーによる精緻化とヒュームによる批判,そしてカントで締める。
特に「自然状態」が何を指すかに関する齟齬の指摘なんかは面白かった(p.147)。

ルソー 自然状態−フィクションとしての平和な地上・善良な自然人 社会状態−堕落した文明・利己的な人間 国家状態−社会契約による国家成立・所有制度の確立
ホッブズ 【考察なし】 自然状態−潜在性としての戦争状態 社会状態−絶対服従
スピノザ 【考察なし】 自然状態−潜在性としての社会の常態 社会状態−利益考慮による法の遵守
ロック 【考察なし】 【考察なし】 自然状態−現状肯定のイデオロギーとしての所有制度と家族制度が存在

つまりロックが自然状態と名状しているものが,ホッブズスピノザにおいては社会と呼ばれるし,それはルソーに言わせれば国家である,ということ。なるほどねー。

こんな感じで,政治哲学がどう構想されてしてきたかをザザッとみられて,とても楽しい読書だった。次はこれを年末年始に読もうね。

数学ガール/乱択アルゴリズム (数学ガールシリーズ 4)

数学ガール/乱択アルゴリズム (数学ガールシリーズ 4)

挑む ニッポンの教育

ニッポンの教育〜挑む 第二部
年の瀬に,観てきました。阿佐ヶ谷でロードショー。ユジク阿佐ヶ谷*1
1/12,13は菊池先生本人が終演後トークショーらしい!

以前プロフェッショナルで取り上げられていて菊池先生の実践は知っていたけれど,改めて「ほめ言葉のシャワー*2」や「価値語*3」の実践の効果を知る。
ほめ言葉のシャワーは保育園でも実践されていて,幼保→小→中とたしかに言葉が豊かになっていく様子もわかった。

…ただ同時になんかこの実践に対してモヤモヤを感じている自分もいて,整理がついていない感じ。

たとえばピンと挙手した小3の生徒に対して「手がきれいに伸びているね。素晴らしいね」という風に褒めているが,モヤモヤポイントは以下の2つかなー。

  1. 自分はそれが本当に素晴らしいとは(まだ?)思えない
  2. 本当に素晴らしいと思えないままで褒めるのは教育的かもしれないけど自然ではないし本意ではない気がする

ただしここに関しては,作中でも菊池先生は,「(手をピンと挙げるのは)全国の小4の条件らしいんだ」などと生徒に語っており,「私がそれを素晴らしいと信じている」というよりは,「まあ社会的にそういうもんだからとりあえず従っといてね」的なメッセージを発する場面もあって,この辺りは↑のモヤモヤの解消につながるのかなと。

そうそう,このモヤモヤに似たものを以前感じたことがあった。プロフェッショナルで菊池先生の実践を見終えた教員関係でない友だちに,「先生って大変だね(苦笑)」みたいに言われたことがあったんだ。自分はその(苦笑)を,「教育的不自然」に向けられたものと解釈しているけれど,まさに今回のモヤモヤと重なる。

しかし菊池先生の実践に感服する場面も非常に多かった。たとえば教室の中で椅子に座って前を向いていられない男子生徒に対して,緊急避難的に校庭で国語の授業を展開したり,その後(授業中漫画ばかり読んでいるその子が文字の読み書きに強みがあるとおそらく見とって)漢字探しバトルなどで彼も巻き込んで授業展開していく様などは,すげえ!と思うばかり。

終演後トークショーもついていて,菊池先生と何冊か著作を出している,京都造形芸術大学副学長の本間先生もいらしていて,この人も魅力的な人だったけど,彼は「ほめ言葉のシャワーは高校でも使えます」と言っていた。ううむ,ううむ。

様々な意味で考えさせられるドキュメンタリーでした。いい年の瀬を迎えつつある。自分の部屋を掃除し終えたら,実家に帰って大掃除だ。

*1:孤独のグルメにも取り上げられたというハワイ料理屋にも行ってきた。美味しかったし面白かった!

*2:毎日の帰りの会で,クラスの1人について,他のクラスメイト全員が一言ずつ彼/彼女の良いところを褒める

*3:「『考え方や行動をプラスの方向に導く』価値ある数々の言葉」のことらしい。本もいくつか。 https://www.amazon.co.jp/dp/4907571224

教育×クラウドファンディング勉強会ー教育分野の強みとは?

先週,とある勉強会に参加してきた。教育×クラウドファンディング,というテーマ。
クラウドファンディングって最近よく聞くじゃないですか。
「インターネット(SNS)を活用して,プロジェクト資金を支援者から募る仕組み」ということらしい。

その詳しい仕組みや,どんなトレンドになっているかとかをまず見た上で,教育分野で活かすには?というテーマで雑談。

クラウドファンディング自体のやり方はこちらのページが詳しいので,概要はここで学べそう↓
CAMPFIRE ACADEMY | クラウドファンディングの教科書

金融型(金銭的リターン)/購入型(モノ・サービスのリターン)/寄付型(リターンなし)とあり,購入型が人気。
購入型でも,All-or-Nothingつまり目標額に届かなければ何も起こらないタイプと,All-Inつまり集まった分だけお金を使って事業を行うものがあり,これは後者が人気。
リターンの種類も様々で,エンタメ・プロダクト・社会貢献などなど。

面白かったのは,寄付者の1/3は起案者の知り合いで,残り1/3が知り合いの知り合い,最後の1/3がまったく知らない人,だそう。なるほどねー。

実際自分もクラウドファンディング - Makuake(マクアケ):サイバーエージェントグループなんかで新しげな日本酒買ったりしてたけど,裏側を知るとさらに面白い。


それで後半は教育分野では?的な話*1
この勉強会面白かったのは,「自分教育に全然興味ありません」って言う人がいて,その人のビジネス的な発想が非常に示唆的だった。
マーケット・インとプロダクト・アウト。社会が望むことにチューニングするか,自分がやりたいことをドカンと打ち出すか。教育分野の人って多分プロダクト志向が強くて,「こういう教育いいっすよね!」「うんうん!」的な,内輪での了解性が高い分,外の人≒マーケットが何を考えているのか置き去りにしがちな気がする。

最近の例で言うと,これなんか教育分野のロジックと外部の乖離の典型的な例だよね。

そういうところに,改めて「マーケット・インとプロダクト・アウト」みたいな「名付け」をすることで意識できることってあるよね。
最近自分の考え方が教育的枠組みにハマっているなーって思っていたんだけど,もしかすると枠組みを取っ払うのは新しい枠組みなのかも。
ちなみに,理想的にはチームの中にマーケット・イン志向の人とプロダクト・アウト志向の人がいて,両者がキリキリとせめぎ合って,両者ともに納得できるところに落とすのが一番いいんだそう。しっかりチームビルディングするのが大事だよなあ。


そういう教育に興味ない人が教育に投資するとしたらどういう時か?という質問に「友だちが関わっているときかな」との返答。「『新しい学校をつくりたい!』とかって,『そういう自分たちスゲー!』みたいな自己陶酔もあるでしょ。それは自分でやってください,って感じ。」…タハハ。
そこで重ねて質問したのが,子どもたち発信だったらどうか,ということ。それならちょっと応援したくなるかも。ウラで大人が糸を多少なり引いてるんだとしても。との返答。そっかそっか。

思うに,教育分野が他分野に優越してるのって,ひとえに子どもの存在なんじゃないか。最近部活の日曜練にも顔出して,OBの方々が来てくれている様子をみるけど,やっぱり生徒と直に触れ合えるってことが価値(というか,それを価値に感じてくれる人が参加してくれてる)って感じはするよね。
だから最近生徒と接する時は,「君たちこそが価値なんだよ」って気持ちを持っている。「若いってことはそれだけでいいことなんだ」とはまたちょっと違う気がするけど,まあおおかたそんな感じ。笑

同時に,子どもをどこまで社会・外部に「明け渡す」かってのが教員・学校の役目なんだろう。世の中には悪意を持って接してくる大人もいるんだろうし*2

たとえば現在うちの学校は校舎の建て替えを検討して寄付を募っているけれど,そこで学ぶ生徒の声がほとんど見えてこないことには正直疑問があるし,そこが見えてくればもっと寄付も集まるんじゃないかなーっていう気持ちもある。
その時に,毎年更新系の何かを用意するのもよさげ,ってのもこの会の学び。安価に毎年学校に関われるようになると,そこで実利を取るというよりは,「ファンを増やす」という点で非常に有効っぽい。



「子どもを外から守るのが学校の役目だ」←→「子どもを社会から守る必要はない,もっと明け渡せ」
どちらも正しい気がする。よいバランスは個人の中にはきっともはやなくて,その学校集団としての意思決定が問われているのだ。

15分日記,お疲れ様でした。
Online Timerここでタイマー書けてたんだけど,Time is up.の合図が学校的チャイムでちょっと笑う。

*1:15分でこのブログを書こうとしている。今7分30秒経過。いい感じ。

*2:って書いて思ったけど,そういう悪意に対して,僕,かなり脆弱じゃないか…??汗

学問的誠実さと教育的誠実さ

最近は夜な夜な教育の話をすることが多い*1
どういう風に子どもにアプローチするか,という話。難しいよねえ。

自分は曲がりなりにも教育社会学出身ということで,その子どもを属性の束として見ることが多い気がする。
他にも,たとえば英語の効果的な学習法について,大筋として理念としていることはあるけれど,「じゃあ今この瞬間に私は何をどう勉強したらいいですか」と言われると,途端に難しくなる。オススメの参考書なんかも,しっかり検討していないものに関しては「分からない」と言うしかないよなっていう場面もあったりする。
そういう姿勢は,きっと学問においては誠実と言ってよいのだと思う*2

それで,その晩の教育談義で気づいたことは,上記のような姿勢―属性の束として見たりとか,「分からない」と言ったりとか―が,「教育的に」誠実なのか疑問だ,ということ。

属性の束という話で分かりやすかったのが,たとえばE判定を取った生徒。その人を「E判定を取った人の集団の一員」としてみれば,合格率は多分10%以下とかで,志望校の変更を検討するレベルなはずだ。でもその10%以下の人の中に「目の前のその生徒」が入らないという保証も当然ない。最後まで頑張り抜いて逆転することができるかもしれないし,たとえ逆転できなかったとしても,志望校を変えなかったことがその生徒にとってプラスになる場面があるかもしれない。うん,教育的関わりっていうのはおそらく「その個人を見る」ことに強く結びついている。
その人が一番幸せになれる選択肢を見とって,そこに向かって後押しするのが「教育的」なんだろう。もちろん,どういう後押しかは本当に千差万別だ。「一番大事なところだから,人に預けるな」と突き放すのも手だし,「君はがんばれば絶対に出来る。志望校を落とすな」と勇気づけることもできる。「このまま行っても悲しい結果が待っているから,現実的な選択肢を模索し始めろ」だっていい*3
受験前の生徒はとても不安定で*4,誰かに力強く後押ししてもらうことが救いになることはとても多いように見える。これについては,さっき挙げた,英語の学習法についての話にも共通するところがある。言い切ること自体の強さはたしかにありそうで,「この人がこの勉強法がいいと言ったからいいはずだ」と,ある種宗教的な,呪術的な効能もあるんだと思う。「英語なんて言葉なんだ!こんなものやれば誰だってできるようになる!」的な。

両者ともに言えるのは,教育的な関わりとここで言うのは,目の前の個人にコミットする,ということなんだと思う。だからこそネット等で「これが絶対の勉強法!」みたいなのは胡散臭いし,それに合わない生徒がいた時に修正できないという点で不誠実とすら思うことがある。でも逆に自分が顔の見えている目の前のその人のために何かが言えるかというと,自分はまだまだ苦手だなあと思わされている。その個人のことをよく見とるのがそもそも難しいってのがまずあるし,その上みえたらじゃあコミットできるかというと,当然その人の人生に責任は取れないわけで,なかなか難しい場合もありそうだ。E判定の生徒に何を見れば,「志望校を落とすな。がんばれ」と言い切れるのだろうか。

と,ここまで書いて思った。教師→生徒の関係で前者が後者を見とってコミットするのはすごく大事だけれど,それより何より大事なのは,生徒→生徒自身の関係において前者が後者を見とってコミットすることなんじゃないか。「飢えた人に魚を渡すのではない。魚の釣り方を教えるのだ」的な話かもなー。

相変わらずまとまらないところでTime is up.モヤモヤと考えていきましょうね。

*1:楽しい。

*2:分からないことをメディアで断言し始めると学者はネットで叩かれる。

*3:ちなみに同じようなことは多分部活においてより根深くて,甲子園に向かって努力し続けたけれど怪我もあって高卒で働き始めた友だちがかつて,「高卒と大卒でこんなに待遇が違うと知らなかった。高校の頃は,部活に全力を尽くすのが良いことだと思ってたし周りの誰からも止められなかった。こういう現実を知っていたら。」的なことを言っていて,どういう関わりが彼にとって最善だったんだろうとか,部活を後押ししまくることが本当に教育的だったのだろうか,なんて思ってしまった。

*4:自分のことを思い出しても,なかなかだったよなあ。笑

最終授業

最後の授業を終えた。3年間お疲れ様でしたと言っただけの組から,長々と話をした組までまちまちだった。
一番最後のクラスは,「最後くらい英語で」と煽られたので,突如英語に切り替えて話した。
自分の言葉の浅さを刻んでおくことも,きっと必要なことだろうと思うので,以下書き残しておこう。

Thank you for taking my classes for three years. It was a great experience for me.
Today is the last day for me to see you all in the class, so I'll talk a little bit about what I think about my classes and your future.
When I was a high school student, I was not good at English. My teacher always told me to work hard on English. That's why, when I see some of you who are not so good at English, that's why I didn't think at all that you won't be able to use English in the future. Rather, when necessary, I bet you'll be able to work hard on English so that you can solve your own problem about your English.
And that belief led me to believe that I should choose my teaching material from the real world. Do you remember Obama's speech in Hiroshima? It was two years ago you watched it. I still remember the day I had you watch his speech. Most of you, including those who are usually sleepy during class, watched the video carefully. That made me believe that not only I, the teacher, but also the students get interested in the material when it is related to the real world around us. From then on, I've chosen various topics happening around the world: U.S. Presidential Election, TEDEd Videos, and 'Crooner' written by Kazuo Ishiguro. I'm not sure how you feel toward my materials, but I now think it was a little too hard for those who are not so good at English. One of my biggest regrets is that I couldn't care enough for those students.
Another big regret is related to those who are really good at English. Every class has some students who are really good at English. It was a kind of pressuring experience for me to 'teach' English to them.
And though I've had such brilliant students, I couldn't have them share their thoughts much in my class.

These are what I now think reflecting my classes for three years.

Now I'll give you a really practical tips about the entrance exams.
When you take and hopefully pass the entrance exam, who are you going to tell the result first? Your friends? No. Twitter? Nope. You may think it's your parents. But surprisingly, no! I suggest that you should call your grandparents first. Here's how it works:
'Gramma, I passed the entrance exam!'
'Oh really? Congratulations! Have you already told your mother and father?'
'No. I want you to know it first!'
...This is how you can double the amount of money you get from your grandparents ;)

Well, you might think it's impolite to your parents. I agree. So I'll give you another way to express your love to your parents.
On the day of your entrance exam, when you are about to leave your house, you open the door.
And then you stop and turn around, looking into the eyes of your parents, and say 'Thank you for everything you did for me until today. I'm not sure what happens from now, but I'll try my best.'
As soon as the door closes behind you, your parents must be moved so much.

Please note that it would be a word of your gratitude for your parents. But for yourself, it should be a word of independence. Now you're a high school student, and what you want to do is basically not against what your parents want you to do. But from now, especially when you choose your future career, there may be some conflicts between you and your parents. But remmember, you will by then be an independent person. So it's up to you what you do. So, when you leave your house on the very day of your entrance exam, please say the words in order to thank your parents and to become independent from them.

Last but not least, thank you again for being my students*1. I hope you'll do your best.

*1:これ言いながら,日本語では言えないな,と思ったりした。外国語は不思議だ。笑

9年前の日記

を,発掘した。
高3の頃の自分。

I miss TK. 2008,12,3
HTRの「インポッシブル」とどっちを題にしようか迷ったけど、やっぱりこっちにしました。
KWSの名言。

朝早起きして自習at学校。
これいいな、と思ったけどもうやる日がない‥泣


ライティングはよかったね。
クラスみんなまとまってる感じが。
特にYSIの発表のときは自然にみんなが姿勢正したりとかね笑

それにしてもHTRは神。
すごく感動した。


ラストサッカーはヘディングシュート(≠ゴール)できたから満足だ。
オウンゴールも誘えたし。

英語テストもそこそこだったから、あとはセンター頑張りましょう。



にしても先生は最後を惜しまなすぎだと思った。
なんだかとゆう。

ってことで僕はED GC YGちゃんと最後を惜しみ惜しみ帰りました。
チキンカツのおばちゃんすごいー

塾ではまた足だるくて予習もろくに終わらずなえ。

中村先生のプリントのなぞなぞイイ!
ラストに地味に感動した。


頑張ろう!

今みている高3生と自分を無理矢理に重ねてみる。笑
(一応配慮を見せて固有名詞はイニシャルにしてみた。)

ちなみにこの日記に出てくる「かとゆう」というのは英語の先生。自分は先生に対して「最後を惜しめよ」と思う生徒だったみたいだけど,はてさて9年後,私は最後を惜しんだんでしょうか。

当然のように最後の最後までサッカーをしていたらしい。ふむふむ。

大掃除中にジャンプの山みつける以上の作業止まり具合。なんと5年分もあるぞ,リアル黒歴史が。

生まれは育ちを通して

読みました。先の記事で紹介された本。

やわらかな遺伝子 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

やわらかな遺伝子 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

「生まれか,育ちか」というのは教育分野においても重要なテーマだけれど,この点について「生まれは育ちを通じて」という新しい概念を提唱した作品。これでもかというほどの具体的な実験内容が列挙されていて,正直消化不良な感は否めない。笑

ということで,備忘録的に一部抜粋。

 思うに,トゥービー―コスミデスの言う遺伝子の素晴らしさは,まさにここにある。ほかの六つの定義を統合し,さらに七つめの定義を加えているのである。それは,ドーキンスの言う自己主張をする遺伝子であり(何世代にもわたって生き残りの試練を乗り越えようとしている),メンデルの言う書庫であり(膨大な年月の適応進化によって得た知恵が記されている),ワトソン―クリックの言うレシピであり(RNAを介したタンパク質の生成によってその影響を及ぼしている),ジャコブ―モノーの言う個体発生のスイッチであり(特定の組織でのみ発現する),ギャロッドの言う健康をもたらすものであり(想定された環境のもとで健康な成長をもたらす),ド・フリースの言うパンゲンでもある(同じ種や別の種でさまざまな個体発生のプログラムにおいて利用されている)。だがもうひとつ別の意味もある。それは,環境から情報を引き出す装置でもあるのだ。
 Y染色体上にある雄性化にかかわるSRY遺伝子は,社会学者を憂鬱にさせるタイプの遺伝決定論の担い手に見えやすい。前にも示唆したように,SRYが一連の事象のきっかけとなって,(一般に)男性はソファーに座ってビールを飲みながらサッカーを観戦し,女性はショッピングをしたりおしゃべりをしたりする。ところが別の見方をすれば,SRYは見事なまでに「育ち」のしもべでもある。その仕事と目的と欲求は―下流にある何百もの遺伝子の助けを借りて―主である生物の育つ環境から,特定の種類の情報を引き出すことにある。たとえば,男性の身体の成長に必要な食物,精神の発達に必要な社会的誘因,性的嗜好の発達に必要なジェンダーの誘因,それに,現代社会における男性性を表出させるのに必要なテクノロジー(おもちゃの銃やリモコンなど)さえも選んで引き出すのだ。だがSRYは―というより,SRYが起動する個体発生のプログラムは―環境の変化によって操られ,順応する。中世ヨーロッパの男の赤ん坊を,現代のカリフォルニアへ連れてきたら,きっと剣や馬でなく銃や自動車に興味をもつだろう。だからSRY遺伝子は,環境の引き出し役のように見えてしまうだけなのである。
 ここでまた,著者からのメッセージがある。遺伝子は,情け容赦のない小さな決定者で,繰り返し同じメッセージを生み出している。しかし,プロモーターが外部からの命令によってスイッチのオン・オフをしているのだから,遺伝子の活動が最初から決まっているとは言えない。むしろ,遺伝子は環境から情報を引き出す装置なのだ。あなたの脳内で発現する遺伝子のパターンは,多くの場合,時々刻々と,体外の事象に直接あるいは間接的に反応して変化している。遺伝子は経験のメカニズムなのである。(pp.402-404)

その次の第10章「逆説的な教訓」から,7つの教訓も引用しておこう。

  1. 遺伝子を恐れるな。遺伝子は神ではなく,歯車なのだ。
  2. それでも良い親になることは重要なのである。
  3. 個性は,素質を欲求で強化することによって生み出されたものである。
  4. 公平な社会では「生まれ」が強調され,不公平な社会では「育ち」が強調される。
  5. 遺伝子と本能は,どちらも理解を深めるほど,不可避には見えなくなる。
  6. 社会政策は,ひとりひとりが異なっているということを基本にしなければならない。
  7. 自由意志は,遺伝子によってあらかじめ精妙に定められ動かされている脳と完全に両立する概念である。

4点目は言われてみるとそのとおりだなと。
つまり,たとえば学力について考えてみると,不公平な社会,すなわち限られた人にしか教育の機会が提供されない社会においては,「育ち」が決定的に大事になる。教育を受けたか受けなかったかで学力のほとんどが決まる。
しかし義務教育などが普及して,「育ち」の過程で得られる教育が均質化してくると,「生まれ」が大事になってくる,と。ふむふむ。


これをなんとなく読み終えた後,先輩の英語教育関係者と飲みに行った。
さんだーくんはナイーブだよね,的なことを言われた*1。世間の暗いところを知らないというか,どうしようもなく悪い人がいることを知らないというか。性善説性悪説の話にもなったけど,どちらにせよ先述の本で言うと「生まれ」を重視している点では変わらない。
自分としては,もちろん「育ち」の最中では変えられないものも大きくあると思いつつ,そのさなかでどんなスイッチが押されるのか,気を使っていきたいなと*2
あとはまあ,「どうしようもなく悪い人」が自分の人生に関わらないように努力していきたいところだよね。笑

*1:気がする。

*2:や,注意できるものなのかすら分からないけど。笑